第二章 人間か、人魚か

22:出戻り牢屋


 マリーナの音貝演奏が終わると、楽会はそれで幕を閉じた。参加者達はおのおの立ち上がり始めた。帰宅のため、彼らはそれぞれの使用人を連れ、出口へと向かう。その一方で、セリア達は、そのままずっと息を潜めていた。このまま、神官達の出入りがなくなるのを待つつもりだった。
 音貝の片付けに、会場の掃除、照明器具の手入れ――それらが終わると、ようやく神官達は引き上げ始めた。しばらく待ってみて、誰も来ないのを確認すると、セリア達は人心地つき、そろりとカーテンから這い出た。

「何とかバレずにすんだみたいだね」
「でもここからが大変だよ。すぐにサリムの所に行かないと」
「うん。お金持ち達が帰り始めたら、部外者の俺たちは目立つ。すぐにでも出て行かないと」

 しかし、扉越しに外の様子を窺っていると、幾人かの足音に気がついた。こちらへ向かっているようで、セリア達は慌てて再びカーテンに身を隠した。
 そう時を置かず、扉が開く。中から入ってきたのは、初老の老人と、幾人かの神官達だ。老人は大神官と呼ばれていた。
 彼らは、次の講演に向けての準備をしていた。機材を舞台に持ち運び、うまく運用できるか調べていく。やがて、大神官が徐に口を開いた。

「カーテンを閉めよ」
「――っ!?」

 内心、セリア達は焦った。カーテンを閉められてしまったら、彼女たちにはもう隠れる場所などない。みるみる日の目にその姿を現した。

「なっ――!? お前達! 一体どこから侵入した? 楽会の参加者か?」

 一人の神官が、ツカツカと歩み寄り、カイルの腕を掴んだ。だが、すぐに彼の胸元のペンダントに気がつく。

「お前――これ」

 神官は、険しい表情でカイルのペンダントを鷲掴みにした。しまった、とカイルの顔が歪む。

「どうやって地下から来た? もしや、楽会に忍び込んだのか?」

 凄みのある声に、セリアはふるえる。だが、カイルは臆せず応えた。

「俺たち……ほんの出来心で。楽会をちょっと見たら、すぐに帰るつもりだったんです」
「地下神殿を出ることは重罪だぞ。牢屋に入れられても文句は言えまい」
「今回だけ見逃してください! 亡くなった母の音貝が聞きたかったんです!」

 涙ながらにそう叫ぶカイル。彼の演技力に、セリアは呆気にとられた。こんな状況でも冷静になれるなんて、彼は本当にすごい。
 次第に、神官達の瞳に同情の色が宿る。

「お前達……名は」
「カイルです」
「……セリアです」

 不意に、神官の更に後ろ――初老の神官が、顔を上げた。誰かに似ているような、と思った瞬間、彼は歳に似合わぬ俊敏さで、セリアの腕を掴んだ。

「――っ」

 そのまま腕をひねり上げられ、セリアは声にならない悲鳴を上げた。だが、彼は動きを止めない。そのままセリアの肘の裏をジロジロと見つめる。

「あ、あの……」
「お前の父の名は」

 ギロリと彼の眼光がセリアを射貫く。瞬間、彼女は肩をビクッと揺らした。
 彼は、父のことを何か知っているのだろうか。何か確信があって聞いているのだろうか。

「オスカーか?」

 セリアの身体が強ばる。どうすれば良いのか分からなかった。思わずカイルに助けを求めれば、彼もまた、真っ青な顔をしていた。

「どうした、答えろ! お前の母はマリーナ、そして父親はオスカー! 違うか? いや、相違ないだろう!」
「あ、あなたは……」
「私か? 私はハイラム。オスカーの父親だ」

 信じられない思いで、セリアは目の前の人物を見上げた。白髪交じりの、厳しい顔つきの老人――。確かに、おぼろげにセリアの中に残っている父の面影が、うっすらと目の前の彼と重なったような気がした。でも、それにしたって。

