第二章 人間か、人魚か

17:水の滑り台


 勉強は、飽きることがなかった。日々進歩があったし、成長を感じることができた。セリアは、自分に学がないことが引け目に感じることがあったが、これからはそういう思いをすることはなくて良いのだ。とはいえ、地下神殿に、セリアが読み書きできないことを馬鹿にする者はいないのだが。
 連日勉強続きで、毎日ウェルナーの元を訪れる日々が続いていたが、あるとき、サリムが提案した。

「たまにはさ、外で遊ぼうよ」
「遊ぶって、何をするの?」

 いつも通り、ウェルナーの元へ移動していた時のことだった。
 セリアはきょとんとして尋ねた。今まで仕事三昧の日々を過ごしてきた上に、友人もろくにいなかったために、何をどう遊べば良いのか、てんで見当もつかなかった。

「この前、大広場に行ったでしょ? あそこの真ん中に噴水があったこと覚えてる?」
「うん、あったね。とっても大きくて、綺麗だった」
「あそこで遊ぼう。滑り台もついてるんだよ」
「滑り台かあ。いいね」

 子供らしく無邪気に遊んだことがなかったセリアは、二つ返事だった。
 ウェルナーに、今日は遊びますと伝えてから、三人は大広場にやってきた。以前来たときと同じように、大広場にはたくさんの人と人魚がいる。今日は子供も集まっているようで、サリムと同じ年頃の人魚達が噴水で遊んでいた。

「僕も入れてー!」

 サリムは元気よく飛び出した。目を見張る勢いで泳ぎ、子供達の元へ行く。その様を見ながら、セリアは口を開いた。

「滑り台ってどこにあるの?」
「噴水の中だよ。水しぶきの内側にある。こっち来て」

 噴水に近づくにつれ、セリア達はいろんな人から挨拶をされた。その中には、まだセリアが会ったことのない人もいたのだが、話は聞いていたのか、皆友好的だ。気ままに食べ物や飲み物を勧められ、朝食を食べたばかりではあるが、セリアは有り難くそれらを頂いた。
 噴水の側に行くには、地上からと水路からがある。が、地上からの道は、噴水から跳ねた水で濡れていたので、靴を脱ぎ、着の身着のままで水路から行くことにした。
 裸足の足からそうっと水につけるが、思っていた以上に水は冷たかった。だが、折角遊びに来たのだから、思う存分楽しむため、セリアは一気に水の中に身体を沈ませた。

「大丈夫? 寒くない?」
「う、うん、このくらいなら大丈夫」

 反射的に、セリアの身体はブルブル震えるが、カイルに悟られないよう、平然を装った。もう全身を濡らしてしまったのだから、当初の目的を果たさなければ、寒い思いをしたことが無駄骨となってしまう。
 水は冷たいし、寒いしで、セリアは口数少なかったが、噴水の下を通るときは、年相応に興奮した。上から細かい水しぶきが降り注いでくるのは物珍しかったし、水のカーテンを越えた先に、また別の景色が見えてくるのも驚いた。
 噴水のすぐ側――水しぶきで、外からは見えない場所――には、思っていた以上の子供人魚達がいた。人間の子供は少ないが、それでも三人はいるだろう。
 サリムはすぐに見つかった。

「あ、お姉ちゃん! 滑り台やりに来たの?」
「うん、そのつもりなんだけど」

 この人数だったら、滑り台の順番が回ってくるのは大分後になるのではないだろうか。そもそも、セリアよりも小さい子靹達の合間に混ざって滑ることが、申し訳なくてならない。
 折角の子供の楽しみを奪っては、とセリアがソワソワしだした。

「じゃあ、どーぞ」

 だが、そんなセリアの思いを余所に、彼女の前にいた子供が身を横にずらした。

「わたし達はいつも遊んでるから、どーぞ」
「うん、どうぞどうぞ!」
「あ、ありがとう……?」

 こんな優しい扱いをされたことなど、今までにあっただろうか。
 セリアは内心感動に打ち震えながら、前に進んだ。大袈裟と言えば大袈裟だが、地上では、小さな子供といえば、大抵向こうから敬遠されるかからかわれるかの二択だったので、この扱いが居たたまれなくて仕方がない。

