第二章 人間か、人魚か

 カイル達につれられて、セリアは大広場へやって来た。丁度水浴び場とは反対側の場所である。
 大広場に近づくにつれ、細い水路は次第に太くなり、閑散としていた場も明るい声が漏れ始める。常に薄暗く、昼夜の区別もつかなかったはずが、今では真昼間のように辺りがきらめいていた。
 そうして、アーチ状の門をくぐれば、もうそこは人魚と人間達の憩いの場となっていた。

「わあっ……!」

 大広場は、たくさんの人魚と人間とで賑わっていた。人魚も人間も、水路で泳いだり、陸にあるゆったりとした安楽椅子に寝そべったりしている。
 中でも一段と目を引くのは、中央の大きい噴水だ。下からくみ上げた水を、上から盛大に噴射している。そこにはちょっとした滑り台も設けてあるようで、人間の子供が笑い声を上げて滑っていた。
 種の別なく、思い思いに皆が過ごしているその光景は、セリアにとっては不思議で、心を打たれるものでもあった。
 呆気にとられ、セリアが呆然とそれらの光景を見つめていると、水路を渡ってサリムが素早く皆の元へ行った。

「皆、久しぶり!」
「おー、サリム。帰ってきてたのか。地上はどうだった?」
「楽しかったよ! それでね、皆に紹介したい人がいるんだ。お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
「行こうか」

 サリムの声に、カイルは優しくセリアの背を押した。セリアは息をのみ、決心して足を踏み出し、サリムの元へ移動した。

「地上でね、僕の命を助けてくれたセリアお姉ちゃんだよ!」
「セリアです。どうぞよろしくお願いします」

 緊張気味に、セリアは頭を下げる。皆は興味深げに彼女のことを観察し、しばし声を出すのを忘れていた。先に我に返ったのは、水浴び場で少しだけ話をした人魚達である。

「さっき水浴び場であった子だね」
「はい、こんにちは」
「よろしくね」

 思わぬ顔見知りに、セリアはようやく笑みを見せた。もっと緊張をほぐそうと、男の人魚が彼女に近づく。

「嬢ちゃん、これ食べる?」

 そう言って差し出されたのは、乾燥し、重力に反してピンと伸びている海藻である。セリアは一瞬戸惑い、しかし断ることはできず、恐る恐る海藻に手を伸ばした。が、彼女の反対側からにゅっと手が出てきて、その海藻を掴んだ。

「新入りをからかうなっての。本気にしたらどうすんの」

 そう言ってムシャムシャと海藻を食べるは、女性の人魚。身体は女性らしいのに、言動に頼もしさがある。

「いや、すまんすまん。ちょっとした冗談じゃないか」

 そう言って、男性もまたムシャムシャ海藻を食べた。無言のまま、海藻の入った革袋を取り出せば、彼の周りの人魚達もそれに群がった。

「あんた、地上から来たんだってね。地上の話をしておくれよ」

 一人の人魚がそう提案すれば、人間達もうんうん頷いた。

「えっと……どんな話をすれば」

 セリアは困って首をかしげた。地上の話を言われても、彼らが何を知らず、そして何を知りたいのかはさっぱりだ。他人と世間話をした経験など、数えるほどしかなく、セリアは戸惑った。
 すると、カイルが助け船を出した。

「セリアの暮らしぶりでいいんだよ。セリアがどんなことをして生計を立てているか、どこで暮らしているか、どこで買い物をしているか。その時に、あの歓楽街や市場の話もしれくれると、皆も喜ぶと思う」
「あ、そっか。うん、ありがとう」
「ほら、そこに座って。靴脱いで水につかると、気持ちいいよ」

 人魚達が場所を空けた。セリアとカイルは、厚意に従って水に足をつけた。

「えっと、私の仕事は、ゴンドラ漕ぎです」

 そうして、セリアはおずおずと話し始める。

「ゴンドラ漕ぎ?」
「その年で仕事してるの!?」

 セリアの台詞には、二種類の反応があった。セリアは小さく頷く。

「私の両親は、幼い頃に亡くなったので、父の仕事を引き継いで、ゴンドラ漕ぎに。ゴンドラって言うのは、小さな船のようなもので。えっと、地上にはここみたいに、人間が歩く歩道と、運河が所々走っているんです。でも、こことは違って、運河の幅はとても広くて、飛び越すことはできないんです。だから、ゴンドラを使って対岸に渡ったり、目的地まで送ってあげたり、そういうことをしています」

 一気に長い説明をしたので、セリアは浅く呼吸をした。ただ話すだけなのに息苦しくなるなんて、おかしいことこの上ないが。

「僕もお姉ちゃんのゴンドラに乗せてもらったんだよ」

 サリムは鼻高々に胸を反らした。途端に、羨ましそうな声が方々から上がる。

「いいなあ、ゴンドラ。自分で泳ぐのもいいけど、誰かに目的地までつれてってもらえるなんて、なかなか乙じゃないか」
「本当にね! すごく気持ちよかったよ。全身で風を切って進むのは。風は冷たくて気持ちいいし、次々に景色が変わるし、時々ちょっと揺れるのも、不思議な感覚がするんだ」
「カイルも乗せてもらったの?」

