第二章 人間か、人魚か

18:人間か、人魚か


 まだ夕食には早い時間だったので、ウェルナーは自室にいた。サリムはもちろんのことだが、セリア、カイルまでずぶ濡れの状態で自室に押しかけてこられたので、ウェルナーは目を丸くした。が、徐にセリアがペンダントを取り出し、カイルが事情を説明するにつれ、彼の眼の色は変わった。
 驚いたように、困惑したようにセリアとペンダントを交互に見つめ、やがてセリアの所で止まった。

「いくつか尋ねたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 もちろん異論などなく、セリアは頷いた。

「あなたのお母様はマリーナさんとおっしゃるんでしたよね? では、お父様のお名前は?」
「オスカーです」

 僅かな沈黙の後、ウェルナーは続ける。

「不躾なことを聞きます。お母様は、いつ頃お亡くなりに?」
「私が小さい頃です。二歳か、三歳くらいの時だと聞きました」
「そうですか……。泳いだことはありますか?」
「はい、地上にいた頃、何度か」
「さっき大広場で遊んでたんだけどね、お姉ちゃん、泳ぐのが早いんだよ。お兄ちゃんに勝ってたもん」
「それは……カイルに勝つなんて、相当な実力ですね」

 ウェルナーは困ったように笑った。その笑みは、どこか諦めたようにも見えた。

「セリアさん」
「はい」

 自然、セリアは背筋を伸ばす。

「あなたの母親のマリーナ――彼女は、人魚でした」

 言われた意味が分からず、ウェルナーの声はそのまま右から左へ流れた気がした。

「え……っと、お母さん?」
「はい」

 ウェルナーはしっかりと頷いた。その顔に、冗談の気配は微塵も感じられない。

「でも私、人間ですよ?」
「オスカー様――あなたの父親は人間でしたから。カイルだって、見た目は人間ですが、人魚と人間の血が流れているんですよ」
「そ、それは……そうですけど」

 頭が理解に追いつかない。今まで当たり前のように――むしろ疑うことすらなく――人間だと思って生きてきたのに、今更急に人魚の子孫だなんて。

「マリーナは、かつてここで暮らしていました。一方で、オスカー様は、私たち人魚を統括する神殿側の人間」

 だが、セリアの理解を余所に、ウェルナーは静かに語った。

「二人はやがて恋に落ち、あなたを産みました。しかしその後、二人は速やかに離され、生まれたばかりのあなたも、神官達に取り上げられました」
「なんで? どうしてそんな酷いこと」
「私たちは、神殿の許可なくして交接することは許可されておらず、また、人魚の血を薄めないためにも、生粋の人間と人魚の交わりは、その当時にはもう禁止されていたためです」

 セリアは下を向いた。交接って何? と、サリムが隣のカイルに小さく尋ねる様が、やけに遠くから聞こえた。

「それで……お父さん達は、どうしたんですか」
「端的に言うと、逃げ出したんです。オスカー様は、軟禁状態でしたが、そこから何とか逃げ出し、一方で、マリーナも仲間達の助けを借り、共に地上へ……」

 仲間、という言葉に、セリアはピクリと肩を揺らす。片手で顔を覆った。

「皆に、迷惑がかかりましたよね?」
「それは――」
「地下神殿についてのことは地上に漏らされたら駄目なんですよね? だったら、神官達から、ここの人たちもいろいろ言われたんじゃないですか?」
「……そうですね」

 言いづらそうにウェルナーは視線を逸らす。

「確かに、掟は以前よりもずっと厳しくなりましたし、その影響で、マリーナとオスカー様を憎む者もいるでしょう。しかし、同族として、二人を祝福する声も大きいんですよ。私たちは、ずっと地上を夢見てきました。自分たちが生きづらいことになっても、誰か一人仲間が自由になれれば、それだけで嬉しく思う者もいるんです」
「そんな人……本当にいるんですか?」