「どうぞどうぞ」

 譲られるがまま、セリアはカイルと共に階段の手前まで来た。噴水の上に上がるには、人魚用の水路と、人間用の階段があるらしい。
 セリアに挨拶をしてから、サリムはスイスイと水路を上っていった。あんな激しい水流でも上に泳いでいけるなんてと、セリアは今更ながら尊敬するような気持ちでサリムを見送った。

「俺たちも行こう」

 カイルの後に続いて、セリアも階段を上った。隣の水路からの水しぶきで濡れているので、充分気をつけて登った。
 階段を登りきると、噴水の頂上に出た。思いのほか高い場所に出て、セリアは顔を引きつらせる。幸いなことに、滑り台自体は、グルグルと噴水の周りを囲うような形で設けられているため、そこまで速度はないだろう。が、それにしたって、子供が遊ぶものと銘打った滑り台にしてみれば、傾斜はある方だ。

「お、次はセリアちゃんが滑るのか」

 下の方で人魚達が穏やかに手を振っている。セリアは、震える右手を手すりに預け、左手で振り替えした。

「実際に、こうして上から見ると、結構傾斜があるんだね」

 精一杯のセリアの反抗である。ここまで来た手前、やっぱり止めたなんて言えるわけがないので、せめてそう言わずにはいられない。だが、カイルはそんなセリアの精一杯の弱音を、笑って受け流した。

「うん、楽しいよ。子供用に作られたはずなのに、意外に速度が出るんだ。大人達もよく遊んでるし」
「あはは、そうなんだ……」

 そう言われてしまえば、もうセリアに言えることはない。
 小さくため息をつき、再度下を見る。
 地上でも、日夜水のあるところで暮らしていたため、水事態は怖くない。潜るのは好きだったし、泳ぐのももちろんそうだ。しかし、純粋に高いところは怖い。もし万が一、勢い余って縁のない傾斜から滑り落ちてしまったらと考えると、恐ろしくてならない。

「お姉ちゃんは行かないの? だったら僕が」

 言うが早いか、サリムはセリアの横から滑るように飛び出した。そのまま傾斜に身を任せ、勢いよく滑り落ちる。
 あまりの速度に、セリアは今度こそ腰を抜かした。一瞬の出来事だったため、何が何だか分からなかった。ただ、ついさっきまで隣にいたはずのサリムが、今は遙か下にいてこちらに手を振っている。

「…………」
「セリア、行かないの?」

 もう、どうにでもなれ。
 セリアはやけっぱちになって、滑り台に腰掛けた。心臓が嫌な音を立て、必死になってセリアに異を唱えようとするが、彼女の理性はそれを却下。次の瞬間には、セリアはその激しい傾斜に身を任せていた。
 結論を言うと、もう無我夢中だった。突然の身体が浮くような感覚に、セリアは反射的に縁に手を伸ばし、その場に留まろうと必死になって力を込めるが、そのくらいの力で身体を止められるわけがない。おかげで、滑り終えた後には、セリアの手は真っ赤になっていた。水が染みて、ヒリヒリと痛い。
 セリアのすぐ後にカイルも滑り降りた。いそいそとセリアの元にやってくると、満面の笑みで、楽しかったかと尋ねてきた。嬉しそうにそう聞かれてしまえば、セリアに用意できる返答は一つしかない。今日ほど、自分の意見が強く言えない自分の短所を恨んだことはなかった。
 とはいえ、セリアは、今まで人付き合いをしてこなかったので、その短所すら、ほとんど自覚していなかったのだ。誰かと一緒にいて、楽しいと思う感情や、寂しく思う感情、それすらも忘れかけていたので、セリアはこの感覚が新鮮だった。
 その後も、カイルやサリム、その他子供達に促され、セリアは何度も滑り台を経験することになった。最後の方には、もうすっかり慣れてしまって、滑るときは、暴れずに目を閉じ、そのまま時が過ぎるのを待った方が楽だという答えにたどり着いた。
 盛大に水遊びを楽しんだ後、セリアは陸に上がった。その頃には、冷たい水にもすっかり慣れていたため、逆に陸に上がった方が寒く感じるくらいだった。張り付いた服が気持ち悪く、セリアは服をギュッと絞っていた。

「あれ、誰かペンダント落としてるよ」

 不意にそんな声がかかり、セリアはそちらへ視線を向けた。見ると、一人の人魚がペンダントを掲げていた。切れた銀色の鎖の先に繋がっているのは綺麗な青い石。紛れもなく母の形見だ。胸元を探ってみると、確かにそこにあるはずのペンダントがない。
 私のものです、とセリアは進み出ようとしたが、後ろから口を押さえられ、もう片方の腕で身体を閉じ込められる。

