02:心配かけたくない
『サイラスへ。
手紙、ちゃんとこっちに着きました。元気そうで何より。正直なところ、生意気なサイラスが一人で生活していけるのか不安だったけど、四人部屋と聞いて安心しました。寝坊しないように気を付けてね。
私の方も元気にやっています。始めは慣れない仕事に戸惑うことも多かったのですが、優しい旦那様一家、厳しくも温かいメイド長たち、休みの日に一緒に街へ出かける仕事仲間などに囲まれ、日々忙しくも楽しい毎日を送っています。
厳しい訓練生活だと思うけど、サイラスも体調に気を付けて頑張ってね。
ではさようなら。リディアより』
*****
手紙を書き終えると、リディアはふっと息を吐きながら羽ペンを机に置く。小さな窓から覗く灰色の空を見て、欠伸を漏らした。眠たい目を擦りながら、もう一度手紙に目を通し、書き損じがないか点検する。
綴りの間違いもないし、インクの滲みもない。
よし、と一息入れると、手紙を折って封筒に入れ、蝋で封をした。
今日は買い物がある日なので、外には出られる。その時に出そう。
リディアは意気込むと、すぐに立ち上がって身支度を整え始めた。髪をまとめ、寝間着から仕着せに着替えるのだ。のんびりしている暇はない。
メイドの仕事は想像していた以上に忙しかった。朝は主人や執事よりも先に起き、晩餐室の暖炉の掃除をする。燃え残りと灰を掻き出して掃除をし、その後に火をおこすのだ。応接室の絨毯の塵を払っては階段を磨き、床を掃く。旦那様方の寝室の掃除や各部屋の備え付けの石炭と薪を補充、銀器や真鍮の器の手入れもある。
リディアが働くこの邸宅は、途方もない大きさだったので幾人ものメイドが常駐していた。にも関わらず、その仕事量も比例して膨大なものとなっている。加えてまだリディアは新人メイドなので、先輩からどんどん仕事を言いつけられる、押し付けられる。ようやくベッドの中に入れるのは十二時を過ぎてから、なんてのもざらだった。
夜は疲れ切って仕着せを着替える気力もなく、そのままベッドに倒れこむのがよくあることなので、手紙を書く時間は起床して仕事までに様相を整える少しの合間しかない。その貴重な合間を縫って、リディアはせっせとサイラスへの手紙をこさえていたのだ。
「何してるの、ジェーン! 早く降りてきて!」
メイド長の声だ。声の中に、何やら苛立ったような気配も感じる。こういう時は逆らわない方が事を荒立てない。
「はい、すぐに行きます!」
リディアは大きく叫び返すと、手紙をエプロンのポケットに忍ばせ、階下へ降りていった。
「ジェーン、何やってるの、こっちよ!」
「はい」
ジェーン、ではなくリディアは、声が誘うままそちらへ赴いた。使用人の名前をいちいち覚えるのが面倒だと、もともとの役職に呼び名が固定されているのは定例だった。リディアが配属されるすぐ前にメイドが一人辞めたらしく、リディアは彼女の役職の名で呼ばれることとなったのだ。
メイド長、マーサは晩餐室にいた。急ぎ足で入って来たリディアを眉を吊り上げてぎろりと睨む。
「この傷は何なの!? 大切な真鍮の器に傷が入ってるじゃない!」
「え……?」
リディアは戸惑って立ち止まった。
「とぼけるんじゃないわ! 全くもう、これだから素性の知らない子を雇うのは嫌だったのよ」
「待ってください! 私、傷なんてつけてません。慎重に手入れをしましたし……」
「言い訳するつもりなの? 全く困った子だわ、自分の非を認めないなんて!」
そもそも、昨日はリディアを含めたメイド四人がかりで銀器を磨いていたのだ。それがなぜ自分一人の責任になるのか……。
「新しく真鍮を仕入れることになると思うけど、その分はあなたの給料から引かせてもらいますからね」
