04:心安らげる時間
『サイラスへ。
元気そうで何よりです。
サイラスの方は月に一度の休みなんだね。安心しました。せっかくの休みを睡眠に使うのはもったいないので、友人たちと外で遊んだ方がいいと私も思う。
こちらはあまり休日は貰えないけど、その代わり同僚のメイドたちとは仲良くやっています。昨日なんか、仕事中に同僚のメイドたちと会話に花が咲いてしまって、先輩たちに叱られてしまいました。
サイラスもあまり羽目を外さないように頑張ってね。
ではさようなら。リディアより』
*****
……何が会話に花が咲いただ。針のむしろだったくせに。
同僚たちと銀器を磨いているときは、リディアだけ一人離れてぽつんと作業していたし、頑張って話しかけようとしてもぎこちない反応しか返って来ない。何かの嫌がらせなのか、床や階段を磨くときもリディアだけが一人でやらされた。他は二人か三人で掃除しているのに。
彼女が発した言葉と言えば、自ら話しかけた時かメイド長から用事を言いつけられた時の返事くらいだ。
「あーあー。ちゃんと声出る……か」
ベッドに身を横たえながらリディアは発声してみた。声が天井にぶつかり、そのまま自分に跳ね返ってきた。その時間は僅か一瞬。会話とも言えなくらいの短い時間。
「何やってんだろ、私……」
ふっとリディアは笑い声を漏らした。それは暗く静かな部屋に響き、すぐに消えていった。
虚しい。
それは自分が一番分かり切っているはずだった。
「ジェーン! ジェーンったら!」
まだ仕事の時間には数十分早い。にもかかわらずリディアを呼ぶのは、最近早く目が覚めるとぼやいていたメリッサだ。暇な時間を潰すためにリディアによく小言を言いつけててくる。まるで嫁ぎ先の小姑のように。
「あんた、昨日ちゃんと掃除したんか? ここ……ここ! 埃がついてるじゃないか。ほら、あそこも……そこも! それに銀器はな、きちんと手入れしないとすぐに黒ずんでくるんだよ。ほら、見えるだろ、この黒ずみ!」
この部屋の当番は私じゃないし、昨日銀器を磨いたのはドリスたち三人組だ。
そう思ったが、口うるさいメリッサに口答えすると更に声を張り上げて説教されること請け合いだ。リディアは力なく項垂れ、頷き続けるしかなかった。
そうしている間にぞろぞろと他のメイドたちも集まってきた。欠伸をしている者も友人と談笑している者も、リディアがメリッサに説教を受けている姿を目撃すると、すぐに嘲笑を浮かべた。誰もがメリッサの小言にはうんざりさせられていたのだが、リディアが来たことでその叱られ役が決まり、晴れ晴れとしているのである。そして同時に、リディアの身分の低さに相応の役柄に胸がすいてもいる。
両手に有り余るほどの人数のメイドが働いているこの邸宅の主は、かなりの大貴族である。よって、働くメイドたちもマナーが徹底されており、かつ身分もしっかりしている者が多い。特にドリスたち三人組や、その他侍女などは皆貴族の令嬢で、行儀見習いのためにここで働いている。その中で目に入る、街どころか田舎出身の労働者階級の娘。身分の低い者と一緒に働くなんてと彼女たちが不快に思うのは当然だった。
だから、私がこの邸宅で働かせてもらえるのはまだ幸運だったのかもしれない。あまり裕福でない中流家庭に雇われてしまえば、一人で全ての家事をこなさなければならないのだから。
リディアはそう思うことで、自身を慰めていた。それは、幼馴染に対する態度にも似ていて、自分に対して言い訳しているのである。言い訳によって、この境遇を仕方のないものとしているのかもしれない。
しかし、リディアには知りようもないことだが、この途方もなく大きな邸宅で働く使用人たちの間では、暗黙の存在というものがあった。貴族に接する機会の多い彼らは、その分精神的な緊張、圧迫感も多い。どこかで休息が必要となる。にもかかわらず彼らには十分な休日も与えられず、賃金も安い。ならば、毎日仕事をする中で、適度に息抜きする必要がある。その息抜きが、いじめでもあった。
彼らはその存在に対して明確に言及することは決してないだろう。しかし、暗黙の内に彼らの間でその存在が認識されていることは確かである。
と言っても、貴族出身も多い使用人の中で、身分の高い者を対象とするには勇気がいった。彼らを苛めるには報復が恐ろしいし、いつ自分の身に火の粉が降りかかってくるかも分からない。そんな時、誰よりも身分の低い労働者階級は最適に思えた。
リディアには知りもしないことだが、以前の『ジェーン』も、田舎出身の労働者階級の娘だった。しかし働くにつれ、使用人の皆から嫌がらせを受けた。しばらくは耐え忍んだが、味方になってくれる者は誰もおらず、そのまま涙を呑んで辞職。彼女のその後は知られていない。が、他の使用人たちからあることないこと吹き込まれ、怒った主から招待状を貰えなかったメイドの末路は悲惨だ。
リディアは以前の『ジェーン』が辞めたことで、彼女の役職が空き、運よく自分に仕事が回って来たと思っていた。が、現実はそんなに甘くはない。『ジェーン』が辞めてしまったことで、邸宅の使用人たちは急遽新しい息抜きの存在が必要だった。始めから憂さ晴らしができる労働者階級の娘が急募されていたのである。
