07:この借りは必ず


 朝餉を取り終わった後、サイラスは、寄宿舎一階の窓口に寄った。王宮へと届いた手紙や小包は、城門の傍に設けられている一室で仕分けられた後、各部署へと届けられる。リディアへ手紙を送った数日後にここを訪ねるのはサイラスの習慣になっていた。

「手紙、届いてますか?」
「ああ、サイラス君だね。はい、いつもの」
「ありがとうございます」

 手紙を受け取ると、差出人の名を碌に見ようともせず、サイラスは素早くそれを懐に閉まった。横から興味深そうにマーカスが覗き込んでいたからだ。

「手紙、結構定期的に届いてるよな。恋人でもいるのか?」

 ほら来た。自称情報屋の知りたがり。
 しかしすぐにハッとして、サイラスはきょろきょろと周りを見渡した。この会話を聞かれたくない輩が数名いた。特にその中の一人――グレゴリーには、絶対に聞かれたくない。手紙の相手が女性だと知れたら、怒りのあまり突進してきてしまうかもしれない。いや、自意識過剰などではなく。

「違う……。そんなんじゃない」

 誰もいないことに安心して、サイラスは案外簡単に口を開いた。マーカスは口元に笑みを浮かべ、更に勢い込んで尋ねる。

「じゃあ両親か?」
「いや、両親でもない。ほら、この話題はもういいだろ。さっさと行こう。遅れる」

 スパッと切り上げて歩き出した、つもりだった。しかしマーカスにはそんなつもりなど一切ないようで、ニヤニヤしながらサイラスの肩に腕を乗せた。

「そうやってうやむやにするところが怪しいなあ……。な、相手って女?」
「さあ、どうだかな」
「おかしいなー。あれはどう見ても女の字だったんだけどなー」
「ちっ……」

 サイラスは思わず舌打ちをする。自称情報屋は伊達ではないようだ――。

「あ、図星?」
「はあ? お前鎌かけて……」

 サイラスは呆れた声を漏らした。前言撤回。情報屋なんて本当にただの自称だ。

「いやあ、やっぱりそうか女かー」

 嬉しそうにマーカスはうんうん頷く。肯定も否定もせずにサイラスは黙ってその隣を歩いた。

「で、どういう関係なの? 本当に恋人じゃないの?」
「ちげーよ」
「サイラスって田舎から来たんだよな? じゃあ同じ出身の……いわゆる幼馴染とか?」
「……まあ、そんな感じ」

 訓練場に着くと、好奇心に輝いた瞳で質問されながら、サイラスは準備運動に入った。とにかく早くランニングを始めたかった。この好奇心の塊から早く逃れたい。
 しかし、いざ走り始めてもマーカスの質問の嵐は止むことがなかった。厳しい瞳で見つめる教官の隙を窺ってはサイラスにしつこく質問を繰り返す。

「――で、幼馴染だっけ? お前、その子のこと何とも思ってないの?」
「別に、ただの幼馴染ってだけだけど」
「だって律儀に手紙送り合ってるんだろ? ただの幼馴染っていう方がおかしいぜ」

 マーカスはからかうようにヒューっと下手な口笛を吹いた。サイラスはイラッと眉を寄せ、自称情報屋をおいて更に速度を上げた。

「ちょ、サイラス! 逃げんなって――」
「おいマーカス! お前まだ体力有り余ってるようだな、三周追加だ!」
「へ!? そ、そんなあー」

 情けない声を上げるマーカス。サイラスはしてやったりと笑みを浮かべ、そのまま更にマーカスとの差を開けた。


*****


 走り込みの後、サイラス達は息も絶え絶えに各人その場に倒れこんだ。弛んでるとか足が遅いとかいろいろ難癖を付けられた結果、優に十周は追加で走らされたのである。と言ってもそれは今日が初めてではなく、いつも何だかんだで規定よりも多く走らされている。しかし、そんな鬼教官に対して文句を言えるものは誰もおらず、歯を食いしばって必死に耐えるしかないのだ。
 サイラスは汗でぐっしょりしているシャツをパタパタ仰ぎながら、井戸の方へ向かう。マーカスの質問に付き合わされたせいか、随分他の者とは後れを取ったようで、もう既に井戸の前には行列ができていた。それぞれ水を飲む者、顔を洗う者と様々だ。中には豪快に桶の水ごと全身に掛けている者もいる。濡れたシャツが体に張り付き、それが何とも言えない色香を――。

「って、俺は何を考えてるんだ!」

 ガンッとサイラスは壁で頭を打ち付けた。隣の男が気味悪げに通り過ぎていくが構いはしない。それよりも自分の思考の方が大問題だった。
 いつの間にか、サイラス自身も周囲の思考に毒されていたのだ。どうすれば男色に狙われないのか、どうすれば自分の体を守れるのかを考えるあまり、思考が男色方面に偏ってしまっている。

