第二章 人間か、人魚か

16:開く世界


 地下神殿での日々は、思っていた以上に穏やかな生活だった。
 日の光がないせいで、時間や日数の感覚も鈍り、数日も経てば、セリアは自分が何日神殿で暮らしているのか分からなくなり、また、興味もなくなった。自然に目が覚めたときが朝であり、カイルたちが呼びに来たときが昼であり、彼らと別れたときが夜だった。
 そんなあるとき、セリアが起きてすぐ、カイルたちがやって来た。彼女の体内時計では、彼らが迎えに来るのはもう少し後のはずであり、戸棚に置いてある砂時計を見てみれば、予測通り、正午よりも大分早い時間だった。サンドラもまだ寝ている。

「どうしたの?」

 サンドラに配慮して、セリアは扉越しに尋ねた。

「ウェルナー先生が、休暇をもらったらしいんだ。一緒に行こうよ」
「サリムが行くって言って聞かなくて……。セリア、大丈夫? 嫌だったら断っていいからね」

 サリムの興奮した声と、カイルの落ち着いた声が聞こえてくる。セリアはためらいなく頷いた。

「私も行く。改めてお礼がしたかったし。もうちょっと待っててくれる?」
「もちろん。ゆっくりでいいからね」

 セリアは急いで身支度を整えると、そっとドアを開けて外に出た。すぐそばで待っていたカイル、サリムと目が合う。

「じゃあ行こうか」
「待たせてごめんね」

 三人は、地下神殿を移動した。昨日の大広場を通って、奥まった場所に向かう。小道に入っても、なかなか扉は見当たらない。ようやく見つけたと思ったら、もう小道は行き止まりだった。その突き当たりに、大きな扉があったのだ。
 水路をまたぐ形で設けられているその扉は、上と下にドアノブがある。人魚でも人間でも扉を開けられるようにだ。
 カイルがその扉を押し開けると、初老の男性が振り返る。水路の縁の机で物書きをしていたようで、ウェルナーは丸眼鏡を額にあげた。

「ああ、セリアさんもいらっしゃいましたか」
「はい。こんにちは」
「こんにちは。こちらでの生活は慣れましたか?」
「はい。皆さんとてもよくしてくれて。とても楽しいです」
「それは良かった」

 ウェルナーは柔和に微笑んだ。が、すぐにその表情が陰る。

「それで、一つセリアさんに謝らなければいけないことが」
「はい、何でしょう?」
「あなたを、地上に戻すという話ですが……」

 セリアは一瞬で身体を強ばらせる。ウェルナーは深く頭を下げた。

「申し訳ありません。私の力不足で、あなたを地上に帰らせることは、難しそうです……!」
「そんな!」

 カイルが真っ先に声を上げた。真っ青な顔で、ウェルナーに食らいつく。

「セリアは絶対にここの話を漏らしたりしませんよ! それなのに、ずっとここに閉じ込めるなんて可哀想だ!」
「ええ、それは私も重々承知しています。しかし、評議会に直談判をしても、受け入れてもらえず……。どこで耳にしたのか、セリアさんは両親がいらっしゃらないようですから――その」

 それ以上言葉にすることはできず、ウェルナーは視線をそらし、言葉を濁した。セリアもなんとなく察した。孤児だから、セリアが忽然と地上から姿を消しても、誰も気にする者はいないと、そういうことなのだろう。

「わ……たし、大丈夫です」

 私のために奔走してくれている彼らを悲しませたくないと思う一方で、彼女の言葉は本心だった。

「私、ここでの生活、気に入ってるんです。皆さん優しくて、それに、サリムやカイルだっているし、毎日が楽しいんです」

 地上で独りぼっちで暮らしていたときに比べて、ここは非常に居心地がいい。皆が温かく迎えてくれて、セリアのことを嫌がったりしない。それどころか、つまらないだろうセリアの話を、目を輝かせて聞いてくれる。

「だから、そんな顔しないでください。むしろ、そうなって良かったです。私、正直なところ、ここで暮らせたらなって思っていたんです」
「ですが……いつか、あなたは地上に戻りたくなる日が来ると思います。長らくこの地下神殿で暮らしていた人間ですら、地上を渇望するのに、地上で生まれたあなたが、この地下世界で暮らしていけるとは思いません」