 セリアは恥ずかしくて仕方がなかった。こんなに良い人たちを裏切って、父と母は、自分たちの幸せのために地上へ行ったのか、と。地下神殿の人たちは、皆セリアのことを温かく受け入れてくれた。だが、彼女がマリーナとオスカーの娘だと知ったら、彼らは何と言うだろうか。どんな目で見つめてくるだろうか。

「いますよ、もちろん。ここの人たちは、仲間意識が強いんです。あなたがマリーナとオスカー様の娘だと知ったら、きっと我がことのように喜ぶでしょう」

 果たして、本当にそうだろうか。層であって欲しいとは思うものの、即座にそんなわけないという否定が頭をよぎる。

「私……謝ってきます」

 贖罪か、それとも自分が楽になりたいがための行動か。

「駄目だよ、セリア!」

 咄嗟にそう口走り、身を翻したセリアの前に、カイルが立ちはだかった。まるで彼女の行動を予測していたかのように。

「確かにここの皆は内緒にしてくれるかもしれない。でも、どこから秘密が漏れるか分からないんだよ。神官達にこのことが漏れたら終わりだ。裏切り者の娘として、今度こそ牢屋から出られなくなるかも」
「でも……申し訳なさ過ぎる」
「セリアのせいじゃない」
「でも、私の両親がしたことだよ」

 セリアは顔を歪め、頭を振った。
 セリアはどうすれば良いか分からなかった。少ない思い出の中で、彼女なりに大切に思ってきた両親が、誰かに多大な迷惑をかけていたなんて。その心境はいかほどのものだったのだろう。長い間仲間として暮らしていたにもかかわらず、彼らを裏切るようなことをするなんて。
 信じられなかった。確かに自由はないが、地下神殿には温かい寝床も、不足ない食料も、そして何より、優しい仲間達がいる。今までセリアが切望して止まなかったものばかりがここにはある。なのに、どうして地上になんか行ってしまったのか。
 ゴンドラ漕ぎの仕事は稼ぎが良いとは言えない。少ない収入で、人魚の妻と、幼いセリアと隠れ住むようにしてあの貧民街で暮らしていて、本当に楽しかったのだろうか。不自由はなかっただろうか。当然、あったに決まっている。仕事も買い物も父がして、母は赤ん坊と共に、ずっと家の中に閉じこもって。むしろ、地下神殿にいたときよりもずっと貧しい暮らしだったのではないだろうか。神官達の創作の手から逃れるために、おそらく人との関わりも絶っていたはずだ。その後、やがて母が死に、父は幼いセリアと二人ぼっちに――。
 セリアを産んだ後、たとえ神官達に二人の仲を引き裂かれたとしても、何度も説得しようとすれば、神官達だって聞き入れてくれたかもしれないのに。地下の母とセリアの元に、父親が時折顔を出すくらいは許してくれたかもしれないのに。穏やかな生活を手放すほど、地上の生活は価値のあるものだったのだろうか。

「私……これからどうすれば?」

 ――私なんかじゃ、両親のしたことを償えそうもない。
 両親を憎みたくはない。でも、傍から見れば、父と母は憎む対象だ。それはきっと免れない。娘の私がどうにかしたって、なんとかなるようなものでもないだろう。

「とにかく、ペンダントは机に仕舞っておくべきだよ。誰にも見られないように」

 セリアの思いを汲み取れず、カイルは元気づけるように笑った。続いてウェルナーも同意する。

「幸いなことに、セリアさんは人間とほとんど変わらないようです。体温も人並みですし、見かけだって。泳ぐときに気をつければ、勘ぐられることもないでしょう」
「……はい」

 浮かない表情でセリアは頷いた。
 これから自分がどうすれば良いのか。それはセリア自身が考えなくてはならないのに、考えても思いつかない。皆に全てを明かし、謝ったとして、それはただの自己満足ではないだろうか。
 だったら、私がするべきことは――。