「静かに」

 耳元で声がした。カイルだった。

「俺が受け取ってくるから、ここでじっとしてて。いい?」

 なにが何だか分からなかったが、セリアはこくこくっと頷いた。そうっと手を離される。

「俺のです! 滑ったときに、鎖が切れちゃったみたいで」
「カイルの? あんた、鎖なんてつけてたっけ?」

 ペンダントを差し出しながら、人魚が訝しげな口調で尋ねる。

「つけてましたよ」

 シレッと笑いながら、カイルはペンダントを受け取った。だが、それでも引かなかったのは、サリムだった。一度セリアのペンダントを間近で見たことのある彼は、首を傾げた。

「それ、お姉ちゃんのじゃ――」
「サリムー」

 突然カイルが猫なで声を上げた。

「そろそろ勉強の時間じゃないか? ウェルナー先生と約束してただろ」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ。またお前が忘れてるだけ」

 カイルの口調に、サリムはムッと唇を尖らせるが、それ以上は何も言わない。カイルはセリアを振り返った。

「セリアも行こう。長い間水に浸かって身体が冷えたでしょ? お湯に浸からないと」
「うん」

 逆らってはいけないような雰囲気を感じて、セリアは大人しく頷いた。また遊ぼうという声をかけられた後、三人は大広場を後にした。暗い水路を泳ぎながら、サリムが口を開く。

「さっき落ちてたの、お姉ちゃんのだよね? それに、この後先生と約束なんてないし。僕ちゃんと覚えてるし」

 先ほどの兄の物言いに、随分とご立腹のようだ。カイルは弟には応えず、立ち止まってセリアを見た。

「このペンダントは、人前でつけない方が良い。できれば、部屋の戸棚にでもしまっておいて」
「これ、何かまずいものなの? 盗品、とか?」
「違うけど――」
「僕も気になる」

 再びサリムが入ってくる。カイルは咎めるような声を出した。

「サリム」
「これ、僕たち皆持ってる物と同じものなんだ。皆ね、この青い石のペンダントを持ってるんだよ。でも、どうしてお姉ちゃんも?」

 サリムの言葉に、セリアもカイルに向き直る。

「カイル、何か知ってるの?」

 カイルは、しばらく躊躇っていた。言うべきか、とぼけるべきか。やがて、仕方なさそうに、視線を逸らしながらポツリと言った。

「知らない方が良いと思うよ。知らない方が、また地上で幸せに暮らせる」
「なんでそんなこと言うの? 私、もう地上では暮らせないって言ってたじゃない」
「でも、まだ分からないじゃないか。もしかしたら、いつか神官達が考えを変えるかも。その時に、地上へ帰る妨げになるかも」
「私は……」

 セリアは、眉を寄せながら、どう言うべきか思い悩んでいた。叶わなかったときのことを考えれば、望みのない希望なんて持たない方が良いし、それに、今のセリアは、地上よりもこの地下神殿にいたいという思いの方が圧倒的に強い。カイルの言うように、もし地上に戻れるという話になったとしても、ここの皆が受け入れてくれるのであれば、ずっとここにいたいとすら思っていた。
 だが、今のセリアには、それらを言葉にすることは難しかった。まだ自分の中で様々なことが整理できておらず、言いたいことを今、この時にまとめることなど不可能に近かった。

「私は、知りたいな。私に関することなら。あ、でも、皆に迷惑じゃなければ、だけど」

 結局、セリアは短い言葉にまとめた。それすらも、自信なげに、カイルの顔色を窺うように、である。
 カイルは、難しい顔をして押し黙っていたが、サリムの最後の一睨みがきいたのか、渋々承知した。

「――分かったよ。じゃあ一緒にウェルナー先生のところに行こう。先生なら、秘密を漏らしたりしないから」
「いいの!?」
「ただし、サリム。これから聞くこと、絶対に他の人に言っちゃ駄目だからな。うっかり漏らしたりするんじゃないぞ」
「分かってるよー」

 怖い顔で念を入れる兄に、サリムはどこ吹く風で、スイスイ泳いでいった。セリアはというと、今までにないカイルの真剣な表情に、やっぱり止めておけば良かったかと思わずにはいられなかった。