10:全部あいつのせいだ
近ごろ、サイラスが荒れている。
それは、誰の目から見ても明らかだった。彼を担当する教官も、彼二恋するグレゴリーも、そして彼の周りをうろつくマーカスにとっても明らかだった。
「おい、何かあったのかー?」
サイラスとマーカスは同室生ではない。かといって何時何分に一緒に朝餉を食べようなんて間柄でもないので、二人が話す機会は、訓練の時か昼餉の時くらいしかない。ようやくサイラスを発見したと思ったら、いつものように鬱々とした空気を発しているので、さすがのマーカスも見過ごすわけにはいかず、先ほどの言葉を放ったのだ。
聞こえなかったわけではないだろうが、サイラスは顔を上げず、更に頭を深く深く俯かせるばかりだ。次第にイライラしてきた。
「おいおい、明らかに落ち込んでますーってな雰囲気を醸し出しておきながら、こっちがその理由を聞いたら無視か? お前は一体どうしてほしいんだ」
「別に……放っておいてくれ」
「だからさあ」
このままじゃ埒が明かない。
トレーを机の上に食事ごと放置しているサイラスを尻目に、マーカスはさっと目の前の席に座った。その隙に、サイラスのトレーからパンを掻っ攫うのも忘れない。どうせこの調子じゃ味も分からないだろうから、この俺に食べられた方がパンも喜ぶってもんだ!
マーカスは悠々とパンを咀嚼しながら話し始める。
「そういう時は素直に悩みを打ち明けるもんだぜ? 一人でうじうじ悩んでたって、何か解決するか? 偶には人に頼って助言を請うてみろよ」
「お前に話したって大した助言が貰えるとは思わないけどな」
「お前なー。人は見かけによらないんだぜ? 当代きっての助言屋マーカスとはこの俺のことさ!」
「はあ……」
「あからさまにため息つくな!」
いよいよマーカスは匙を投げたくなった。そもそも、男が男の相談に乗るなど、気持ち悪いことこの上ない。そうだ、やっぱりやめよう。
相談役を放棄したとあらば、もう自由に話せるだろう。マーカスはもとより気になっていたことを聞き出すことにした。
「そういえば、お前ティボルトに対して何か仕返ししたのか?」
「はあ?」
何だ突然、とでもいうようにサイラスの顔は驚いている。そのことに、逆にマーカスは驚いてしまった。
「何だよお前、まだなのか?」
「だから何の話だよ」
「この前ティボルトに色々とやられただろ? その仕返しをしたのかって聞いてんだよ」
「あ……ああ、そのことか」
言いながら、サイラスは真面目な表情になる。つい数週間ほど前に、ティボルトがリディアからの手紙を盗んだ事件だ。リディアとの仲違いの方が気になっていて、正直そのことはすっかり頭から離れかけていたが、決して忘れたわけではない。実際、今思い返すだけでも胸がむかむかしてくる。
「そうだな、いっそのこと今復讐するか。イライラしてたんだ、丁度いい」
「適当だなー。ま、もしティボルトに何か仕返しするのなら、真っ先に俺に教えろよ。そんな面白いネタ、見逃すわけにはいかないからさ」
マーカスの魂胆は丸見えだ。どうせ面白おかしく周りに吹聴して回るのだろう。と言っても、そうしてもらった方がサイラスとしてもすっきりするので咎めはしないが。
「でもなあ、俺も不思議だったんだよ。いつ復讐するのかなーって。あの時はあんなに怒ってたのに、いつの間にか違うことで落ち込んでるみたいだったし」
「ああ、そうだな」
確かにサイラスは非常に怒っていた。ティボルトに手紙を盗まれ、しかも泥水に捨てられたとならば、怒らない方がおかしい。しかしそれも、リディアの手紙のことですっかり頭の隅へ追いやられていた。
リディアへ返事を書き、それからずっとティボルトへの復讐を考え、ようやくその計画も纏まったとなったところでリディアから返信が来たのだ。その手紙はいつもと違っていて大分短く、加えて何やら寂しそうな雰囲気を感じた。だから、何かあったのかとすぐに気遣う手紙を送った。彼女はうまい具合にはぐらかし、話を続けようとした。しかしどうも話がかみ合わず、いつの間にか互いを挑発するような言い合いになってしまって……現在に至る。
あれから数日が経ったが、未だにサイラスは手紙を書けずにいる。手紙で口論をしていた時は、届いた瞬間すぐに返していたくせに。こういう時だけは非常に臆病になってしまうのだ。もともと、文通を止めようと言い出したのは自分のくせに。