「……はい」
理不尽な思いを胸にリディアが黙り込むと、マーサは重苦しいため息をついて去って行った。
メイドの給料は、リディアが思っていたよりも大分寂しいものだった。もともと使用人たちの給料は、邸宅を訪れる客の心付けをも含めたそれらしい。とはいっても、客が訪れると嬉々として給仕しに行くメイドたちに仕事を押し付けられ、リディアはその心付けを貰う機会など無いに等しかった。
ただでさえ薄給なのに、その上さらに引かれるのか。
このままだと、結婚のための持参金すら貯められないかもしれない。
そのことが思いやられ、リディアは暗く沈んだ表情になった。
確かに慣れない仕事で、リディアがやらかしてしまうことも過去何度かあった。晩餐室から皿を下げる際に手が滑って皿を落としてしまうことも、床を磨き過ぎて滑りやすくしてしまったことも。しかしそれ以上に、同じメイド仲間からの嫌がらせが酷かった。誰かの失態を自分のせいにされるのはまだ良い。それどころか、リディアを陥れるために故意に足を引っ張ろうという輩もいるようなのだ、この邸宅には。
クスクスと忍び笑いが漏れる。扉の陰に隠れるようにしてこちらを窺っていたらしい。数人を引き連れてメイドの同僚――ドリスが姿を現した。――昨日の銀器磨きの顔ぶれだ。
「いい気味ね」
正面切って嫌がらせをしてくる分、まだ良い方かもしれない。しかし、かといって腹が立たないわけがない。
「下らない」
リディアは面と向かってはっきりと言ってのける。思わぬ反撃に驚いたのか、しばしドリスは目をぱちくりさせた。
「はあ? あんた何か言った?」
「下らないって言ったのよ。群れてしか行動できない甘えたが」
「なっ……!」
伊達にサイラスと幼馴染を十五年間やってきていない。この程度の嫌がらせを乗り越えられるくらいの精神力は身に着けていた。
「次はないからね。今回は見逃してあげるけど、またこんなことしたら、私にだって考えがある」
余裕の笑みを浮かべ、リディアは悠々と腕を組んだ。溢れ出る余裕に、ドリスはたじたじだった。
「田舎者のくせに生意気な……! そうな風な口をきけるのも今のうちよ!」
言い捨て、ドリスは足音も荒々しく踵を返した。その際、彼女の取り巻きたちはこちらを睨むのを忘れない。その光景が、何だか逆にかわいらしく見えて、リディアは思わず笑みを浮かべた。久しぶりに愉快な気分だった。
その後、リディアは予定を狂わされることも無く淡々と仕事をこなしていった。しかしその中で昼食の際、皆の前でメイド長マーサから今日の買い物は無しだと言い渡された。
休日の少ない使用人にとって、外出は大切なものだ。たとえそれが、大荷物を抱えるきつい買い物であっても。堂々と裏口から外へ出られるので、メイドたちにとってそれは人気の仕事だった。
しかし、それを取り上げられた。給料から真鍮の仕入れ分を少々引いたくらいでは、仕置きが足りないと思ったらしい。確かに、これはさすがのリディアも堪えた。これでサイラスへの手紙を出す機会は遠のいてしまった。また次の機会を窺うしかない。
リディアは、表面上はしおらしく頷いたものの、心中では悔しい思いでいっぱいだった。一人で床を掃くころになってようやくムスッとした顔になる。メイドとして働くようになって、大分表情の管理ができるようになったが、しかし感情の整理まではできない。
誰かに文句を言いたいが、誰にも言えない。誰かに愚痴を言いたいが、誰にも言えない。
雁字搦めの状況に、リディアはやりきれない思いで箒をせっせと動かしていた。そんな彼女に、後ろからゆっくりと近づく影があった。あっと気づいた時にはもう遅い。がっちり肩を掴まれ、その生温かい吐息をすぐ耳元で感じられるほどの接近を許していた。
