09:夢の夜会 崩壊編
「ふ、ふふふ……」
大きな邸宅の一室で一人、少女は不気味な笑い声をあげていた。彼女の名はドリス。れっきとした貴族令嬢なのだが、礼儀見習いのため、この邸宅にメイドとして奉公に来ていた。
「私の苦労もようやく報われる……。というよりそもそも、貴族たるこの私が一体どうしてメイドなんてやらなくちゃいけないのよ!」
しかし彼女、メイドの生活に早くも飽き飽きしていた。
「私だって貴族なのに、手は汚れるし、部屋は臭いし、綺麗なドレスも着られないし」
働くとはそういうことなのだが、今まで貴族令嬢として過ごしてきた生活と比べると、どうしても今の生活に馴染むことができなかった。その不満を解消させるため、ドリスが現在躍起になって行っているのが、ジェーンを苛めることだった。
ジェーンは、その身分にそぐわずこの大邸宅へとやって来た田舎出身労働階級のメイドだ。マナーも言葉遣いも、身の弁え方も全くなっていないので、ドリスは彼女を見るだけで腹がむかむかしていた。しかも、今回のジェーンは中々へこたれない。
以前のジェーンは、少し無視してやっただけで顔が真っ青になった。肩を突いただけでびくびくと震えた。とても良い気持ちだった。彼女の反応を見るだけで、自分は恐れられている、やはり私はれっきとした身分の令嬢なのだと確認することができたから。
しかし今のジェーンには腸が煮えくり返る。他のメイドたちに無視するよう通達しても、彼女は素知らぬ顔で掃除をしている。メイド長に告げ口しても、怯えるどころかドリスに突っかかってくる。すごくイライラした。
「でも……でもこれで、私もようやくメイドの生活からおさらばできるのね!」
まさに、ドリスの思い付きは素晴らしかった。憎きジェーンと憂愁に満ちたメイドの生活とを一掃できる思い付き。彼女はつい数日前、ジェーンに取引を持ち掛けたばかりだった。自分の銀器磨き当番を代わってくれるのならば、旦那様方と一緒に夜会へ赴く雑用係を代わってあげてもいい、と。
「来月は夜会……ああ、なんて素敵なんでしょう!!」
ドリスは生家から持って来ていたドレスを胸に抱え、うっとりと甘い声を漏らした。
夜会行きへは、ドリスのかねてからの夢だった。私の身分に相応しい場所へ赴けば、きっとどなたか素敵な紳士が私を見初めるわ、そんな舞い上がった気持ちでドリスは浮ついていたのだ。自分の現在の仕事をも忘れ、地位ある美丈夫な将来の夫にうつつを抜かしていた、その時。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「ドリス様、よろしいですか?」
「何よ」
ドリスは不機嫌な声で出迎える。びくびくしながら入って来たのは、ドリスの取り巻きの一人、スージーだ。
「あの、夜の肩もみのお時間で……」
「ああ、そうね。もうそんな時間」
素っ気なく言うと、ドリスは手に持っていたドレスをベッドにそっと置くと、足を組んで椅子に座りなおした。
「全く、早くしてちょうだい」
「は、はい……」
スージーはおずおずとドリスの肩を揉み始めた。
スージーは下級貴族である。彼女もまた行儀見習いのためこの邸宅へと奉公しに来ていた。始めにここへ来た時は、同僚と共に働き始める期待に胸を焦がらせていたが、使用人の世界でも相変わらず階級が物を言う世界であることにがっかりしていた。そして同時に、この邸宅でも誰か権力者を見つけなければ、と思ってもいた。これからしばらくの間、自分はここで衣食住を共にするのだ。誰かに睨まれたりしたら、それこそ生きていけない。
長年下級貴族として暮らしていたスージーは、ドリスがメイドを牛耳っていることにすぐに気が付いた。彼女に逆らったならば、ここではやっていけない。本能がそう告げていた。そしてすぐさま彼女に取り入るようになり、現在彼女の肩もみを任せられるほどになったのだ。と言っても、スージーは、ドリスの取り巻きの下っ端辺りに属しているのだが。それでも将来が安泰しているのだから、もう何も言うまい。
スージーは、以前の『ジェーン』への苛めが始まり、そして彼女が邸宅を去っていく様も見届けていた。彼女のようにはなりたくない。彼女のように惨めにはなりたくない。一貫して、スージーの中にはそんな思いがあった。
スージーは心を込めてドリスの肩を揉んだ。しかし、どこか惚けたようなドリスは、今日は一向に自分から話し出そうとしない。
