第二章 人間か、人魚か

19:人魚の歴史


 セリアはぼうっとすることが多くなった。サリム達に大広場へ遊びに行こうと誘われても、やんわり断るばかり。
 セリアが人魚と人間の子供だというのは衝撃的だったし、それ以上に、敬愛していた両親が裏切り者として思われているとということも悲しかった。両親の行いは決して許されるものではない。でも、今は亡き唯一の家族である両親を、言い分も聞かずに非難するのも、セリアにはできなかった。
 優しい仲間達と両親との板挟みになってしまったセリアは、思い悩んでいた。自分はどうすれば良いのだろう。自分には何ができるのだろうと。
 セリアが物憂げな表情で誘いを断るので、カイル達は、しばらく様子を見ることにした。彼女の気持ちに整理がつくまで、見守るのだ。いつも通り、字の勉強は一緒に続けるが、それ以外では別行動だ。
 セリアは、ほとんど毎日ウェルナーの元にいた。勉強の日ではないときも、一人で自室にいると、暗い考えばかりが頭をよぎってしまうのだ。幸い、ウェルナーはいつも私室にいて、セリアに興味深い話をしてくれた。人魚の歴史や伝説についてだ。

 彼の話に寄れば、もともと人魚は海で暮らしていたのだ。誰に支配されることなく、自由な大海原で、仲間達と穏やかに生活していたと。
 転機が訪れたのは、人間達が沖まで魚を取りに来るようになってからだ。あるとき人間に人魚の姿を見られ、彼らのうちの一人が捕らえられてしまった。始めはただの見世物として扱われていた人魚が、次第に彼らの生息地や繁殖方法、そして身体の構造などを調べるための研究対象となってしまった。それに加え、人魚の鱗は装飾品として人気だったし、彼らのその綺麗な歌声は、金持ち達の間で娯楽としてもてはやされた。ラド・マイムの商品として人魚が世に出て行くと、ラド・マイムの象徴として敬われるようになるまで、時間はかからなかった。実際、人魚はラド・マイムの経済を支えていた。鱗は装飾品として、歌声は娯楽として、人魚をかたどった名産品まで出てくる始末。

 やがて、人魚を信仰の対象とするよう影ながら民衆を操作していた神殿は、一挙に人魚を捕らえる大々的な計画を立てた。時折海に出ては、乱暴に一人、また一人と細々人魚を捕らえてきていたのだが、人魚の種が途絶えてしまっては、ラド・マイムは終わったも同然。
 その計画は秘密裏に進められ、結局、五十を超える人魚を捕まえたのだという。捕らえた人魚達は、速やかに神殿の地下に移され、ラド・マイムの象徴としての不自由な暮らしを強いられた。

 家畜のように捕まえられ、不自由な生活。そのことに不満を持つ人魚はいたが、外敵から守られ、目新しい食事に事欠かない生活に、満足する人魚はいたようだった。だが、やがてそれにも終わりが訪れる。
 人魚にとって、海の水は必要不可欠だった。そのため、彼らが暮らしていた地下神殿は、ラド・マイムの運河と繋がっていた。しかし、海の底に人魚達が暮らしているなどとつゆ知らず、人間達はその後もずっと運河に下水や汚物を捨て続け、それらは全て人魚達の元へと沈殿してきた。腐敗し、長年蓄積された沈殿物は、徐々に人魚に影響を及ぼした。失明する者、新たな病に苦しめられる者、床に臥せったまま身動きのできない者――。

 人魚の数は目に見えて激減していった。ようやく生まれてきた子供も、身体が弱い者や、障害を有する者ばかりだった。この緊急事態に気がついたときにはもう既に遅く、慌てて地下神殿の設備を整えても、人魚達の数は右肩下がりになるばかりで、一向に回復はしなかった。

 このままでは、人魚が絶滅してしまう。

 そこで人間達が考え出したのが、人魚と人間の交配である。人魚は卵胎生で、人間との交配は可能だった。試験的に何度か交配させた結果――有用だった。人間の繁殖力は絶大だった。見る間に人魚の数は増え始め、以前の賑やかさを取り戻した。
 人魚の数が安定するようになってからは、逆に人魚と人間の交配が禁止されるようになった。人魚の血を薄めないためと、管理を容易にするためである。人魚と人間の間に子が生まれた結果、稀に人間が生まれてくることがある。人魚の血を引いてはいるものの、見かけは人間そのもので、体温が人よりも低いこと、泳ぐのが得意なこと以外は、人間とほとんど変わらない。人魚と違って、人間は太陽の光を浴びなければ体調を崩してしまう者も出てくる。人魚は地下神殿の奥深くに押し込めるだけで済むが、人間が増えてくると話は別なのだ。