なぜ、ああ言ってしまったのだろう。
いや、理由も何もない。ただ、その場の勢いだった。リディアが、自分の知らないところで勝手に怒っているようだったので、つい頭に血が上ってしまって、思うままに手紙に書き連ね、そのままの勢いで出してしまった。
どうしてこうなった。
確かに、村にいた頃も幼馴染と喧嘩することは多々あった。しかし、次の日にはどちらもカラッとしていた。もともと物覚えのいい二人ではないし、細かい所を気にするような性格でもないので、昨日行った口論などはすっかり頭から消え去っていたのである。しかし今回ばかりは違う。自分たちが喧嘩した証として、手紙が残っているのだ。一体あいつは何に怒っていたんだと、むしゃくしゃしてそれを読み返してみれば、一層むしゃくしゃしてしまうこと請け合い。これでは、素直になれと言う方が無理だ。それに、顔を合わせて直接言い合って喧嘩していたあの頃とは違って、今は文字でしか言い争うことができない。顔を突き合わせていれさえすれば、自分が怒っていること全て相手にぶつけ、ある意味すっきりすることもできるが、しかし文通だとそうはいかない。結果、この喧嘩を終わらせるには、互いに怒りを消化できぬまま、無理矢理文通を終わらせるしかないのだろう。
そもそも何だ。どうしてリディアは急に態度が冷たくなったんだ! 向こうで気になる奴でも見つけて、それで俺との文通が煩わしくなったのか!?
うがああ、とサイラスはガシガシ頭を掻いた。マーカスはそれを白けた目で眺める。一人で彼が黙りこくってしまったので、マーカスはじーっと彼の挙動不審な行動を見ているしかなかったのだ。あまりにも長い時間そうしていたので、マーカスは自分の分の食事だけでなく、目の前の友人のそれにも手を付けていた。と言っても、彼が正気に戻る気配はさらさらないようなので、ゆっくり口に運んでいた。しかしそれももうお終い。サイラスの分の昼餉は、すっかりマーカスの腹の中に収められていた。
「なあ、もうそろそろいかないか? 復讐とやらも見物したいし」
「ああ……そうだな」
浮かない顔で席を立つ。サイラスは実質全く食事に手を付けていない状況なのだが、空っぽになった自分のトレーを見て何も感じなかった。精々、俺の食欲って怖いな、知らず知らずのうちに食べてたんだと見当違いなことを考えるだけであった。
「でもさあ、ティボルトも餓鬼っぽいことするよなあ。手紙を盗んで捨てるだなんて」
「ああ、今思い返してみても腹が立ってくる」
「あれから大丈夫だったのか? 幼馴染との文通。あの時の手紙、汚れて解読不能だったろ?」
「ああ、まあ何とかな。ティボルトにやられたっていうのは癪だったから、こっちの近況報告だけしておいた」
「はあ? 何でそんな面倒なことを」
思わずマーカスは立ち止まった。
「普通向こうにも手紙が駄目になったこと伝えるだろ? じゃなきゃ、相手との話が拗れるじゃないか。手紙に質問でも何でも書いてたら、向こうは無視されたって思うかもしれないぜ?」
「あ……」
サイラスはハッとして立ち止まった。
全く、思っても見なかった。ただ言い訳するのが面倒になって来て、そのまま返信したまでだ。しかし、リディアからの手紙に、何やら質問や頼みごとでも書かれていたら……? 自分がそれを無視したように見えることは簡単に想像がつく。
確かに思い返してみても、自分の返信直後からリディアの様子はどこかおかしくなっていた。もしマーカスの言う通りだと考えてみれば全て合点が行く。
「そうか、そのせいで――」
リディアは冷たかったんだ、つっけんどんだったんだ、文通を止めたいんじゃないかと聞いて来たんだ。
「今から復讐が楽しみだなあ」
気づくと、サイラスはそう漏らしていた。先ほどから脈絡のないサイラスの台詞に眉を上げていたマーカスは、いよいよ疑問を口にした。
「おい、いったい何のことだ。文通は順調なんだろうな?」
「いや、全然順調じゃない。それもこれも、全部ティボルトのせいだ」
実際のところ、全てはサイラスが手紙を駄目にしたことをリディアに伝えれば良かっただけの話だったのだが、そんなことはとっくに頭から消え去っている。サイラスはとにかく、今までのイライラ、焦り、憤怒の感情を誰かにぶつけたくてたまらなくなった。それにはうってつけの相手がいた。
「グレゴリーさん」
