19:もどかしいすれ違い


「駄目……だめだめ!!」

 思わずリディアは一人激しく部屋の中で叫んだ。力の入った手の中で手紙がくしゃりと音を立てる。我に返ったリディアは慌てて手紙を机に置き、頭を抱えた。
 サイラスが、こちらに来たいと言う。
 駄目! 絶対だめだ!
 本当の名ですら呼ばれていないこの職場に来られたら、皆にこき使われているこの職場に来られたら、サイラスは何と思うだろうか。笑う? いや、きっと憐れむだろう。手紙の中でしか見栄を張れないリディアを見て、すっかり落ちぶれてしまったと、すっかり可哀想になったと同情されるに決まってる!
 どうやってこの危機を回避しようか。
 リディアは部屋の中を歩き回りながら頭を悩ませた。
 ここで断っても、また同じような機会が訪れるだろうし、でもサイラスはここには絶対に来させたくないし――。

「――っ!」

 瞬間的にひらめき、リディアはポンと手を打った。
 そうか、違う所で待ち合わせをすればいいのか!
 しかし上京してからこの方、リディアは一度も満足に街を出歩いたことがない。どこに待ち合わせしようと言えばいいのか。
 長い時間悩んだ結果、ようやくリディアの頭に思い浮かんだのは、買い物の際よく通りかかる、近くの噴水のある公園だった。あそこなら規模も大きいし、よく待ち合わせをしている男女が見かけられた。
 そうと決まればと、リディアは早速サイラス宛に手紙を書いた。サイラスがこちらへやってくることへの了承と、しかし待ち合わせ場所は噴水の公園にしたいという旨。
 サイラスと会うには、半休を取らなくてはならない。またメイド長にグチグチ言われるのは目に見えているが、それでもサイラスに一目会いたいという気持ちは萎れることはなかった。自身の今の境遇がサイラスにバレてしまうという危険性ははらんでいるものの、思い切って決断することにした。


*****


 あっという間にサイラスとの待ち合わせの日がやってきた。リディアは朝からそわそわしていた。気もそぞろに仕事をしながらも、午後からの待ち合わせに思考を飛ばす。そんなリディアを不審に思ったのか、メイドたちからの仕事の押しつけは普段以上だったが、リディアはへこたれない。どうせ午後からは休みだ。そのことを思えば、いつもよりも仕事量が多くてもたいしたことはあるまい。
 そう、思っていたのだが――。

「ジェーン! ちょっと買い物行ってきて!」
「え……ええ?」

 さすがにそれはいただけなかった。リディアはあくまで低姿勢でマーサに進言する。

「でもメイド長、私今日午後から半休で……。外で人と待ち合わせしてるんです。今から買い物だと、待ち合わせに遅れて――」
「今人手が足りないの。仕方ないでしょう? 急いで行ってきて」
「…………」

 困った子ねとでも言わんばかりのマーサの表情に、リディアはそれ以上粘ることを諦めた。どうせここで食い下がっても、さらに用事を増やされるか、明日からの風当たりがもっと厳しくなるだけだ。リディアは、悲しいかな今までの経験上、このことを重々承知していた。

「いい? すぐ帰ってくるのよ」
「はい」

 少々項垂れながらも、リディアは頷いた。こんなところで問答しているよりは、早く終わらせて、早く帰ってきた方が身のためだ。
 リディアは早速すぐに邸宅を出た。通りかかった公園を、横目でチラリと見てみるが、まだ待ち合わせには早い時かっのため、幼馴染みの姿はない。買い物をしているうちに、きっと待ち合わせ時間は過ぎてしまう。早く用事を終わらせた後でここにより、もう少し待ってもらうよう頼もうとリディアは一層歩みを早くした。


 リディアが公園を通り過ぎて少し経ったところで、そこに今度はサイラスが現れた。まだ待ち合わせには少し早い時間だが、先日、リディアが自分の所にやってきてくれたにもかかわらず、自分が不在だったことが引け目に感じられて、今日くらいは早めに待っておこうとの考えだった。
 しかし、待ち合わせの時間になっても、幼馴染みは一向に姿を現さない。
 もともと気の長い方ではないサイラスは、いい加減待ちくたびれてきた。
 ハンカチを渡すだけなのに、わざわざ待ち合わせを公園に使用とのリディアからの申し出も、サイラスは不信だった。リディアの職場に行って、リディアの仕事ぶりや、近況報告など、仲がいいと言っていた同僚からも話を聞いてみたいと思っていたのだが、なぜ職場から遠く離れた公園なのか。
 といっても、リディアのことだから、折角の休みを、どこか違うところで過ごしたかったのかもしれないかと、サイラスの方も、この近隣で遊べそうな所を調べてもいた。情報源は主にマーカスで、渋々尋ねたら、喜々として答えてくれた。