自分との時間を居心地悪く感じられたらどうしよう。無能だと思われたらどうしよう。
気弱なスージーにはこの沈黙に耐えられなかった。
「ど、ドリス様はお優しいですね」
とりあえず思いついたことを口にしてみる。
「はあ? 何がよ」
「だ、だって来月の休日の件で……その、ジェーンに雑用の係を申し出たんですよね……?」
「ああ、そのこと?」
途端にドリスはふふん、と鼻の下を伸ばした。
「いくら何でも休日を取られるのは可哀想かなって憐れんであげたのよ。ジェーンからしてみれば、感謝してもしきれないわよね」
あまり多くを語らずにドリスは口を閉じた。いくら取り巻きだとはいえ、夜会のことを話したら自分も行きたい、連れて行ってくれと面倒なことになるかもしれない。雑用は、そう何人もいらないのである。加えて、ドリスは自分よりも誰かが目立つことを良しとしなかった。常時おどおどしているこのスージーならば、自分の引き立て役として連れて行ってもいいかもしれないが、しかし全ての可能性を排除しておきたいドリス。ここは涙を呑んで、単身夜会へ赴こうと計画していた。
「そ、そうですね……」
一方でスージーは、再び沈黙してしまったこの場に焦ってもいた。たびたび訪れる肩もみの時間のため、スージーはいつも昼のうちに話題を探しているのだが、しかし今日はあまりにも忙しかったため、その時間が無かった。必死に頭を回転させながら、次第に視線もくるくる見回しながら考えに考えた、その時。
「ドリス様。そちらのドレスは……? とっても素敵なドレスですね」
「そうでしょう?」
ドリスは途端に喜色を浮かべた。当たりだ、とすぐにスージーは胸を撫で下ろした。
「私ね、このドレスを今度の雑用の時に来ていようと思っているのよ。何せ、一応向こうは夜会でしょう?」
先ほどは全ての可能性を排除する、と心に決めたドリスだったが、ついおだてに乗ってしまった。しかも自分が口を滑らせたということすら気づいていない。
「え……? でもあの、ドリス様はお仕着せで行かれるんじゃ……?」
「夜会にそんな恰好で行ける訳ないでしょう!? 向こうで着替えさせてもらうのよ!」
「は、はあ……」
一介のメイドに、果たしてそんな所業を許してもらえるのだろうか。
スージーは一抹の不安を覚えたが、彼女とて長年ドリスの取り巻きをやっている訳ではない。空気を読んで、それについては何も言わなかった。
「いいですね、夜会へ行けるなんて。羨ましいです」
「でしょう?」
羨ましそうにドレスを眺めているスージーの姿が容易に目に浮かび、ドリスは思わず複雑な気持ちになった。
彼女が行きたいと言ってきませんように。
心の中でそう祈りながらも、しかしドリスは優越感に存分に浸っていた。
元来、ドリスは下級貴族に夜会は似合わないと思っていた。大したドレスや宝石も用意できないくせに、我が物顔でやって来る貴族たち。彼らを見ていると、上級貴族らしく豪勢なドレスや宝石を身に着けているこちらまで品位を疑われてしまうのではないかと冷や冷やしていた。
しかし、それでも彼らの存在は、自分たちの引き立て役と思いこめば、不思議と煩わしくなくなるものである。実質、ドリスよりも地位は低いものの、一応貴族である彼女たちを侍らすのは、とても気持ちが良かった。こちらから命令しているのではない。彼女らが自主的に、ドリスの元へやって来るのである。権力者の気持ちとはこのようなものか、とドリスは更に得意げになる。
「夜会、楽しんできてくださいね」
「当たり前じゃない」
ドリスは悠々と言ってのけた。鼻の下は伸び切っている。うふふ、と自然に口角も上がった。
本当に夜会が楽しみだった。
旦那様たちが夜会へ出席したら、もうドリスたち使用人の仕事は終わりである。使用人は使用人のための部屋が貸し切られているが、彼女にはそんなものの存在はどうでもよかった。彼女が目指すは麗しい貴公子たち。
彼らはすぐに私を見初めるだろう。そして彼らから声をかけられ、私はすぐに身の上を話す。上級貴族の身分でありながら、メイドとして奉公する不遇な境遇のことを。彼らは憐憫を誘われるに決まっている。そして同時に思うだろう。ああ、なんてこの令嬢は可憐で美しく、そして優しいのだろうと。同僚のメイドのために己の休日を差し出すなんて!