「地上へ逃げ出した後、あいつは、一度だけ手紙を寄越してきたことがあった。マリーナが病気だから、人魚を看られる医者を連れてきて欲しいと」

 ハイラムは鼻で笑った。

「――まだその辺の医者に手当たり次第診せないだけマシだったかもしれん。だが、私は息子の願いを聞き入れなかった。それどころか、あいつが指定した場所に衛兵をやった。うまく逃げ切ったようで、オスカーは捕まらなかったが」
「…………」
「その手紙に、お前のことも細々と書いてあった。お前の名とともにな」

 ただ乱暴に降り注いでくる言葉を、セリアは必死に頭の中で整理していた。
 肉親関係にあるのに、自分の息子なのに、どうして彼は父を助けようと思わなかったのだろうか。息子よりも、掟の方が大事だったのだろうか。秩序を守る方が――。

「両親が憎いんですか?」

 震える手を、もう一方の手で押さえ込んだ。

「あんな所に閉じ込めなければ、両親は逃げようなんて思わなかったはずです。他の人魚だって、もっと幸せに暮らせたはずなのに」
「――地下神殿で暮らすうち、人魚達の考えに染まったか」

 ハイラムは、もはやセリアを見ようとはしなかった。

「いや、そもそもお前はあいつらの末裔だったな。もとより私たちとは違う存在だ」

 そして背を向け、短い言葉で言い捨てる。

「――その娘を牢屋に入れろ」
「なぜですか!」

 すかさずカイルが食ってかかった。

「なぜセリアがまた牢屋なんかにっ! 彼女は地上の人間です! 地下神殿の掟には全く関係ないはずです!」
「関係ない? 笑わせるな。その娘は一番掟に関わりのある娘だ。忌々しい大罪人の子供なのだからな」
「あなたはセリアの祖父なんでしょう!? だったら、見逃してくれたって――」
「血縁関係があることすら不愉快だ。もう顔も見たくない」

 吐き捨てられるように言われても、今のセリアには、何も響かなかった。
 ただ、悲しいのは。
 父が私のことを思ってくれたように、父もまた、祖父から同じように思われていなかったことだけだ。


*****


 セリアは、再び地下神殿の牢屋に出戻りすることになった。馴染みとなった看守には、呆れたような、同情するような目で迎え入れられた。
 幸か不幸か、前回入れられた牢屋よりも、新しい牢屋は、幾分か居心地が良かった。小さくないし、そんなに不潔でもないし、何より、寝床が綺麗だ。
 静かな牢屋の中、セリアはごろんと横になった。ずっと気を張り詰めていたので、疲れてしまったのだ。
 黒い天井を見つめながら、徐に左手を伸ばした。袖をまくり、肘の裏のアザを日の目にさらす。
 ――何て皮肉なことだろう。このアザのことを知っているのは、自分の肉親だけだと思っていたのに。
 息子にだって欠片の愛情もないのに、孫の名前と、その肘にあるアザを覚えていたのか。
 セリアは目を閉じ、嘆息した。
 そうして、これから自分はどうなるのだろうと考える。
 罪人の娘だったとして、セリア自身が何かやらかしたわけではない。ただ、このまま地上へ帰すことは決してできない相談だろう。セリアが地下神殿のことを漏らすかもしれないし、何よりそんなことをすれば、セリアの両親を憎んでいる人魚達から反発を食らうかもしれない。
 一体何人の人魚が、掟を厳しくさせる要因となった両親のことを恨んでいるのかは分からない。だが、その一定数いる人魚達の気に障らないためにも、目につかない場所――牢屋に、セリアは一生閉じ込められてしまうのかもしれない。
 しかし、そうなったとしても、セリアには抗議することはできないだろう。両親のしたことは、娘ながら申し訳ないと思ったし、あの優しい人魚達のためならば、自分のちっぽけな犠牲だって厭わない考えだった。
 ――今までだって、ずっと独りぼっちで暮らしていたのだから。
 暮らす環境が牢屋になっただけで、内実はそんなに変わらない。