第三章 動くか、否か

24:溶けた心


 また、夜が明けた。
 セリアは見慣れた天井を見つめながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 家に戻ってきてから、何日が経過しただろうか。今のセリアには、そんなことすら分からなかった。

「仕事……行かないと」

 そうは思うものの、身体が動かない。別に調子が悪いわけではない。単に、やる気が起こらないだけだ。
 それでも、生きていくためにはお金を稼がなくてはならない。貯めていたお金ももう底をつきそうだった。いつまでも抜け殻のように暮らすわけにはいかない。
 力を振り絞って起き上がると、セリアはのろのろ着替え始めた。優に一月はゴンドラの整備をしていないので、行くなら早く行かなければならない。
 一欠片しか残っていなかったチーズを口の中に放り込むと、セリアは寒さに身を縮めながら外へ出た。まだ外は暗いが、やがていつもの活気を取り戻すのだろう。

「…………」

 セリアの足は、ゴンドラを停めている波止場の方へは向かわなかった。このままじゃ駄目だというのは分かっていた。ただ、何もかもが虚しく感じられたのだ。
 父が亡くなった時、セリアはまだ十歳だった。小さい身体では、思うようにゴンドラを動かすことができず、客からはいつも罵倒を浴びせられていた。しかし、それでもセリアがゴンドラ漕ぎを諦めなかったのは、ひとえに父がセリアに教えてくれたたった一つのことだったからだろう。
 父は、寡黙な人だった。街に友人を作らず、知り合いですらほんの僅かだった。毎日波止場に出かけては、ゴンドラ漕ぎでお金を稼いで帰ってくる。それが彼の毎日だった。
 セリアは、いつも家で父の帰りを待っていた。大きくなると、時々父にゴンドラの漕ぎ方を教えて貰った。なぜゴンドラなのか、その当時は不思議で仕方がなかったが、自分が亡くなった後のことを考えて、娘が自力でお金を稼ぐ手段を考えてのことだったのだろう。やがて、父はセリアに大きくなったら字を教えてくれると約束もしてくれたのだが、結局それがかなうことはなかった。その前に、父が亡くなってしまったからだ

 父が亡くなってから、セリアは本当に独りぼっちになった。その父の記憶ですら、幼い頃に亡くなったため、記憶が定かでない。セリアが微かに覚えているのは、ゴンドラを漕ぐ父の逞しい腕と、ゴンドラの漕ぎ方を教える、彼の口元だけ――。
 ゴンドラ漕ぎの仕事は、その場限りの付き合いだ。たった一度乗せただけの客を、運良くセリアが覚えていても、その逆はない。

 あまりにも長い間、セリアは一人で生き過ぎていた。人と関わらないあまり、怒りを、悲しみを、楽しさを感じる感覚を忘れてしまった。麻痺していたのだ。
 客に金を投げ捨てられても平気だし、酔っ払った客に殴られても平気。臭い臭いと囃し立てられても笑えるし、暴言を吐かれても謝れる。それは、感覚が麻痺していたから。
 何もかもがどうでも良かった。だって、その日を生き抜くことができれば、それで良かったから。人と深く話さないことも日常茶飯事だったので、特別寂しいとも思わなかった。それが普通だった。
 なのに――それなのに、誰かが傍にいないことが、こんなに寂しいことだとは思わなかった。
 こんな感情、知りたくなかった。ずっと冷たく凍った心のままだったら、こんなにも温度差に震えることはなかったのに。隙間風に怯えることはなかったのに。
 今、この家には。
 起きたらおはようと挨拶を返してくれる同居人はいない。遊びに行こうと誘ってくれる友達もいない。勉強頑張りましょうと笑いかけてくれる先生もいない。
 それがどれだけ寂しく、自分を惨めにさせるか分かったものじゃない。
 かつてのあの日々が、全て身分不相応だったのだと、そう目の前に突きつけられているようで、恥ずかしくて仕方がなかった。

 実際、セリア自身もそう思わずにはいられなかった。たまたま――本当に偶然サリムと出会っただけなのに、図々しくも彼らの間に入って、はじけるような毎日を送った。
 でも、本当にそうなのだろうか?
 本当に身分不相応だったと? 私が望む幸せなんて、そんな大層なことじゃないのに。友達がいて、一緒にご飯を食べて、話して、遊んで。そんなことだけで良かったのに。
 そんな些細なことすらなかった今までの生活はどんなだっただろうか。自分が傷つかないように、感覚を鈍らせて、凍らせて。

 でも、その先に何があった?

 今までを振り返ってみても、自分の今までに、価値があるとは思えなかった。
 でも……でも、あの地下神殿で暮らすようになってからは違った。何度も笑ったし、怒ったし、頭を働かせた。分からないことでも、ひたすらに考えた。いろんなことを話した。学んだ。生きているということを、あのときほど実感した瞬間はなかった。
 あの日々を忘れて、また一人の生活に戻る? そんなの、到底できない相談だ。

 雑踏の中、セリアは途方に暮れ、その歩みは次第に遅くなっていく。

 でも、だとしても、どうすればいいのだろう。セリアと人魚達とを繋いでいた縁は切れてしまった。どうあがいたって、もう彼らと連絡を取る術などないのに。

「ちょっと! のろのろ歩かないでよ!」

 肩に軽く衝撃があった。セリアはよろめきながら、頭を下げる。

「あっ……すみません」
「ちゃんと前を見なよ!」

 忌々しげに女は叫ぶ。セリアはぺこぺこ頭を下げた。そんな彼女に、女はさらに眉をひそめる。

「あんた、臭うよ。そんな身体で町中歩かないでくれる? こっちにまで臭いが移るじゃないか」
「す、すみません」
「本当だよ、ったく……。って、何も泣くこたないじゃないか。まるであたしが悪いみたいに」

 女はまるで逃げるようにその場を立ち去った。
 セリアは、その時になって初めて自分が泣いていることに気がついた。

 ――そう、傷つかないわけじゃないのだ。セリアだって年頃の女の子だ、飽きるくらいいろんな人に臭い臭いと言われて、傷つかないわけがない。

 傷ついているなんて思われたくなくて、恥ずかしくて情けなくて、今まではその気持ちを押し殺していただけだ。笑って受け流すセリアを良いことに、何度も攻撃的な言葉を投げかけられれば、誰だって感覚が麻痺してしまう。

 臭いで迷惑をかけるのは申し訳ないと思う。でも、それが仕事なんだもの、仕方ないじゃない。

 セリアは、しっかりとした足取りで銭湯に向かった。今まではお金がもったいなくて、銭湯になんてほとんど行かなかったけど、これからは定期的に行こう。もう二度と馬鹿にされないように。もし何か言われても、言い返さないと。カイルやサリムに、顔向けできるように。