第二章 人間か、人魚か
15:久しぶりの水浴び
早朝、サンドラに起こされ、身支度をしているうちに、早速部屋の扉が叩かれた。誰かと問う間もなく、向こう側から朗らかな声がかけられる。
「お姉ちゃん! 迎えに来たよ! 朝食はまだだよね? 一緒に食べた後、ここを案内するよ」
「サリム……もしかしてカイルもそこにいるのかい?」
下着姿のままサンドラはガシガシ頭をこする。扉越しではあるが、寝間着姿のままでは居たたまれないので、セリアは慌てて着替えた。
「いますよ。朝早くにすみません」
「本当だよ。女の身支度ってのには時間がかかるもんなのさ。こんなに早くに来られて急かされちゃあ堪んないね」
「俺もそう言ったんですけど……サリムがどうしても行きたいって」
「結局押されてちゃ意味ないでしょうが」
ため息交じりにサンドラは言った。しかし、それ以上文句を言っても意味がないと悟ったのか、彼女は扉から離れ、上着を着た。
「でも残念だったね。今からこの子はあたしと水浴びに行くんだよ」
「え?」
「あ、ごめんね、本当に! せっかく来てくれたのに」
申し訳なくなって、セリアは扉の近くまで行って両手を合わせた。向こうには見えないのはわかりきっているが、せめてもの気持ちだ。
「仕方ないだろ? この子も女の子なんだ。十日もお風呂に入った身体でウロウロするよりは、こぎれいな格好で見学したいだろうさ、普通」
「…………」
事実だ。
セリアの身体が今、非常に汚いというのは、確かに事実である。しかし、それを男の子たちの前でわざわざ口にするのはどうだろうか。セリアとて多感な年頃である。羞恥心というものはある。
「それは……ごめんね、気が利かなくて」
カイルたちの方も、気まずいようだ。あたふたと慌てているのが目に浮かぶようだ。
「分かった。じゃあまた迎えに来るよ。昼過ぎくらいでいい? ご飯は食べた後で」
「あ――」
「構わないよ」
なぜだか、セリアの代わりにサンドラが返事をした。
「その頃には部屋に戻ってるだろうから、またここに来な」
「分かりました」
「本当にごめんね。二度手間になっちゃって」
「そんなことないよ。ゆっくりしてきて」
優しい言葉に、セリアは感謝しかなかった。
「じゃーね、お姉ちゃん!」
「うん、またね」
申し訳ない思いでセリアは再び身支度に戻った。いつの間にかサンドラはもう用意は終わっていたので、慌てて髪を整えて彼女の前に立つ。
「じゃあ行こうか」
「はい。よろしくお願いします」
神殿の中は、相変わらず薄暗かった。おそらく早朝なのだろうが、窓からの光が入ってこないせいで、それを確認する術がない。ただ、ここで暮らしているものたちは、地上よりも時間に縛られる必要がないので、あまり気にしてないようだが。
細い道を歩き続ければ、やがて大きな広場に出た。先ほどまでは、ようやく一人が通れそうなほどの狭さだった水路が、ここでは大きな同心円状に広がっていた。そこでは、数人の人魚たちが、男女の別なく水浴びを楽しんでいる。
セリアたちがその広場に足を踏み入れると、彼らの視線が二人に集まった。サンドラに好意的な挨拶をしながらも、セリアを見る目は不思議そうだ。
「この子、セリアって言うんだ。ひょっとしてもう聞いてる? カイルたちが地上から連れてきたんだけど」
「ええ、聞いてるわよ。可愛い子ね」
「えっ!」
お世辞にも、今まで可愛いなどと言われたことがなかったので、セリアは反射的に顔を赤くした。必死に首を振り、その後で自己紹介をしていなかったことを思い出し、慌てて己の名を口にする。
「いくつ?」
「えっ、あ、十六です」
「あら、意外に大きいのね」
「丁度カイルと同い年か。カイルもやるなあ」
からかうように男の人魚が笑う。同い年と言うことで何か勘違いされたのだろうか。セリアは誤解を解こうと頭の中で言葉を整理したが、それをするまでもなく、茶々を入れないの、と隣の女性人魚が彼の腕を小突いた。
「人間の子供は少ないけど、人魚ではあなたと同い年の子も何人かいるのよ。仲良くしてあげてね」
「はい! もちろんです!」
セリアは勢い込んでぶんぶん首を上下に振った。仲良くなれるものなら、こちらだって大いに嬉しい。
好意的な人魚たちに挨拶をした後、二人は広場の奥に移動した。再び細い水路が続き、やがて二つのドアが向かい合わせに並ぶ小道にたどり着く。
「ここが人間用の水浴び場だよ」
もうここには水路は走っておらず、セリア達は道の中央を歩いた。
