第二章 人間か、人魚か
21:楽会へ
小さく、控えめに扉をノックする音に、セリアはすぐに立ち上がった。同室のサンドラはまだ寝ている。
たまたま早く目が覚め、身支度ももう終わっていたセリアは、一旦外に出てから尋ねた。
「一体どうしたの、こんな朝早くに?」
カイルとサリムは、互いに顔を見合わせ――示し合わせたように同時に囁いた。
「楽会に行こう!」
「楽会って……でも、私たちは入れないんじゃ」
「こっそり侵入するんだよ!」
「…………」
突拍子もない提案に、セリアは呆れるよりも、いっそ思い悩んだ。どうすれば、この兄弟を落ち着かせ、そして諦めさせることができるのか、と。
「どうやって? 私たちはそもそも地下神殿から出られないし。それに、もし見つかったら大変な目に遭うよ」
「大丈夫。地下から出る方法は分かってるし、見つかったとしてもそれはそれで仕方ない。腹をくくるよ」
「だからってね……」
セリアは頭を抱えた。彼女とて、母の歌声を聞ける者なら聞きたい。だが、それには途方もない危険が伴うのだ。セリア一人が罰を受けるのならまだしも、カイル達に迷惑をかけることがあっては、後悔してもしきれない。
「俺たちを信用してよ」
そういう問題ではないのに、カイルは真剣な瞳でセリアを射貫いた。
「セリアだって、お母さんの歌声、聞きたいでしょ?」
「そりゃ、聞きたいけど……」
「だったら行こうよ!」
サリムに続いて、カイルは頷く。
「俺が君にペンダント押しつけたとき、友達だからこんなのいらないって返してきたよね? 俺たちだって、今同じ気持ちだよ。友達だから何とかしてあげたい。ただそれだけ」
そうして息を整え。
「友達、でしょ?」
カイルの言葉は、セリアの心にじんわりと染みていった。温かくて、優しい響きの言葉。
「――ありがとう」
「決まりだね。じゃあ早速行こう」
カイルに強く手を引かれ、危うくセリアは転びそうになった。
「でも、どこへ――」
「目星はつけてるんだよ。ついてきて」
まだ人気のない通路を、三人は静かに歩いた。目的のある歩き方だったので、セリアはこれ以上聞くに聞けず、黙ったままだった。
しばらく歩いてたどり着いたのは、手洗い場だった。男女で別れているが、カイルは躊躇う様子もなく男子の方へ行く。セリアは彼の手を引いた。
「私も入るの?」
「今誰もいないから」
カイルはなんとはなしにそう応えた。思わず彼を黙って見つめるセリア。
――カイルは女心というものが分かっていないのだろうか。
セリアは複雑な気持ちになったが、ここまで来て引き下がるわけにはいかず、おずおすと彼の後に続いて進んだ。
「数年前、夜中に起き出して、ここで用を足したことがあったんだけど。その時、不意にこの扉が開いたんだよね」
言いながら、カイルは腰を曲げ、足下の小さな扉を叩いた。
「多分、汚物の処理は夜中にやってたんだろうね。そこから手を出した使用人と、用を足してる俺とが目合っちゃって。もう恥ずかしいのなんのって」
軽く笑ってはいたが、カイルの目は笑っていない。子供心に、酷くヒビが入っただろうことは、容易に見て取れた。
「それからは、夜中に手荒いに立つことはなくなったよ。二度とそんな情けない目に遭いたくなかったからね」
「……そんなことがあったなんて。お兄ちゃんも苦労してたんだね」
「サリムも気をつけろよ」
「うん」
いつもと違って、大人しい兄弟。今は絶対に笑ってはいけない瞬間だと、頬の内側を噛んだ。
「それはそうと、もしかしてこの扉から侵入しようってこと? でも、ちょっと無理なんじゃないかな? サリムはともかく、私たちは――」
「うん、だからサリム、行ってくれる?」
「へ!? ぼ、僕が行くの!?」
突然自分の白羽の矢が立ったサリムは、うわずった声を出した。
「そうだよ。一旦中に侵入して、中からこっちの扉を開けてよ。閂をかけてあるだけだから、すぐに開くと思うよ」
カイルが指さしたのは、個室便所の外に設けられている扉だ。内側にドアノブがあり、そのノブも回せないことはないが、カイルの言ったとおり閂がかけてあるのか、開けることができない。おそらく、掃除のために設けられた簡易的な扉だろう。
「……分かったよ。まあ仕方ないか」
サリムは渋々頷いた。カイルに抱えられながら、小さな扉からズルズルと奥へ入っていく。
「行けたか? 右だからな。すぐそこに扉があるだろ」
「うん、あったけど」
しばらくして、閂の外れる音が響いた。誰かがこの音に気づくのではないかとセリアは一瞬ヒヤッとしたが、しばらく待ってみても、誰かが駆けつけてくるような音はしない。
「行こう」
カイルと共に、セリアは扉を抜けた。これでようやく地下神殿を脱出したことになる。セリアはホッと息をついた。
「確か、祭殿の間で楽会があるんだよね? どこにあるんだろう」
「大丈夫、僕に任せて」
セリアの不安げな呟きに、サリムは得意げに胸を叩く。
「とりあえず移動しよう。地下のどこかに大きな水盤があるって聞いたことあるんだけど」
