第二章 人間か、人魚か

23:別れ


 一体何日が経ったのだろう。
 食事を届ける際、ちょっと酔っ払った看守がいろいろと世間話をしてくれるが、やがてまた日数感覚もなくなっていく。壁に何か印でもつければ良い話だが、そんなことをして、文化的な生活が戻ってくるわけでもない。
 セリアは、日がな一日鬱々として過ごした。気がかりなことはたくさんあった。カイルはあの後どうなったか、サリムも捕まってしまったのだろうか、私のことは、もう皆に知れ渡ってしまったのか――。
 暗い部屋に一日中閉じこもっていれば、誰だって考えも暗くなる。元々セリア自身暗い思考の性格なので、一層それに拍車がかかっていた。
 不意に、パシャリと水音がたった。ネズミでも水路に落ちてしまったのか。そう思って顔を上げ、目を凝らせば、暗闇からじんわりと浮かび上がってくる人影に、彼女は背筋を凍らせた。

「ウェルナー先生、サリム!?」

 そうして、慌ててセリアは自分で自分の口に手を当てた。看守に聞かれてしまってはまずい。ウェルナー達が水音をたてないようにして、セリアの檻の前までやってきた。

「い、一体どうしてここに!? カイルは? カイルは大丈夫?」
「今部屋で軟禁状態だよ。お姉ちゃんのこと心配してた」
「そっか……」

 セリアはホッと行き着くが、すぐにまた別のことが頭をよぎる。

「サリムは大丈夫だったの?」
「うん。いくら待ってもお兄ちゃん達が帰ってこないから、夜、自分で這って戻った」

 えへん、とサリムが胸を張る。思いも寄らない行動力と勇気に、セリアは思わず笑ってしまった。

「でも良かった。サリムだけでも無事で。でも、どうしてここに? 危なくなかった?」
「こんな状況になってしまえば、もう怖いものはありませんからね」

 ウェルナーは、笑って懐から鈍く光る鍵を取り出した。そしてカチャカチャとセリアの檻と奮闘し始め、ようやく彼女も合点がいく。

「な、どうして鍵を……。それに、先生に迷惑がかかります」

 彼が、誰の許可ももらっていないことは明白だった。サリムならまだしも、大人であるウェルナーまでこんなことに手を貸してしまえば、厳罰だけではすまないかもしれない。

「私、ここでいいんです。元はといえば、私が地下神殿に来なければ良いだけの話ですから。私のせいで、皆に迷惑柄かけてしまって」
「子供はそんなものですよ。それに、自分でしたことの落とし前ならまだしも、親の尻拭いで、こんな所に押し込められる理由なんてあってはなりません」
「でも――」

 セリアが何か言うよりも早く、ウェルナーは檻を開いた。

「出ましょう」
「……無理矢理出たからと言って、私が行ける場所は……」
「地上に帰るんです。元いた場所に」

 呆然と口を開き、セリアはウェルナーを見つめた。

「地上って……でも、私は!」
「はい。お姉ちゃんの部屋から、ペンダントとゴーグル持ってきたよ」

 水路から伸び上がり、サリムはその二つをセリアの手に押しつけた。懐かしいさわり心地だった。

「今が最後の機会かもしれないんです。この時を逃せば、あなたはもう二度と地上へ戻ることはできませんよ」
「このままずっと牢屋暮らしでもいいの?」

 サリムまでもが、懇願するようにセリアを見つめた。言葉に詰まり、セリアは一歩引く。

「そ、それは……」
「お兄ちゃん、言ってたよ。ここで暮らしてたら、いつかきっと後悔する日が来るって。お兄ちゃん、初めて外の世界を知って、余計そう思うようになったって。暖かい太陽に、時間によって変わる空、商いをするたくさんの人たち、どこへだっていける運河――」

 言葉を切って、サリムはセリアに近づいた。跪く彼女の手をしっかり握る。

「お姉ちゃんは、僕たちとは違うから、自由に生きて欲しいって。僕たちの代わりに、自由に」

 セリアは押し黙った。彼らの気持ちは痛いほど分かった。確かに、自分が同じ立場でも、そう思うだろう。でも、地上に帰ることが、自分にとって幸せなことなのだろうか。

「先生に掴まっておくだけでいいから」

 サリムの後ろから、にゅっと二つの腕が飛び出してきた。あっと思う間もなく、セリアは水路の中に引きずり込まれた。気がついたときには、半身を水に浸し、ウェルナーの背にのしかかるようにして倒れ込んでいた。

「しっかり掴まっておいてください」
「――っ、先生!」

 それからはもう一瞬の出来事だった。目にもとまらぬ速さで水路を進み、ウェルナーが小さく『呼吸を止めて』と言われた後は、すぐにざぶんと水の中に潜り込まれた。いくら普通の人よりも呼吸を長く止めていられると言っても、セリアとて見た目はただの人間である。やがて息苦しくなり、眉間西和賀より始めたとき、ようやくウェルナーは?上へ出た。慌てたようにセリアは何度も酸素を取り込んだ。

