第二章 人間か、人魚か
20:不思議な音貝
カイル達のギクシャクとした雰囲気は、数日後にはもうすっかり元通りだった。もともと、友人との喧嘩を極端に怖がったセリアが、意識して先日のことを忘れたかのように努めたからだ。
だが、雰囲気は元通りになっても、一度入ってしまった亀裂は元通りにはならない。
カイルが、セリアを地上へ帰すことを諦めていないことは彼女とて分かっていた。余計な気遣いだとは思っても、彼には彼なりの心情があるのだろう。だが、先日、人魚について詳しい情報を得ることをキッパリと止められ、セリアにとってはショックな出来事だった。彼にはそんなつもりはないのだろうが、仲間と思われていないようで、悲しかった。
人魚についての秘密を知ったとしても、それを地上に漏らすようなことは絶対にしない。それはカイルだって分かっているはずなのに、彼は何をそんなに危惧しているのだろうか。
ウェルナーから字を教わりながら、セリアは隅で読書をしているカイルにチラリと視線を向ける。
読書だって、わざわざウェルナーの部屋まで来てするほどのことでもない。彼がこうしているのは、ウェルナーが余計なことを話さないか監視するためではないのかと、そう勘ぐってしまう自分のことが、セリアは嫌で嫌で仕方がなかった。
「あーあ、だんだん勉強飽きてきちゃった」
突然サリムが伸び上がり、セリアは現実に引き戻された。
「字を学ぶことには根気が必要ですからね」
ウェルナーは眼鏡を一旦机におく。
「こう考えるといいですよ。字を学んだら、自分は最初に何がしたいかと」
「したいこと?」
サリムは腕を組んで考え始めた。
「うーん、僕、ちゃんとした手紙が書けるようになりたいかなあ。お兄ちゃんを唸らせるような手紙を書いてやるんだ!」
「サリムの書く手紙はいつも誤字脱字が多いもんね」
「練習中なんだから仕方ないでしょ」
サリムはムッと唇を尖らせた。だが、すぐにコロッと表情を変える。
「お姉ちゃんは? 読み書きができるようになったら、最初に何がしたい?」
「私……私は、お母さんの日記帳が読みたいかなあ」
特に深く考えることなく、セリアは呟いた。
「お母さん、私が小さい頃に亡くなっちゃって、お母さんのこと、全く覚えてなかったから。だからせめて、日記でお母さんのことを知れたらって……」
みるみるウェルナーとカイルの表情が曇る。そのことには気づかずに、サリムは頬を緩めた。
「日記帳なら、お姉ちゃんのこともいろいろ書いてあるかもね!」
「うん、だから、いつか読めたらなって。――あっ」
その時になってようやくセリアは気がついた。母の日記帳があるのは自分の家で、そしておそらく、自分がその家に帰ることは一生ないのだと。
セリアは急に、こんなことを話しているのが恥ずかしく、そして申し訳なく思った。今更こんな話をしたところで、どうにかなるわけでもなく、むしろカイル達が責任を感じるだけだ。
何てことを口走ってしまったんだろう。
セリアがつい黙り込むと、サリムは慌てた。てっきり、母のことを思い出し、悲しくなっているのだと勘違いしたのだ。
「そっ、なっ……大丈夫だよ! きっとすぐに読めるようになるよ!」
「うん、だといいな」
サリムの懸命な慰めに、セリアは小さく笑った。カイル達が気遣わしげな視線は感じていたが、サリムの優しさを無駄にするわけにはいかない。
「それにね、お姉ちゃんのお母さんの音貝も倉庫に保管されてるかもしれないよ。後で行ってみようよ」
「……? 待ってサリム。音貝って何?」
聞き慣れない言葉に、セリアは聞き返した。
「あ、ごめんね。音貝っていうのは、えっと、歌声が聞こえる貝のことだよ」
「……うん?」
いまいちよく分からない。サリムの代わりに、カイルが説明役を買って出た。
「音貝っていうのは、歌声を閉じ込めることのできる貝のことだよ。貝を耳に当てれば、中から歌声が反響して、綺麗な音色を聞かせてくれるんだ」
「じゃあ……お母さん。お母さんの音貝もあるの?」
自然、セリアの胸は期待に膨らむ。セリアに母の記憶はない。母のことを知る手がかりは、彼女の日記だけだと思っていた時に突然舞い込んできたこの情報。期待するなという方が無理だった。
「あるにはあるのですが……」
しかし、ウェルナーの歯切れは悪い。