一行は、辺りを窺いながら、その部屋を出た。地下にはまだ人は少なく、容易に歩き回ることができたが、サリムを抱えての移動は、なかなかに手間取った。だが、彼には彼なりの役目があるのだ。
「見つけたよ、水盤!」
片っ端から部屋を開けていると、やがて水盤のある部屋に行き当たった。水盤には排水設備が設けられており、室内で滞留しているわりには、それほど汚くは見えない。
カイル達は、サリムをその水盤にそうっと下ろした。サリムは時間が惜しいとばかり、水の中に全身を沈めた。
てっきり、セリアはサリムが水浴びをしたいのだと思っていた。ほんの少しの時間だったが、水のない状況でセリア達に運ばれ、水が恋しかったのだと。だが、サリムはそれからしばらく経っても、なかなか水の中から浮き上がってこない。鈍感なセリアも、さすがにこれがただの水浴びではないと気づき始めていた。
「サリム、何してるの?」
サリムの邪魔にならないよう、セリアは小声でカイルに尋ねた。
「水を伝って響いてくる音に耳を澄ませてるんだよ。今頃もう楽会も始まってるだろうから、一段と音が響いてるはず」
「うん、多分分かった!」
突然サリムが顔を上げた。水に濡れた顔で、晴れやかな笑みを浮かべる。
「あっちの方だよ。微かに聞こえてきた」
「よくやった、サリム!」
「お礼を言うのは、全部終わってからだよ」
大人びた表情でサリムはそんなことを言った。一本取られたカイルは、複雑そうな表情になった。
サリムが言うには、一階の奥の方で音貝の音色が聞こえてきたため、そこが祭殿の間だろうとのことだった。常時サリムを抱えたまま、人の目が多いだろう一階を通ることは難しく感じられたため、サリムはこのままこの水盤に置いて行くことにした。セリアとしては、誰かに見つかるのではないかと不安で仕方がなかったが、一蓮托生だというカイルの言葉を信じて、サリムと別れた。
部屋を出ると、すぐに一階へと上がる階段を探し当てた。 一階には、神官だけでなく、様々な人の姿があった。人の出入りが頻繁な出入り口があるし、神官達の目も鋭くなるはずだ。大人達ばかりの中、カイル達の姿は非常に目立ったが、神殿に子供がいないわけではないので、不審そうに見られるだけで、声をかけられることはなかった。始めはビクビクと廊下を歩いていたものの、次第にそのことが分かってくると、大胆に足早に移動することになった。
「もう始まってるから、急がないと終わっちゃうかも」
だが、そんな言葉とは裏腹に、カイルの足は、サリムが指さした先とは真反対に向かう。
「あっちじゃなかったの?」
「多分、そこは正面入り口なんだと思う。俺たちはそこからは入れないから、裏口から入れたらと思って。神官達が出入りするような入り口」
楽会が催される会場は、神殿の一階中央で行われており、その周りを通路と他の用途の部屋がぐるりと囲っているようだ。カイルが言うには、その通路から、会場へ出入りできる裏口があるという。
カイルの予想通り、通路の行き当たりに、それらしき裏口があった。神官達が頻繁に出入りしており、その手には、大切そうに音貝を持っている。
彼らの隙を見て、二人はこっそり中に侵入した。丁度会場の舞台裏のようで、セリア達は、舞台の隅のカーテンに身を寄せた。ここくらいしか隠れる場所がなかったし、何よりこれ以上離れた場所に行くと、音貝の音色が聞こえなくなるかもしれないからだ。
楽会はもうとっくに始まっていた。丁度カーテンに隠れたときに次の音貝が流れており、カイルはピクリと顔を上げた。
「あっ、これお母さんの音貝だ」
聞き慣れているのか、彼はすぐにそう言った。続いてセリアも目を閉じて聞き入る。伸びやかなその声は、サリムから貸してもらった音貝の子守歌ではなく、何か別の曲のようだった。
その後も、いくつかの音貝が披露された。どれも本当に綺麗な歌声だった。金持ち達が、こぞって大金を出すという話は、今ならば容易に信じられた。
しばらくすると、会場の雰囲気が変わった瞬間があった。車輪のついた台座を、神官が仰々しく舞台中央まで運んできたのだ。
「では、皆様お待ちかね、マリーナの音貝にございます!」
ガラスのケースから、音貝をゆっくり取り出す。細長い音貝だった。音を大きくする音響機に設置され、音色が流れ始める。
心が洗われるような歌声だった。繊細で、それでいて力のある声。伸びやかなその声は、どこまでも続いていく。会場に何度も反響し、それが耳に余韻となって残った。歌声が止んでも、その影響力からしばし現実に戻ることができない。最後の反響が聞き取れなくなってようやく、本来の歌声がようやく止まっていることに気づくのだ。
「き、れい……」
セリアは思わず呟いた。
「本当に綺麗……!」
お母さん、お母さん、お母さん――。
これがお母さんの歌声。
セリアは唇を震えさせながら、胸の上でギュッと手を握った。
――この声で、一回でも私の名を呼ばれたなら。
卑しいことだ。歌声が聞けただけで満足だと思っていたのに、もっともっとと欲が膨れ上がる。
もし――もしも、一度でも母が私の名を呼ぶことがあれば。
きっと次なる瞬間、セリアは目の前に母が現れることを願っていただろう。