「右が男用で、左が女用。書いてないからわかりにくいだろうけど、間違えないようにね」
「分かりました」
人魚は男女共用のようだったので、もしかしたら人間の水浴び場も同じなのかもしれないと内心不安に思っていたセリアはこっそり安堵した。
二人は左側の部屋に入り、そこで服を脱いだ。地上で言う公衆浴場のようなものらしく、その脱衣所にはいくつか縄で編まれた籠が置かれていた。
カラカラと引き戸を引くと、そこはもう銭湯だった。いくつかの浴槽が鎮座しており、セリアはキョロキョロと辺りを見渡す。どことなく違和感を覚えたのだが、セリアはその正体に気づくことはなかった。
セリアはまず念入りに身体を洗った。十日も水浴びをしていなかったのだ、皆が使う湯を汚してしまうわけにはいかない。
その間、サンドラはゆったりとお湯に浸かっていたようだ。気持ちよさそうに縁に両腕を乗せている。
「セリアも早くこっちに来な。気持ちいいよ」
「はい。もうすぐ洗い終わります」
最後に上からお湯をかけ、支度は調った。セリアはサンドラが入っている銭湯に自分も入ることにした。ゆっくりと片足を挙げ、別段警戒もなくお湯につける――。
「冷たっ!」
あまりの衝撃に、セリアはよろけ、危うくこけてしまうところだった。セリアの反応に、サンドラは目を丸くした。
「ああ、そっか。あんたたちは体温暖かい方だもんね。悪かったよ、気がつかなかった」
頭をかき、サンドラは右の浴槽を指さした。
「あっちの風呂に入んな。あっちは割とぬるめに設定されてるから」
「は、はい……」
違和感はこれだったのか、とセリアは右の浴槽に身を沈めながら落ち込んだ。銭湯であるはずなのに、ここは湯気が全くない。それはそうだ、浴槽の水は、ほとんど冷水なのだから。
セリアは、生ぬるいお湯になかなか慣れなくて、身体を動かした。
「そういえば、カイルもお湯が苦手だって言ってました。銭湯に行こうって連れ出したんですけど、結局水風呂にしか入ってなくて」
「そりゃそうだよ」
サンドラは揺ったりとした動作で右手を挙げた。
「人魚の体温は、人間よりもずっと低い。人魚と人間の間に子がなした場合、大抵は人魚なんだけど、まれに人間が生まれてくる。でも、見た目は普通の人間とも変わらなくても、やっぱり体温なんかは冷たいままなんだよ。時折、まるで普通の人間みたいに暖かい体温を持って生まれてくる子供もいるけどね」
「不思議ですね」
セリアも、サンドラのまねをして、浴槽に両腕を置いた。
「私、最初カイルとサリムが兄弟だって言われたとき、なかなか信じられませんでした」
「そうだね。普通に考えたらあり得ないことだろうね。人魚と人間が子をなすなんてって」
ぼうっとしたまま、サンドラはしばらく何も言わなかった。やがて二人は同時期に立ち上がり、風呂を終えた。手早く着替え、そのまま部屋に戻る。その途中で、配給所から昼餉を取ってきて、部屋で食べた。その後、部屋でサンドラとのんびり話をしていると、カイル達がやってきた。元気な様子で、再びドアの外から声をかける。
「セリア、もう準備はいい?」
「うん、もちろん。二度手間になってごめんね」
「気にしないで。早速行こう!」
セリアとカイル達は、揃って小道を歩いた。目指すは、人魚達が集う大広場である。
「僕たちね、どこを案内しようかって計画を立ててたんだけど」
嬉しそうな顔ぶりで、サリムが水路からセリアを見上げる。
「やっぱり、神殿の案内より、先に皆に紹介した方がいいかなって。ほら、お姉ちゃん、これからしばらくここで暮らすんでしょう? 挨拶しておいた方がいいんじゃないかって、お兄ちゃんが」
サリムの言葉にあわせて、カイルが頷く。途端に、セリアはもじもじと手をすりあわせた。
「で、でも……嫌がられたり、しないかな? 突然私みたいなのがやって来ちゃって」
「そんなわけないよ」
カイルが真剣な瞳で言ってのけた。
「ここは、人間と人魚、皆が仲良いんだ。セリアを紹介しなかったら、むしろ俺の方が皆に怒られるよ」
サリムも純粋な笑みを浮かべる。
「それに、お姉ちゃんは僕の命の恩人だから。だから僕たちに紹介させて」
「サリム……」
にへらっと笑うサリムに、セリアはじんと胸が温かくなるのを感じた。
きっと、サリムのあの状況に遭遇したら、ほとんどの人が手助けをするだろう。にもかかわらず、まるでとんでもない恩を抱いているかのように言うサリム。
申し訳なくて、でもすごくすごく嬉しくて。
セリアは複雑な表情のまま、それでも笑って見せた。