18:思う壺


 まだ夜も明けきらぬ時間から、周囲がぞろぞろと起床する音が響く。本来ならばサイラスもとっくの昔に起きている時間なのだが、しかし今日は訳が違う。
 今日は特別瞼が重かった。頭も重かった。何しろ帰って来たのが昨日の……いや、今日の早朝なのだから。数時間と寝ないうちに起床しなければならないのだから、サイラスの気分は最悪だった。
 時間外労働をしたのだから、朝の基礎訓練くらい休ませてほしいというのが正直なところだが、無理を言って途中から騎士団に入れてもらった身。そんなこと口に出来るわけがない。もともとこちらも夜に小姓をするという条件だ。不満ばかり言っていられない。
 サイラスは誰かに八つ当たりしたい気分でのろのろと支度を始めた。朝食を摂ろうと食堂へ向かっている最中で、向こうから何やら腹の立つ表情のマーカスがやって来た。

「サイラス〜」

 ただでさえ虫の居所が悪い時にこの顔だ。サイラスは機嫌が悪いのを隠そうともせずにギロッと彼を睨み付けた。

「何の用だよ」
「いやあ、とっておきの情報があるんだよ」
「嫌な予感がする」

 サイラスは即答した。マーカスがニヤニヤしているときなど、悪いことしか想像できない。

「俺、リディアちゃんに会っちゃったー」
「……はあ?」

 反射的にそう返した。マーカスの口から己の幼馴染の名前など、似ても似つかなかった。

「いや……お前何言ってんだ」
「嘘じゃないよー。本当に昨日会ったんだぜ」
「…………」

 そう言われても、睡眠不足のせいでサイラスの頭は上手く働かない。

「いやお前……はあ? 何でお前がリディアに……てか何で名前知ってるんだよ!」
「だから会ったって言ってるじゃん、昨日」
「昨日って……俺がモーゼズ様に同伴していた時か!」
「そうそう」

 軽い口調で言ってのけるマーカスに、しばし呆然とした。昨夜は、サイラスが小姓を務めるモーゼズが夜会へ赴くというので、それに随行していった。随行といっても、やることはほとんどなく、夜会の間中もぶらぶらしていただけなので、大したことはしていない。その時間に――その無駄とも言える時間に、リディアがやって来たという。

「な……何の、用だったんだよ」

 リディアとサイラスは紙面上で喧嘩していたばかりだ。数日前サイラスがリディアにお詫びの気持ちを贈ったとはいえ、それで機嫌を直してくれたのかは定かではない。もしかして、今度は直接文句を言うためにここへ来たのか。そうだとしたら、運悪く外出していたサイラスをどう思っただろう。更に機嫌を悪くしていないか。

「……うん? 別に何か用事がありそうには見えなかったけどな。会いに来た、とだけ言ってたよ」
「お、怒ってたか……?」
「別に? 普通だったけど」
「ふ、普通……」

 外面だけは良いリディアのことだ。ただ周りに良い顔をしていただけかもしれない。サイラスと二人っきりになった瞬間に本性を晒すつもりなのかもしれない。サイラスは何を信じたらいいのか分からなくなって頭を抱えた。。
 しかし、怒っているにしろそうでないにしろ、リディアが直接会いに来たのは意外だった。腐れ縁の二人は、遠く離れたとしてもわざわざ顔を見せるなどという間柄ではない。いや、別にそれは顔を見たくないという意味ではなくて――。
 思考がこんがらがって来て、サイラスはチラッとマーカスを盗み見た。彼も、こちらに気が付いた。
 サイラスは思い詰めたような顔をして口を開いたかと思えば、またすぐに閉じる。その繰り返しだった。彼の考えが手に取るように分かるマーカスとしては、ニヤニヤ意地悪く笑うばかりだ。先に痺れを切らしたのはサイラスの方だった。

「……その、どうだったんだ、リディアの様子は」
「様子ー? 様子って?」

 マーカスははわざとらしく聞き返した。そう言えば、リディアに対してもこんな意地悪をした気がする。自分で自分がおかしくなって、マーカスは一層笑みを深めた。

「……その、だからリディアの様子。元気そうだったか?」
「まあ会いに来るくらいなら、元気なんじゃない? いろいろとサイラスの話で盛り上がったりしたけど」
「何を話したんだ?」
「それは俺とリディアちゃんの二人だけの秘密っしょ。本人を前にして何を話したかなんて言うわけないじゃん」
「うぜー」
「何とでも言えよ」

 サイラスの悪態に、さして気を悪くした様子もなく、マーカスは言ってのけた。

「ま、もう用はないんなら俺は行くぜ。まだ朝餉食べてないんだからな」
「…………」

 悠々と歩くマーカスの後ろから、半歩ほど離れた状態でついて歩くサイラス。マーカスは口元を歪めるが、何も言わない。

「……リディアはすぐに帰ったのか?」
「いーや、少しだけ俺がここら辺案内した。すぐに帰すのは可哀想だったからさ」
「……本当にそれだけか?」
「何を勘ぐってんのかなー。別に手は出してないし」
「……そうか」

 なんとなく安心したように退くサイラスに、マーカスは少しだけ拍子抜けする思いだった。もっと食いつかれると思っていたのだが、そんな様子はみじんもない。なんだか悔しくなって、マーカスは意地悪な顔になった。

「それよりもさ、俺、あの子からハンカチ借りたんだ。サイラス、返しに行ってよ」

 立ち止まり、マーカスはポケットからハンカチを取り出す。もちろん洗濯済みである。
 マーカスの予想通り、サイラスは眉をひそめた。

「はあ? 自分で行けよ」
「やだよー。だって俺、昨日で半休使っちゃったし。サイラス、まだ休み取れるでしょ? 俺の代わりに行ってきてよ」
「なんで俺が……。そもそも、ハンカチくらい郵送で返したらいいだろ。なんで直接返すことになってるんだよ」
「冷たいなー、サイラス君は」

 やれやれとわざとらしくマーカスは首を振る。

「誰のためにこんな回りくどいことをしてると思って……。わざわざリディアちゃんはこっちに来てくれたのに、お前には会えずじまい。可哀想だと思わないのか? お前からも会いに行ってやれよ。あ、もちろん手紙で連絡してからな」

 まくし立てるように詰め寄るマーカスに、サイラスはたじたじだった。反論するまもなく、ハンカチを押しつけられる。

「ああ……」

 何だかマーカスの掌の上で転がされたようで、サイラスは非常に悔しかった。


*****


『リディア。
 入れ違いになったようでごめん。その日俺は主人の小姓としてある社交界に出ていた。帰ったのも夜遅くで、マーカスからお前が来ていたと聞いた。手紙も届いた。会えなくて残念だ。
 それで、マーカスからお前にハンカチは借りたままだと聞いた。郵送で返すのもなんなので、直接会って返そうと思うんだけど、いつ休みでしょうか。俺は今週末が暇です。なので、27日の午後にそちらに顔を出そうと思います。都合が悪ければ、手紙で教えてください。じゃあまた。サイラス』