そんなドリスのご機嫌に割って入るように、ノックの音は響き渡った。今夜彼女の部屋を訪ねる客はもういないはずである。ドリスとスージーは顔を見合わせた。ドリスは顎で行け、と指図し、スージーも大人しくそれに従い、ドアを開けた。
そこから覗いた、思わぬ訪問客に、二人は思わず口をポカンと開けた。しかしすぐに我に返ったのはスージーだった。自分よりもいくらか年下の彼女、リディアを部屋に入れながら、固い声で出迎えた。
「ドリス様に何のご用?」
スージーは憂鬱だった。ドリスとリディアが犬猿の仲であることなど周知の事実。どうして自分が肩もみをしている時間に彼女がやって来るのか、スージーは恨めしく思うばかりだった。
「私……」
リディアは始め、何やら思い詰めたような表情をしていた。普段と違う彼女の様子に、ドリスもスージーも珍しく息をつめて見守った。
「……この前の取引、やっぱり無かったことにして欲しい」
「は、はあ!?」
「取引……? ドリス様、一体何のことですか?」
「ちょ……。あんたは良いのよ、ちょっと黙ってなさい」
疑問符を浮かべるスージーに、ドリスは片手で制した。従順にスージーは口を閉じた。
「あんたね、こっちだってそんなこと急に言われても困るわよ」
ドリスは一旦腕を組み、体勢を立て直そうとした。
「私はね、あなたのために――」
「とにかく、私、今日から銀器磨き止めるから。自分でやってね」
それだけ告げて、リディアは踵を返そうとする。あまりにも身勝手なリディアに、さすがのドリスも青筋を立てた。
「あんた、来月の休み無くなんのよ、ただの雑用係しないといけないのよ? それでもいいの!?」
「別に……いいよ」
ジェーンの声は絶望に染まっている。
こっちが絶望に染まりたいわ! と、ドリスとスージーは同時にその言葉を飲み込んだ。ドリスとしては、自分の夜会の夢が消え去りそうになっていることに、スージーとしては、ドリスの機嫌がどんどん悪くなっていることに絶望して、である。
「どうせ休み貰えたからってどこへ行くともないし。なら、一日休みをもらえるよりも、夜の睡眠時間が少しでも貰えたほうが良いもの」
「ちょ……ジェーン!? 許さないわよ、今更そんなこと!! ちょっと、ジェーン!!」
必死にドリスは叫んだが、リディアは振り返りもせずに部屋を出て行った。やり場のない怒りに、ドリスはキーッと地団太を踏む。
「ちょ……何なのよ何なのよ、もう!!」
「ど、ドリス様。一旦落ち着いて……」
「これが……これが落ち着いていられるもんですか!」
ドリスの血圧は上がるばかり。
「私の……私の夢の夜会が!!」
ドリスの声も大きくなるばかり。
そのあまりにも大きな声に、隣室のメイドから苦情が来るまで、ドリスの声は静まることを知らなかった。