 地下神殿の秘密を漏らさないためにも、そもそも人間の子供を産む可能性を潰す。
 そうすることによって、地下神殿は今までその機密を遵守し続けてきたのだ。

「それが掟ですか?」
「はい。マリーナ達はこれを破ったため、神官達に罰せられたのです」

 ウェルナーはパタンと分厚い本を閉じた。

「人間との交配がなくなったため、近年では人間の子供は生まれなくなりつつあります。ですが、稀に生まれた子供は、やはり身体が弱く、こっそり地上へ出すときもあります」
「地上へ出られるんですか?」

 セリアは驚きに目を瞬かせた。人魚は、どんなことがあっても地上へは行けないと思っていたためだ。

「人間だけですがね。地下神殿の淀んだ空気に耐えられない人間は、神殿の許可をもらって、地上で生活する権利を得ることができます。その権利も、なかなかもらえませんが」
「……自由に皆が行き来できるようになればいいのに」

 セリアは沈痛な面持ちでそう呟いた。セリア自身は特に今の生活に不満はない。だが、今までずっとここで暮らしてきた人魚達はそうではないだろう。太陽を、風を、自由を謳歌したいに決まっている。

「そうですね」

 ウェルナーはほうっと息を吐き出した。

「ですが、私たちもこのまま従順に神殿に付き従っているわけではないのですよ」
「どういうことですか?」
「先ほど、身体の弱い人間は、地上に出されると言いましたね」
「はい」
「彼らは、地上で生活することを許可されてはいますが、月に一度は地下神殿に戻らなくてはなりませんし、たった数日でもラド・マイムを出ることは許されていません。身分証に厳格な禁止印が押されていますから、いかなる場合でも、街の外には出られないのです。しかし、不自由と言えばそのくらいで、行動に制限はされていません。人魚のことをもらさないよう厳令は敷かれていますが、住所も職業も個人の自由です。ですから、近年ではラド・マイムの各地に私たちの仲間が広がっているんです。このことがどういうことか、分かりますか?」

 セリアは黙って首を振った。分かりそうで、分からない。

「彼らにも、いずれ寿命が来るでしょう。いくら私たちの仲間とはいえ、人魚と人間の寿命は違う。地上の仲間達が死に絶える前に、行動を起こさなければならないのです」

 セリアは、息をのんでウェルナーの話に聞き入っていた。胸が熱かった。

「私たちは、秘密裏に連絡を取り合っています。行動を起こす日にち、段取り、集めなければならない物資……。従順な仮面の下で、着実に好機を狙っているんです。いつか、私たちが大海原に帰る日を夢見て――」
「ウェルナー先生!!」

 突然大声に、セリアとウェルナーは方をビクつかせた。振り返ると、そこにはまなじりを吊り上げたカイルが立っていた。

「セリアに何てこと話してるんです! それ以上話すと、後戻りできなくなりますよ!」
「お、お兄ちゃん……」

 後から入ってきたサリムもおどおどしている。ウェルナーは困ったように肩をすくめた。

「私は別に後悔はしていませんよ。彼女が私たちの仲間だと知ったときから、いつか話そうと思っていました」
「どうしてそんな考えなしなことを! 先生は、セリアを地上に帰すこと、もう諦めてるんですか?」
「いえ、そういうわけでは」

 気圧されたようにウェルナーは視線を逸らす。一方で、セリアはカイルの剣幕に、辛そうに表情を曇らせた。
 ――カイルは私のこと、仲間だと認めてくれていないのだろうか。何か大事な秘密を知ったとして、それを他の者に漏らすような、そんな人だと思っているのだろうか――。
 そこまで考えて、セリアは強く首を振り、自身の考えを振り払った。
 カイルはそんな人じゃない。そんなことは分かりきっているのに。
 人間でも人魚でもない中途半端な存在。そんなセリアは、裏切り者の娘でもある。
 人魚仲間に入れてもらえなかったら、自分は一体どうしたら良いのだろうか。