 セリアは、言葉に窮して押し黙った。どう言えば、自分のこの思いを伝えることができるのだろうか。なぜ彼は、セリアの想いを決めつけるのだろうか。地上と地下、どこで暮らすのがセリアにとって一番幸せなのか、それはセリア自身が決めることなのに。

「それで……ですが」

 セリアの表情が陰ったことに気づいたのか、ウェルナーは気まずそうに咳払いをした。

「サリムから聞いたのですが、セリアさん、読み書きを習いませんか?」
「え?」

 思ってもみなかった話題に、セリアは目をぱちくりさせた。

「せめてもの私の償いです。地上に戻ることができないのなら、せめて本を読んで、もっとたくさんのことを学びませんか? それくらいのことしか、私にはできそうもなく――」
「そんなっ、そんなことありません! むしろ、とっても有り難いです。私も、できることなら、字が読めるようになれればと思っていましたから!」
「そう言って頂けると、とても嬉しいです」

 ウェルナーは柔らかく微笑んだ。セリアも嬉しくなって、深く頭を下げる。

「ありがとうございます!」

 何のゆかりもない自分に学を教えてくれるなんて、思ってもみなかった。ゴンドラ漕ぎの自分に学が必要だと思ったこともなかったし、この先必要になることもないだろうと思っていた。だが、幼い頃、まだ小さなセリアに字を教えようとしていた父のことを思うと、どうしても心残りが残った。セリアが覚えている数少ない思い出の一つが勉学についてだったのに、それを無碍にしても良いものか、と。
 だからこそ、ウェルナーのこの申し出は感謝してもしきれない。

「じゃあ、これからお姉ちゃんと一緒に勉強できるんだね!」
「う、うん!」

 セリアは何度も頷きながら、自分の幸運を噛みしめていた。
 いつも単調だったセリアの日々。だが、字を学ぶことで、これから自分の世界はもっともっと開いていくのだろう。そのことを思うと、セリアは自然と胸を躍らせていた。


*****


 セリアの日々は、それから変わった。サンドラと一緒に朝食を食べてすぐ、サリム達が迎えに来て、一緒にウェルナーの部屋に行くのだ。
 彼から字を教えて貰うのは、セリアとサリムで、カイルは、ウェルナーから教えて貰わずとも、すらすら読み書きができた。それどころか、ウェルナーの部屋にある分厚い難しそうな本まで、時々借りて読むほどなのだ。いつかあんな風に本を読めたらと、セリアはこっそりそんな風に思っていた。

「お兄ちゃんも、別に毎日僕らに付き合わなくてもいいのに」

 兄がいては、勉強に集中できないサリムが、唇をとがらせてそんなことを言った。カイルの方も、思ってもみない物言いに、虚を突かれたようだ。

「嫌で付き合ってるわけじゃないよ。俺も本を読むのは好きだし。俺のことは気にしないで」
「そんなことを言っても、気になるものは気になるんだよ。自分の部屋で読めばいいじゃない」
「集中力がないな。俺は別に気にならないけど?」
「僕は気になるの!」
「兄弟喧嘩はよしなさい。セリアが見てますよ」

 ウェルナーが慌てて仲裁に入れば、二人は気まずそうにセリアを見た。どうして良いか分からず、セリアは困った顔をした。

「変なの。私、カイルとサリムは兄弟喧嘩なんてしないと思ってた。すっごく仲いいから」
「どこが」

 カイルとサリムは顔を見合わせた。

「サリムは変なところで我が儘だから」
「お兄ちゃんは空気が読めないときがあるから」
「…………」

 二人の声が重なる。ジトッとした目で、彼らは互いを見やった。

「へー、サリム、俺のことそんな風に思ってたんだ」
「お兄ちゃんこそ! 僕別に我が儘じゃないし!」
「我が儘じゃないか! 勝手に地上に行ったり、ご飯食べたくないって駄々こねたり!」
「むっ、昔のことを持ち出すのは無しだよ!」

 年相応に牽制し合う二人の兄弟に、セリアは目を丸くした。隣を見れば、いつも穏やかに微笑を浮かべているウェルナーが、珍しく疲れたような顔でため息をついていた。そのことがなんだかなんだか妙におかしく思えて、セリアはケラケラと笑い声をたてた。