「大丈夫?」

 心配そうな顔でサリムがトントンとセリアの背を叩く。

「うん……ありがとう」
「でも、何とか突破できましたよ。後はもう、この水路を行くだけです」

 振り返れば、牢屋へと続く扉が小さく見えた。看守の目をやり過ごすために、わざわざ水に潜ったのだ。
 しばらく、セリアはウェルナーにしがみついたまま、静かに水路を泳いだ。辺りは薄暗い。夜なのだ。
 やがて、目の前に鉄格子が現れた。水路と通路とをまたいだ大きな格子だ。水の中にも鉄格子が張り巡らされ、下を通っていくことはできない。ウェルナーは、水路から伸び上がって、鍵で錠前を開けた。辺りに響くさび付いた音に、三人は身体を強ばらせた。

「僕はここでお別れだよ。見張っておかないと行けないから」
「サリム――」
「お姉ちゃん、さようなら。またいつか会えると良いね。元気でね」
「サリム、私……」

 言いたいことが、定まらない。こんな別れだとは思わなかったからだ。もっと――もっと、幸せな離別だと思っていたのに。いや、そもそも別れが来ることすら想定していなかった。

「サリム……元気で」

 ようやくの思いでそれだけ言うと、ウェルナーはセリアを担いだまま、鉄格子をくぐった。首が痛くなるほど振り返り、セリアはサリムに手を振った。

「先生……」

 セリアの小さな声が、何度も反響した。

「私……また皆に迷惑をかけたまま、今までのようにのうのうと暮らさないといけないんですか? 私のせいで、カイルもサリムも、先生だって、どんな目に遭うか!」
「良いんですよ、私のことは」

 ウェルナーは笑って受け流した。

「前に話しましたよね。海へ帰る計画を、私たちは着々と進めていると。私たちは、海の経路を伝って逃げ出しますが、その時、牢屋のあなたまで助けられるかは分かりませんでしたので」

 セリアは小さく息をのんだ。

「その時が来たんですね? 近々、その計画が動き出すんですね?」

 その勢いのまま、セリアは興奮状態で言いつのった。

「私にできることはありませんか? 私も何かお手伝いがしたいんです!」
「危険なんですよ。子供は巻き込めません。――ほら、今からもう地上へ向かいます。この袋を口に当てて。しっかりと掴んでいるんですよ」
「せっ、先せ――」

 セリアはもがいたが、問答無用で口元に袋が当てられる。茶色い、柔らかい袋状の何かだ。ウェルナーはセリアにゴーグルも装着させた。

「では行きます」

 一呼吸の後、ウェルナーは深く水の中に潜った。咄嗟のことに、セリアは反射的に大きく息を吸ってしまった。だが、不思議なことに、口の中に入ってきたのは、水ではなく空気だった。呆然としたまま、しばらく呼吸を繰り返す。
 セリアが理解できないまま、ウェルナーは今度は浮上を開始した。紛れもなく、今二人がいるのは海の中だ。それなのに、地上と同じように呼吸ができるのはなぜだろう。ウェルナーからもらった、この袋のおかげなのだろうか。
 海の中は、動きにくかった。様々な沈殿物が水の中を漂い、ウェルナー達に緩い攻撃を仕掛ける。それでも、彼は臆せずどんどん地上へ向かった。
 唐突に、水の景色が途切れた。真っ黒い海が終わり、今度は夜が姿を現したのだ。ウェルナーは素早く辺りに目を走らせ、周囲に人がいないか確認した。誰もいないのを見て取ると、安堵の吐息を漏らし、セリアを歩道へ上がらせた。そのまま黙ってまた海へ潜ろうとするウェルナーの腕を、彼女はしっかり掴んだ。

「本当に私にできることはないんですか? 地上で手助けすることはできないんですか?」

 必死の懇願だった。自分だけ安全なところでのうのうと暮らすなんてできなかった。何より、皆のために、何かがしたかったのに。

「あなたを危険な目に遭わせるわけにはいきません。今までのように幸せに暮らすこと。ただそれだけがカイルとサリムの望みですから、」
「先生!」

 小さく頭を下げて、そのままウェルナーは闇夜の海に溶けていった。このまま海に飛び込んで、彼を追うこともできる。だが、それはまた同じことの繰り返しだ。
 セリアはその場でがっくりと項垂れた。びしょ濡れになった身体が外気に触れ、酷く寒い。だが、そのことにすら気づかなかった。ウェルナーの言葉が、頭の中をグルグルと回っていた。反論したかったのに、言い返したかったのに、彼はもうここにはいない。
 私にとっては、地下神殿での暮らしの方が、ずっと幸せで、大切だったのに――。