「ああ……駄目だ、本当……」

 いつか、自分は自分でなくなってしまうのだろうか。
 いつか、自分は男を好きになってしまうのだろうか。
 悩むあまり、サイラスは水すらも飲まずにフラフラと訓練場に戻った。そして走り込みの前に投げ置いていた訓練服を手に取る。
 これが、これだけが、唯一自分が自分であるための証拠のような気がした。
 サイラスはギュッと己の訓練服を握りしめると、その懐を探った。……探った。探った、探った――!
「な……無い! はあ!?」

 慌てて訓練服をバサバサと振り回すが、リディアからの手紙が落ちてくることは無い。バッと周りを見回してみるが、それらしいものは落ちていない。

「は……え、どこに落とした!?」

 言いながらもサイラスは無駄に体をポンポンと叩く。今着ているシャツに、ポケットなど存在しないのに。
 焦りに焦りまくるサイラスは、きょろきょろと辺りを見渡す。誰か、誰か俺の手紙を拾っている者は――。

「あははー」

 そんな時、呑気に友人と笑っているマーカスが目に入った。頭が真っ白になったサイラスの目には、彼しか入らなかった。
 そのまま一直線に彼の元へ向かう。その途中で彼もサイラスに気付いたのか、きょとんとしながらこちらを見つめ返した。

「おいマーカス。ちょっと来い」
「何だよ?」
「いいから」

 目を丸くするマーカスは面倒くさそうに動こうとしなかったので、サイラスは無理矢理首根っこを掴んで隅に引き寄せる。物陰へ誘導し終わると、マーカスはぶつぶつ言いながら首元をただした。

「つーかなー、お前のせいでえらい目に遭ったよ。あれから結局五周も追加されたし?」
「お前が悪いんだろ。訓練の最中に無駄話をしてくるから。というか、本題はそれじゃない」

 サイラスは息を吸い込む。吐き出したそれは、思ったより力強いものではなかった。

「返してくれよ。いい加減からかうのは止めてくれ。質問ならいくらでも答えるから」
「はあ? 何の話だ?」
「手紙だよ! だから……その、幼馴染からの手紙! 朝俺が受け取ったの見てただろ?」
「はあ……あの手紙……って、俺が盗ったって!?」

 口をポカンと開けたままマーカスは首を振る。が、それでもサイラスによる疑いは晴れない。

「ちょ……ちょっと待ってくれよ。確かにさっきはからかい過ぎたって思ったけど、いくら何でも俺がそんなことするように見えるのか?」

 マーカスの瞳は、驚きを通り越していっそ呆れている。それを確認して、ようやくサイラスは正気に戻った。どうやら、失せ物の焦りのせいで、思った以上に動揺していたようだ。視線を逸らしながらサイラスは顔を俯けた。

「……悪い」
「別にいいけど。どこに落したとか心当たりはないのか?」
「いや……近くには落ちてなかった」

 サイラスは更に下を向く。その顔はまるで迷子のようで。マーカスはため息をついてガシガシと頭を掻いた。

「あー、俺も他の奴らに聞いてみるからさ、お前も手あたり次第探してみろよ」
「ああ……頼む」

 サイラスは、ここ一番落ち込んでいた。マーカスはマーカスで、彼をどうにかして元気づけようか逡巡して口を開いたり閉じたりする。そんな二人の前に、ゆっくり姿を現す三人組がいた。
 下品な笑い声に気付き、サイラスは訝しげに頭を上げる。そしてすぐに顔を顰めた。瞬時に理解した。

「お前らか……」
「ああ? 何のことだ?」

 わざとらしく聞き返すその口元は歪んでいる。

「あーでもそう言えば、さっきそこでこんなもの拾ったんだけど――」

 そう言ってティボルトは後ろの細い方にちょいちょいっと合図する。彼はニヤリと笑って、後ろ手に持っていたものを掲げて見せた。紛れもない、リディアからの手紙だった。

「いやあ、一体誰の物だろうな? ああ、そうだ。中身を確認しないとな」
「おいっ……!」

 ティボルトは汚い手でびりびりと封筒を破いた。用無しとなった白い封筒はひらひらと地面に落ちていく。

「お前……いい加減にしろよ」

 自分でも驚くくらいドスの利いた声が漏れた。一歩二歩と近づくたび、彼らは同じように下がった。

「おいおい、近づくんじゃねえよ。別にお前のもんでもないだろ? これは」
「ふざけるな! 返せ!」
「えー? もしかしてお前のだったの、これ?」

 わざとらしい笑みでひらひらと手紙を振る。サイラスは即座に駆けだしたが、ティボルトの取り巻き二人に囲まれた。無理矢理突破しようとしたが、頑固な壁はなかなか抜けられない。