 皆の視線がカイルを向く。照れっと笑って、彼は頷いた。

「はい、とても気持ちよかったです。俺はゴンドラを漕がせてもらったんですけど、なかなかセリアのようにうまくはいかなくて。でも、とても良い経験になりました」
「なるほどねえ」

 人間と人魚達が、おもしろそうにため息をつく。自分に関することがこの場の話題なので、セリアはサリム達が話している間も、終始居心地悪そうに身を縮こまらせていた。

「でもさあ、サリム」

 だが、不意に雰囲気が変わった。話題の中心は、セリアからサリムへと変わったようだ。

「いくら地上が物珍しいからって、一人でこっそり抜け出すのはどうかと思うぜ? カイルやセリアにも迷惑かけて」

 ハッとしたように、サリムは表情を固まらせた。一瞬で顔色を悪くし、俯く。

「皆には悪いことをしたと思ってるよ……。僕一人のせいで、皆を危険な目に遭わせるところだった。本当にごめんなさい」

 サリムは深く頭を下げた。つい先ほどまでは、和やかな雰囲気だったのだが、サリムのこの言動で、辺りはしんと静まりかえる。

「俺の方からも、すみませんでした。サリムは俺が監督しないといけなかったのに」

 カイルも項垂れる。元気を出せと言わんばかり、隣の男が彼の肩を叩く。

「神官達からお咎めはなかったのか?」
「あったよ。没収されたものもあるし、行動も制限された。反省してこれを受けるつもりだよ。僕が全部悪いんだし」
「……まあ、いつか神官達も怒りを和らげてくれるって。そんなに気に病むな」
「そうよ。若いときはちょっとくらい行動力があるくらいが可愛いのよねえ。むしろ、カイルもサリムを見習った方が良いくらい」
「なっ……」

 思わぬ所で飛び火して、カイルは取り乱した。方々で小さな笑い声が上がる。それが一旦収束したところで、髭の生えた男が頭をかいた。

「カイル、サリム。俺たちは別に怒ってないぜ。二人は、俺たちの代わりに地上を見てきてくれたんだ」
「謝るくらいなら、たくさんお土産話を聞かせてよ」

 温かく笑う人魚、人間達に、カイルとサリムは気圧された。

「――ありがとう」

 サリムは照れたように笑った。その顔は本当に嬉しそうで、セリアも知らず知らず微笑んでいた。カイルも笑みを見せて、サリムの頭をなでる。

「――で、結局二人は一週間も地上にいたんだろ? 他に何かおもしろい話はないのか?」
「うん、いっぱいあるよ! まず、時間によって変わる景色が綺麗だったし、人の多い市場や歓楽街には、いろんなものがあったし、お姉ちゃんにおいしい魚を買ってもらったんだ。生の魚もいいけど、干し魚もなかなかおいしかったんだ」
「干し魚ね。今度神官に持ってきてくれるように頼んでみようか」
「海藻はどう? おいしいのあった?」
「おいしかったよ。地上で食べたせいか、いつもより一段とおいしく感じたんだ」
「お姉ちゃんが一度貝の蒸し焼きを作ってくれたんだけど、これがまた舌がとろけるほどおいしかったんだよ! ここでも機会があったら作って欲しいな」

 サリムが上目遣いにセリアを見上げる。セリアは困ったように首を傾げた。

「あ、あれはお父さんから教えてもらったレシピで……。レシピを見ないと、今はちょっとおぼろげかも」
「おぼろげでもいいよ! 一緒に試行錯誤しながら作れば良いんだし!」
「俺たちも食いたいなあ、蒸し焼きっての。俺たち人魚には、調理されてないものが届けられるばかりだし」

 少々気の毒な発言に、セリアはうっと詰まった。そうして仕方なしに頷く。

「あ、あんまり期待しないでくださいね……?」

 その後で、小さくそう付け足した。セリアは元々手料理は得意ではない。一人暮らしをしていた頃は、どうせ自分しか食べないのだからと手の込んだ料理は作らなかったからだ。貝の蒸し焼きは、いくつか父が残したレシピの一部で、折角サリムがいるのだからと、苦心して作ったものである。これほどまでにサリムに言われたならば、セリアとしても本望である。

「よっしゃ! 楽しみにしてる!」

 セリアの必死の言葉も何のその、人魚達は嬉しそうな声を上げた。セリアとしては、己の肩に思いもしない期待がのしかかったなあと困り果てるばかりである。カイルが同情するように肩を叩いた。
 それからも、地上の話は続た。セリアが話し、サリムが盛り上げ、カイルが同意し。
 そんな風に話を続けていると、人魚や人間達は、純粋な好奇心から、やがて憧れ、熱望へと変化していった。言葉少なになり、ついには一人が声を上げる。

「地上……いいねえ。一度は行ってみたいもんだ」

 人魚のぼんやりとした声に、一瞬場が静まりかえった。一度も日の光を浴びたことのない彼らの、純粋な総意に違いなかった。