「…………」

 また一組、待ち合わせをしていたらしい男女が嬉しそうに去って行く。いい加減サイラスも我慢の限界だった。
 仕事がなかなか終わらないのか、待ち合わせの時間を間違えているのか。
 そのどちらでもいいから、とにかく迎えに行こうと思った。迎えに行って、すぐにまた大通りへ遊びに出ればいい。折角楽しそうな場所をいろいろと調べたのだ、行きたいことは行きたい。
 重い腰を上げると、サイラスは早速リディアの職場へと向かうことにした。実際に行ったことはないが、彼女の住所は、手紙で何度も書いたおかげで、頭の中に入っている。時折人に尋ねながら、順調に着々とその邸宅に近づいていった。

「でかいな……」

 リディアが働いている邸宅に着くと、サイラスはその屋敷の大きさに圧倒された。見た目の荘厳さもさることながら、その派手な装飾も、なかなかに見るものを尻込みさせる。豪華、といえば聞こえはいいのだろうが、装飾などよく分からないサイラスには、派手という印象しかわかなかった。
 しかし、あの勝ち気なリディアがここで働いているともなれば、また訳も違う。地方の農村出身の彼女が、こんな場所で働かせてもらうなんて、奇跡にも等しいだろう。騎士だけではなく、メイドの世界も、なかなかに階級意識が根付いているという。手紙の方では楽しそうに毎日のことが書かれていたが、実際は、辛いことだって多いだろうと、今更ながらにサイラスはそう思った。
 気後れしながらも、サイラスは邸宅の裏へ回った。さすがに貴族の地位にあるわけでもお呼ばれしたわけでもない自分が、堂々と正門から入るには忍びない。
 裏門には、使用人たちが忙しそうに働いていた。見るもの見るもの、眉間に皺が寄っているので、声をかけるのにも勇気がいる。恐る恐る、サイラスは近くにいた壮年のメイドに声をかけた。

「あの、リディアさんというメイドはおられますか。俺は彼女の幼馴染みなんですけど……」
「はあ? リディア? 誰だいそれ」

 門の近くを掃きながら、メイドは吐き捨てるように言った。

「え? いや……ここでメイドをしてるリディアです。数か月ほど前からこちらで働いているはずなんですが」
「リディア? リディアねえ。ここにはたくさんのメイドが働いてるから、いちいち名前なんか覚えてらんないよ。ほら、どいたどいた。今忙しくしてるのが見えないのか?」

 箒ででしっしと追いやられ、サイラスは拍子抜けしたまま、裏門から邸宅の中へ入った。もうどうにでもなれだ。サイラスはそのままずんずん奥へ進む。裏門から入って右手には、洗濯物を干しているらしいメイドの姿が数人見受けられたので、今度はそっちを目指すことにした。

「すみません、ここにリディアという人はおられますか?」
「リディアー?」

 ここでもサイラスの言葉に眉をひそめるメイド。
 いくら働いているメイドの数が多いといえども、同僚の名前を知らないと言うことがあるのだろうか。
 いよいよサイラスが不信感を抱いたとき、一人のメイドがハッとしたように口を開いた。

「あっ、もしかしてそれ、ジェーンのことじゃない?」
「ジェーン……?」
「ほら、ジェーンも確か……名前、リディアみたな名前じゃなかったっけ」
「ああ、そういえばそうだ。確かそんな名前だったわね」
「はあ……」

 サイラスは何が何だか分からず、さえない相づちを打った。こちらとしては、ジェーンという名の方が聞き慣れないのだが。愛称か何かだろうか?
「あ、じゃあ、とにかくリディアはここにいるんですよね? 忙しいところ悪いんですけど、呼んできてもらえますか?」
「でも、ジェーンは買い物に行ってるはずじゃ」
「買い物? 今日待ち合わせをしたはずなんですけど……」
「メイド長に言われて、慌てて買い物に行ったみたいですけど」
「はあ……」

 もしかして、急を要する買い物でも言いつけられたのだろうか。
 サイラスはちょっとリディアのことが気の毒になった。
 確かに、上司からものを頼まれたら、それを断ることなんて出来ない。

「近くで待ってみることにします。ありがとうございました」

 共にいる時間が少なくなるのは残念だが、仕事なら仕方がない。門の前で待ってみるか、とサイラスは思い直し、身を翻したその瞬間。

「先日の紳士様じゃありませんか!」

 黄色い声が、彼を呼び止めた。

「嬉しい、もしかしてわたくしを訪ねてきてくださったの?」

 後ろからの突然の衝撃に、サイラスは身体を硬直させた。女性の声ではあるが、しかし幼馴染みの声ではない。何故だか抱きつかれているらしい事実に、サイラスは混乱していた。