そんなこととはつゆ知らず、リディアは呑気にこの邸宅にやってき、そして第二の『ジェーン』となった。自分の境遇に甘えず、必死に耐えている彼女には、全く知る由もないことであった。
「では各自、いつものように仕事を始めてください」
やっとメリッサの小言から解放されたと思ったら、今度はもう朝の仕事が始まる時間だ。偶には部屋の掃除でもしようと考えていたリディアは、がっくり肩を落とした。そしてそのまま一人で晩餐室へ向かう。朝餉が始まる前に、一人で暖炉や床の掃除をしなくてはならない。
「ジェーン。あなたはいいわ」
そんな彼女に一言、メイド長マーサが継げた。
「え……? でも」
「あなたには買い物に行ってもらうから。今日はちょっと量が多いから今から行ってちょうだい」
「はい」
言いながらも、リディアは頬が緩むのを必死で堪えた。
近ごろこの辺りはめっきり冷えてきたので、皆外へ出るのを嫌がる。嫌な仕事はジェーンへ、という暗黙の了解が出来上がっている現在、買い物は全てリディアの仕事になっていた。頼まれる時はなるべく嫌そうな表情を心掛けているが、内心では舞い上がっていた。
一人で寂しく部屋の掃除をすることもないし、誰かに陰口や嫌がらせをされることもない。こんな嬉しいことがあるだろうか。
加えて、リディアは外の寒々しい、しかし広々とした世界が大好きだった。確かにこの邸宅は途方もなく大きい。しかし息苦しく感じることも多々あった。そんな時、やはり外に出るとホッと安心できた。大通りを楽しそうに歩く人々を見ていると、こちらまで楽しくなってくるのだ。羨ましくもあるが、でも世界は広いと、働いているあの邸宅だけが自分の世界ではないと実感できるのが、何よりも嬉しかった。
リディアは買い物へ行く前に一度、急いで自分の部屋に戻った。サイラスへの手紙を懐に忍ばせると、何食わぬ顔で邸宅を後にした。
手紙を出す機会は滅多になかった。休日はほとんどないので当てにはできないし、買い物を頼まれない限りは、外へは中々抜け出せないのだ。
白い息を吐きながら、リディアは急ぎ足で大通りを抜けた。買い物をしなければならない市場はもうとっくに通り過ぎたのだが、たくさんの荷物を抱える前にどうしても先に手紙を出したかった。
目的の場所へ辿り着くと、リディアは少々周りを見回してから中へ身を滑り込ませた。カランカランと明るい鈴が彼女を迎える。
暖炉の炎が赤々と燃えているその部屋は冷え切ったリディアの体ををすぐに熱気で包み込んでくれた。
真っ直ぐにカウンターに向かうと、やがて鈴の音を聞いた女性店主、ミシェルが奥から顔を出した。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「珍しく早く来れたんだね。何かあったの?」
「特に何も。たまたま買い物がたくさんあるからって、メイド長が早めに送り出してくれたんです」
「へー」
自分で聞いておきながら、ミシェルはどうでも良さそうに生返事を返す。しかしリディアはそれに小さく笑うと、中央の席に腰を下ろした。
「で、早速出すの?」
「はい。お願いします」
リディアはおずおずとサイラスへの手紙を差し出した。軽く頷きながらミシェルはそれを受け取る。
「はいはい。いつものとこね」
手紙を表裏確認すると、彼女はポンとその表にハンコを押した。ドキドキとリディアはその様を眺める。
「えーっと百二十シェルね」
「あ、はい」
小さな財布を取り出し、リディアは慣れた手つきで支払った。リディアの給料は、仕送りとして両親の元へ送っているほか、将来のため、そのほとんどを貯蓄して部屋に保管している。あまりリディア自身も要りようのものがないので、この財布はほとんどサイラスへの手紙のためだけに使用されると言っても過言ではない。
「相変わらずマメなのね」
王宮行きの手紙を仕分けながら、ミシェルはぽつりと零した。途端に恥ずかしくなってリディアはそっぽを向く。
「べ、別に言うほど手紙送ってるわけじゃ……。一か月に数回くらいだし、そんなには」
「でもいつまで続くことやらー。後からどんどん面倒になって回数が減って、挙句の果てには音信不通になっちゃうかもよ?」
悪戯っぽくミシェルの瞳が輝く。
「別に……向こうが面倒なら、私だって止めてもいいし」
無意識のうちに、唇を尖らせてリディアは呟いた。耳ざとく聞きつけたミシェルが意地悪く笑みを浮かべる。
「リディアから止めるつもりはないってこと?」
「は、はい!? 別にそんなこと言ってないし! 面倒に思ったら私だって止めるつもりあるし!」
あわあわとリディアは身支度を整える。薄汚れた財布を懐に終い、薄い外套の前を閉めた。
「私もう行きますね! 早く帰らないと怒られるし!」
そのままバタバタと店を後にした。後に残されるは、呆気にとられたような女店主が一人。思わずと言った様子で彼女は笑うと、小さく呟いた。
「誰に言い訳してんだか……」
それは誰に聞かれることもなく、部屋の隅に消えていった。