「わ、若旦那様……。何かご用でしょうか?」
顔が引きつるのを堪えながらも、リディアは箒を動かす手を決して止めなかった。止めたが最後、若旦那サリヴァンは、彼女を暇だとみなしてすぐに部屋へ連れ込もうとするのだ。ここは何としてでも自分を強く持たなければ。
「釣れないなあ、ジェーンは。私とお前の仲じゃないか」
ぶよぶよに太った指でサリヴァンはリディアの頬を撫でる。反射的にその手を払いのけたくなったが、相手は当主の息子。そんなことできるわけがない。
サリヴァンは、リディアが邸宅にやって来た当初から彼女に目を付けていたらしく、何かと言い寄ってくることが多かった。しかも彼女が一人の時に限って。大方、妾にでもできればとでも思っているのかもしれない。甘い言葉を吐かれても、高い宝石をちらつかされても、絶対に頷いてなんかやらないが。
「若旦那様もお忙しいでしょう。今日はもう部屋に帰ってゆっくりなさっては?」
相手に呑まれてはいけない。
リディアは落ち着いた笑みを浮かべ、早くも自分を取り戻していた。呼吸を整えながら箒を掃く。
「ゆっくり、なあ……。私は確かに疲れてる。その疲れを誰かに癒してもらいたいと思うのはいけないことだろうか」
「いけないわけではございませんが、しかし今日は」
「なあジェーン。仕事の後、今夜私の部屋で――」
生暖かい息が耳を掠める。撫でまわされる感触がお尻を這う。
「ひっ……!」
喉の奥で悲鳴を上げると、リディアは咄嗟にサリヴァンを突き飛ばした。
「うぅ……」
まさか突き飛ばされるとは思っていなかったのか、受け身すら取れないままサリヴァンは地に転がった。重そうな腹がふるふると震える。
「も……申し訳ございません! で、でも私、その、仕事がありますので!」
言い捨てるようにしてリディアはその場を後にした。サリヴァンは未だ呻き声をあげて蹲っていたが、何よりも恐ろしく、逃げ帰ることしかできなかった。
少しでも一人になりたくて、安心したくて、リディアは誰もいないのを見計らって自分の屋根裏部屋に逃げ込んだ。広い邸宅の中で唯一ここが安心できる場所だった。
下っ端メイドにもかかわらず、個室を与えられたのは幸運以外の何物でもなかった。部屋が無いとキッチンの床で雑魚寝することもあるらしい。リディアがやって来る少し前に、丁度彼女と同じ役職のメイドが辞めたので、運よくそのお鉢が回って来たのである。
リディアは、しばらく扉に耳を当て、外の様子を窺った。今にもサリヴァンがやってくるのではないかと冷や冷やしていたが、さすがに使用人の部屋にまでやってくる気概はないらしい。
仕着せのまま、リディアは糸が切れた様にベッドに倒れこんだ。固くて湿った臭いが体を包み込んだが、むしろ今はそれが心地よかった。
しかしすぐにハッとする。サイラスへの手紙をポケットに入れたままだったことに気付いたのだ。すぐに取り出したが、散々走り回りだっ挙句の果てに勢いよくベッドに横になったせいで、もうそれはしわくちゃだった。
無性に何もかもが嫌になって、リディアはそれをくずかごに放り投げた。
どうせ今日は買い物にも行かせてもらえない。また明日書くしかない。果たして、それまで自分が無事でいられるかどうかは定かではないが……。
リディアは顔を枕に押し付けた。くぐもった声が彼女から漏れる。
「言えない……。憧れてたメイドが実は薄給で長時間労働。しかも若旦那様に貞操の危機を感じてるだなんて……!」
まだ一か月と経っていない。まだ弱音なんか吐いてられない。
両親を心配させるわけにはいかないし、あの生意気な幼馴染にもからかわれたくない。だから、頑張ろう。
リディアはそう心に決めると、力の入った表情で起き上がった。