「おい、三対一はちーっとばかし卑怯なんじゃないか? お前らもう十五だろ? こんな餓鬼の喧嘩みたいなの止めようぜ」

 マーカスは相変わらず飄々とした態度で取っ組み合う三人の中に割って入ると、太い方の取り巻きを羽交い絞めにした。

「いっ……いでででっ……!」

 太い腕が無理矢理後ろに回され、取り巻きは情けない悲鳴を上げた。

「ちっ、下級貴族の分際で……!」
「上級貴族の分際でそんな下等な真似すんのはいいの?」

 澄ました笑顔を浮かべながらマーカスは細い方と太い方、二人を手玉に取る。彼がいれば心強いと、サイラスはしっかり前を向く。

「返してほしいか?」

 引き攣った笑みを浮かべるはティボルト。

「いや、でもまだこれがお前のものだと決まったわけじゃないからな。いっそのこと皆の前で朗読してやろうか。大好きなサイラス君へってな!!」
「俺に負けたからって仕返しか? しかもこんな卑怯な手で。上級貴族の肩書が泣くなあ?」

 後ずさるティボルトを、壁際に追い詰めた。サイラスの手が伸びもう少しで手紙に届くという所で、ティボルトはクルッと身を翻した。

「……はっ、そんなに言うなら返してやってもいいぜ――」

 言いながら、彼はサイラスの体を抑え込みながら、手紙を手放す。一瞬遅くサイラスは手を伸ばしたが、それが触れる前にティボルトの拳が鳩尾に入った。くっと息を漏らし、膝をついたサイラスの横で手紙はひらひらと水たまりに落ちていった。

「あーあ、ざまあねえな。田舎者のお前にはそれがお似合いだ」

 サイラスはげほっと息を吐き出す。その様をけらけらとティボルトは見下ろした。

「田舎者の相手してたらすっかり腹が減っちまったな。おい、お前ら、もう行くぞ」

 高らかに笑いながら、ティボルトは大股で歩み去る。取り巻きたちがよろよろとその後に続いた。
 サイラスはゆっくり起き上がって手紙を拾った。泥水でぐちゃぐちゃになったそれは、ほとんど解読ができなかった。あの幼馴染の性格に似合わない角ばった字が、黒く滲んでいる。

「…………」
「……サイラス?」

 心配そうにマーカスが歩み寄る。しかし辿り着く前に、サイラスが独りでに叫び出した。

「くそったれ……覚えてろよ、ティボルトめ! この借りは必ず返してやる……!!」

 完全に目がイッてる。
 マーカスの感想は至って簡素なものだった。
 こいつだけは敵に回さないようにしよう。
 これからからかう時はほどほどにしよう。
 そう心に決めたマーカスであった。


 さて一方で、脇目も振らず自室へ向かったサイラス。扉を乱暴に開けると、きちんと閉めることもせずに真っ直ぐ机に歩み寄り、手紙をそっと置いた。
 明るいところで見れば少しは変わるかと思ったのだが、手紙の惨状は変わることなく。むしろもっと滲みが広がっているような気がした。力なく手巾で水の滴りをポンポンと抑えるが、結果は変わらない。
 はあ、とため息をついて頭をそのまま机にぶつけた。ゴンッとなかなかの音が響いたが、痛みは感じなかった。
 俺は、自分が思っていたよりもずっと、あいつとの文通を大切に思っていたらしい。
 弱気になったサイラスは、ふっとそんなことを考えた。しかしすぐに正気に戻ると、ぶんぶん首を振る。
 いや、違う! 断じて違う! 何か……その、そうだ、ティボルトにしてやられたことがもの凄く腹立たしいんだ! あのティボルトめ、今に覚えてろよ……!
 悲しみを怒りに昇華し、サイラスは再び不敵な笑みを浮かべた。
 そうと決まればいつまでも落ち込んではいられまい。まずはリディアへの手紙の返事を書かなくては。
 真っ白い紙を前にして、サイラスはうーんと唸る。
 手紙に書く内容には特に困らない。またマーカスの馬鹿な話でも書いておけばいいのだから。しかし向こうが何か新しい情報を載せていれば……それに対しての返信がないのはおかしいんじゃないか?
 しばらく考え込んでいたが、何だか面倒くさくなってきて、サイラスはそのまま自分の近況報告だけにしておいた。
 理由を並べ立てて手紙を紛失した旨を書き記すのも一つの手だが、その理由を考えるのが面倒だった。格好悪くて本当のことなど絶対に言えないし、かと言って落としたなどと有りがちな嘘を書くのも性に合わない。今までだって向こうも近況報告ばかりだった。どうせ今回もそう大して変わらないだろう。そう思ってのことだった。
 しかしこれが、リディアとの些細なわだかまりを生むことになるとは、この時のサイラスは決して思っていなかったのである。


*****


『リディア。
 元気そうで何よりです。俺の方も相変わらず厳しくも楽しい毎日です。先日話した友人マーカスだが、何だかんだ言ってやっぱり良い奴だということが今日分かった。普段は超絶ウザいけど。今日も自称情報屋の彼に、訓練中下らないことを根掘り葉掘り聞かれた。面倒で適当に相槌を打っていたら案の定教官に見つかって一人だけ五周追加で走らされていた。ちょっとすっきりしました。
 普段は色々と面倒なやつだけど、ちょっと今日は借りができたので、いつか休日にでも何か奢ってやろうかなと考えてます。リディアも忙しいだろうけど頑張ってくれ。サイラス』