「え? いや、俺は……」
「ドリス様、その人とお知り合いなんですか? その人、ジェーンの幼馴染らしいですけど」
「……ジェーンの?」

 ドリスの声には不審が、顔には嫌悪が表れていた。サイラスがそのことに気付く前にドリスはさっと表情を変えた。

「まあ、ジェーンのお友達ならわたくしにとってもお友達だわ! ね、騎士様」
「は、はあ」

 未だ事情がよく分からないサイラス。そっと強引な彼女の腕を説き、様相を整えた。

「ね、お名前教えてもらっても? 私の方は、前回会ったときにお教えしましたよね? でも念のため改めまして」

 ドリスは令嬢らしく、その場で優雅に一礼した。

「ドリス=ロクセーヌと申します。よろしくお願いいたしますね」
「さ、サイラスです……。よろしく」
「まあ、サイラス様と仰るんですね。素敵なお名前です」
「どうも……」

 サイラスは戸惑ったまま、辺りを見回した。

「あの、リディアはいないみたいなので、もう失礼します」

 サイラスは、言葉少なに、その場から立ち去ろうとした。リディアのことを諦めたわけではなく、単純に門の近くで彼女を待ち構えようとの魂胆だった。何よりこの場は居心地が悪い。何故だかこのドリスという少女はやたらと距離が近く、今まであっさりした対人関係しか育んでこなかったサイラスは、戸惑いしかなかったのだ。

「もう少しここで休んで行かれては? そうだ、私の部屋に来ません? 私、今日半休を取っていて暇なんです。お話ししましょう」
「いや、本当に大丈夫です。もう失礼します」
「えー。折角のご縁ですから!」

 とりあえず門まで避難しようと交代するサイラス。彼の腕にしがみつくドリス。

「本当に勘弁してください」

 困り切って、サイラスはその場に立ち止まった。こう見えて彼は、リディア以外の年頃の娘と話したことがない。もともと村の人口は少なく、加えて中心部に行っても、同い年の子供などほとんどいなかったため、とくに話をする機会もなかったのだ。だからこそ、さっぱりしたリディアとは似ても似つかない、それでいて強引で人の話を聞かないこのドリスのような少女に対し、どのように対処すれば良いのか全く分からなかった。

「少しくらいお話ししていもいいじゃありませんか。どちらにいかれるんですか? せめて目的地に着くまで」

 埒があかないと、サイラスは無言のまま裏門を目指した。が、裏門を出ても、ドリスはひっついたままで、サイラスは仕方なしに計画を変更し、公園に行こうと向きを変える。が、相も変わらずドリスは、サイラスのばかり。いい加減サイラスは面倒になってきた。一体いつまで彼女は自分についてくるつもりだと。

「あの、もういいですか? 俺、ここでリディアを待ちたいんですけど」

 結局、二人は公園まで一緒に歩いてきた形となった。入り口の前で、わずかに眉根を寄せたサイラスが、ドリスにそう宣言した。しかし、対するドリスは、飄々と笑ってのけた。

「ジェーンを待つおつもりで? でも、止めた方がいいと思いますけれど。あの子、多分今日は随分帰りが遅くなりますから」
「でも、買い物に出ただけだって……」
「買い物と言っても、随分遠くまで行かないといけないものばかりなので、帰るのは夕方頃になるかと」
「そう、ですか……」

 わずかに落胆したような表情を見せるサイラスに、ドリスは身体を寄せた。

「せっかくですから、私がジェーンの代わりになりますよ。どこに行きましょうか?」
「はあ? いえ、結構です」
「そんなこと言わずに」

 後ずさるサイラスと、そんな彼にどんどん近づくドリス。
 リディアが来ないのなら、もうこの公園に用はない。

「失礼します。リディア二よろしくお伝えください」

 それだけ言うと、サイラスは身を翻して脱兎のごとく逃げ出した。呆気にとられるドリスは置いてけぼり。彼女がリディアの同僚だと言うことは承知済みではあるが、もとより我慢が苦手な彼は、今はとにかくこの場から逃げることしか頭になかった。

「サイラス様……」

 逃げられた、と思うわけでもなく、ただ彼が恥ずかしがっているだけなのだと勘違いをしたドリスは、サイラスの後ろ姿を熱っぽく見つめるばかり。
 そんな中、その公園に息せき切って走ってくるものがいた。リディアである。

「ど、ドリス……」

 リディアは息も絶え絶えにドリスの元へと走ってくると、彼女に追いすがった。。

「サイラスは? あなたがサイラスと一緒に出かけたって聞いたんだけど……」

 すがるような目で見つめてくるリディアに、ドリスは冷ややかな目を向けた。

「サイラス様」
「……え?」
「サイラス様、あなたの幼馴染みなんですってね?」
「う、うん……」
「文通する仲なの?」

 詰問するかのような物言いに、リディアはスッと頭が冷静になっていくのを感じた。根拠はない。ただ、何かがまずいと警鐘を鳴らしていた。

「――ただの近況報告をする仲よ……。同郷ってだけだし。それより、サイラスは?」
「……もう行ったわ。忙しいからこれで帰るって」
「そう……」

 暗い面持ちで小さく息を吐き出すリディア。ドリスは、不愉快そうな、何かを考え込むかのような表情で、彼女を見つめ続けていた。