サイラスはすぐさま騎士の溜まり場へ行くと、グレゴリーに声をかけた。マーカスとしては、復讐とグレゴリーがどう関係するのか全く見当もつかず、黙って見守るばかりだった。グレゴリーはと言えば、愛しいサイラスに声をかけられたと舞い上がってこっちにやって来た。
「な、なな、何かしらサイラス君。あなたからこっちに来るのは珍し……いや、初めてよね? 光栄だわ」
「いえ、ちょっとグレゴリーさんのお耳に入れたいことがありまして。今お時間ありますか?」
「も、もちろんあるわよ! たとえ用事があったとしてもぶん殴ってサイラス君のために時間を空けるわ!」
グレゴリーは筋肉が盛り上がっている二の腕を振り上げた。慣れていないマーカスは、ギャッと悲鳴を上げてサイラスの後ろに隠れた。
「あのですね、話というのは俺の知り合いのことなんですが」
「知り合い?」
「はい。俺の知り合いでティボルトという従騎士がいるんですが、こいつ、こいつがグレゴリーさんのこと綺麗だって言ってました」
「え……え、本当?」
目に見えてグレゴリーの頬が赤く染まる。してやったりとサイラスは笑みを浮かべる。
「もちろんです。あいつ、グレゴリーさんに付き纏わ――くっついている俺のことが羨ましいらしく、いつも俺に嫌がらせしてくるんです」
「はあ? あたしのサイラス君に? それは許せないわ!」
突然グレゴリーは激高する。思わぬ方向に話が向いてしまったせいでサイラスは焦る。別にグレゴリーに言いつけるとか、そんなつもりは一切なかった。
「ああ、じゃなくて! 俺はその嫌がらせのことは何とも思ってないんです! だって可哀想じゃないですか、単にグレゴリーさんと親しい俺に嫉妬してるだけなのに」
「……そう」
必死に言い募ると、グレゴリーの表情も柔らかくなった。どこか遠くを見ているような表情は、ティボルトのことを思い浮かべているのかもしれない――。
「……ティボルトって誰?」
「……え、知らないんですか?」
思わずガクッと身体がずり落ちた。
「ええ、知らないわ。だってあたし、サイラス君のこと以外眼中にないもの」
……もの凄く知りたくなかった情報だ。
「え……っと、結構な男前だと思いますよ。その、なんていうか、野性的な魅力が隠れてる……と言いますか」
なぜ男を褒めなくてはいけないのか。
しかし彼に興味を持ってもらうには褒め続けるしかないだろう。一種の悪寒を感じながらも、サイラスは更に言い募る。
「やっぱり男と言えば線の細い俺みたいなやつじゃなくて、ティボルトみたいながっしりした体格の方が守ってもらえると思います。あの、言動も男らしいですし、背もすらっとしていて――」
「がっしりした体格、ねえ……」
考え込むようにグレゴリーは呟いているが、その瞳は新たな獲物を見つけたとばかり爛々と輝いている。もうひと押しだ、とサイラスはひそかに意気込んだ。
「きりっとした太い眉に厚い唇、程よくついた筋肉は……その、きっと颯爽とグレゴリーさんを守ってくれること請け合いですよ!」
「ふふ、ちょっと一目見る価値はありそうね」
かかった!
恐る恐る引いた網に、筋骨隆々な魚が引っかかったようだ。
「その子、名前はなんだったかしら」
「ティボルトです。きっと取り巻きと三人で固まってます。その中で一番背が高いのがティボルトです」
「ちょっと行って来ようかしら」
「今ならきっと食堂にいると思いますよ! 多分中央辺りでふんぞり返ってます」
「分かったわ!」
ルンルンと口ずさみながらグレゴリーは駆けていった。角の向こうにその背中が消え去ってようやくサイラスはほくそ笑んだ。
俺の気持ちも少しは味わうんだな。
グレゴリーではないが、してやったりと鼻歌でも歌いたい気分でゆっくりと歩き出す。その後ろを、恐る恐ると言った様子でちょこちょことマーカスがついて来た。二人のやり取りが恐ろしく、彼はずっとサイラスの後ろで固まっていたのだ。マーカスが完全に去ったのを見計らってサイラスにそっと呟いた。
「俺は今誓う。絶対にお前を敵に回さないと」
「それは心強いな。どうか一生その考えが変わらないことを祈るよ。俺もお前をグレゴリーさんの餌食にしたくないし」
「あ……はは、そうだな。気を付けるよ」
機械仕掛けの人形のように、マーカスはただひたすらに頷いた。
いつもは飄々とした彼だが、今回ばかりはさすがに肝が冷えた。これほどまでに自分の身に危険を感じたのは生まれて初めてのことであった。