「人魚は、皆総じて声が綺麗なんです。人魚の歌声を聞くことは、一種の娯楽として地上で楽しまれています。セリアさんの母――マリーナは、とても歌声の綺麗な方でした。人魚の中で一番と言っていいくらい。ですから、彼女の音貝は、非常に価値があり、地上のお金持ち達にほとんど売られていきました。残存する音貝も、残りあと一つ。神殿の祭殿の間に今は飾られており、月に一度、その音色が披露される楽会があります」
「私も聞くことはできるんですか?」
「…………」
ウェルナーは、困ったように視線を彷徨わせた。たったそれだけのことで、セリアは彼の返事が分かった。
「無理、なんですね?」
「……はい」
セリアが申し訳なくなるくらい、ウェルナーはぐったりと項垂れた。
彼の返事を聞いてもなお諦められないのか、サリムは小節を握った。
「その楽会には、僕らは参加できないの?」
「その楽会には、神官と多大な参加費用を払った者のみが参加することができます。マリーナはもうすでに亡くなり、彼女の音貝は希少価値があります。そのため、参加費用がうなぎ登りに上がっていき――」
「皆で頑張って働いても無理?」
絶えきれなくなってサリムが声を上げた。ウェルナーは、悲しそうに笑う。
「無理でしょう。それに、お金があったとしても、神官が私たちを楽会に入れてもらえるとは思えません」
「そっか……」
しょんぼりと肩を落とすサリム。
セリアも、気落ちしなかったわけではない。だが、今の彼女には友達がいる。他人の悲しみを、我がごとのように悲しんでくれる優しい友達が。
暗くなってしまったこの雰囲気を何とかしたくて、セリアはわざと明るい声を出した。
「カイル達は、音貝って持ってるの?」
「えっ……」
「ああ、うん。お父さんとお母さん、二人ともの貝を持ってるよ」
少し表情が陰ったサリムの肩に手を置き、カイルが答えた。サリムの様子が気になったものの、話はどんどん進む。
「良かったら今持ってこようか。折角だし、聞いておいて損はないよ」
「でも、いいの?」
「もちろんだよ! 俺、部屋から持ってくるよ」
頷いたと思ったら、カイルはすぐに身を翻して部屋を出て行った。あまりの素早さに、セリアは目をぱちくりさせるばかりである。
しばらくして、カイルが戻ってきた。手には二つの大きな巻き貝を持っている。
「これが音貝かあ」
「うん。こっちを耳に当ててみて。これは父さんのだよ」
セリアは大きい方の貝を受け取った。丸々としていて、少しゴツゴツしたさわり心地だ。それをゆっくりと耳に当てる。
歌声は急に始まった。いや、そう思っただけで、おそらくずっとその歌声は鳴り響いていたのだろう。貝に歌を吹き込んでからずっと。
「これ、何の曲?」
低い穏やかな声で、曲調は変化に富んだものだった。
「昔から伝わる僕らの伝統音楽だよ。まず始めにこの歌を習うんだ」
「へえ……。聞いてて明るくなってくる曲だね」
「でしょ? 後で教えてあげるよ! 一緒に歌おう」
「うん」
歌なんて、ここ何年かもうずっと歌っていない。
サリムの誘いに、セリアは知らず知らず微笑んだ。
「じゃあ、次はこっち。母さんの歌だよ」
「ありがとう」
今度の巻き貝は、白く、細長い形だ。表面はつるつるしていて、誤って落としてしまわないか、セリアは冷や冷やした。
その巻き貝から流れてきた曲は、ゆったりした曲調で、優しい声色も相まって、なんだか眠たくなってくる音色だった。
「これは何の曲なの?」
「子守歌だよ。サリムならまだしも、母さん、俺のことまで
子供扱いして」
「お兄ちゃんだってまだまだ子供じゃん。大人ぶっちゃって」
「あ、そういうこと言うか?」
カイルの目が怪しく光る。
「サリムに言われたくないなー。眠れない夜、お母さんの音貝を耳に当てて寝てたこと、俺知ってるんだからな」
カイルが悪戯っぽく茶々を入れれば、途端にサリムの顔色が変わった。
「な、なんでそのことっ――!」
「大人ぶってはいるけど、誰かさんの方がやっぱりまだまだ子供だなあ――」
「お兄ちゃんの馬鹿! 絶交だ!」
サリムはぷいっと顔ごと逸らした。だが、対するカイルはどこ吹く風で、シラーッとしている。
「カイルったら……」
「そうやってくだらないことで拗ねてるところも、まだまだだよなあ」
「お兄ちゃんなんか嫌い!」
くだらない。非常にくだらない兄弟喧嘩だ。だが、なんだか無性に羨ましく思えて、セリアは眩しい思いで彼らを見つめていた。