17:夢の夜会 一夜編


「夜っ会、夜っ会!」

 大きな馬車の中で一人、少女は明るい声をあげていた。彼女の名はドリス。れっきとした貴族令嬢なのだが、礼儀見習いのため、とある邸宅にメイドとして奉公していた。

「今日は私のための夜っ会!」

 ルンルンと鼻歌を歌いながら、ドリスは馬車の中でドレスに着替えた。
 今宵、メイドである彼女は、主人一家が夜会へ赴く旅の雑用係として随行していた。と言っても、主人たちの肩を揉んだり、飲み水を差し出したりと、大したことはしていないのだが。
 しかし、そんな彼女の仕事ももう終わり。彼らが夜会へ出席した瞬間、ドリスは晴れて自由の身となるのだ。
 主人一家は夜会へと姿を消しているので、この馬車は無人だった。一介のメイドであるドリスに着替える場所など用意されているわけもないので、ドリスは遠慮なくこの馬車を使わせてもらうことにした。旦那様からのお言いつけで……と御者にしな垂れかかって流し目を送ったら、コロッと彼は入り口を開けてくれた。

「ありがとう、助かったわ」
「いえいえ!」

 去り際も、忘れずに艶やかに微笑んでおく。帰りも着替えなくてはならないのだ、油断は禁物。案の定御者は顔を真っ赤にして頭をぺこぺこ下げた。
 有頂天なドリスが次に目指すはもちろん夜会の入り口だ。嫌というほど長い階段を、ドレスの裾を優雅に摘まみながら登る。エスコート役がいないのであまり恰好はつかないが、それでも夜会にさえ行けば若い紳士はごまんといる。ドリスはにんまり笑って一人の執事の前に立った。彼らは、この邸宅に訪れる招待客を迎え入れる役目だった。

「ご来場いただきまして、誠に感謝いたします、お嬢様。お名前を伺ってもよろしいですか」

 彼は手元の招待客のリストとドリスとを見比べながら言った。
 顔を覚えていないことはまあ、この際良しとしておくわ。
 ひくっと口元を上げながらドリスは肩を張。

「わたくしが誰か知らないのね? まあ仕方ないわ。わたくしはロクセーヌ家のドリス。覚えておきなさい」

 颯爽とそう言って、煌びやかな世界へと足を踏み出すはずだった。しかしそんな彼女を止める者が一人。

「ロクセーヌ家、ですか。申し訳ありませんが、今夜の招待リストには載っていないようです。失礼ですが、招待状はお持ちですか?」
「は……はあ!? ロクセーヌ家が招待されていないってどういうことよ!」
「どういうも何も、リストに載っていないのは事実ですから。招待状をお持ちでないお客様をお入れするわけには――」
「私はれっきとした貴族令嬢ドリスよ! ロクセーヌ家の!! こんな無礼が許されるとでも思って!?」
「ロクセーヌ家は今宵招待されておりません」
「だから……だから私は――!!」
「お帰りください」

 しばらくドリスはわなわなと震えた。射殺しそうな目で目の前の執事を睨み付けたが、彼はびくともしない。やがて、周囲の哀れみのこもった視線を受けることに耐えかね、ドリスが先に根を上げた。キッと恨みのこもった視線を向け、負け犬の遠吠えと言わんばかりの勢いで言い放った。

「――あなたの顔はしっかりと覚えたからね! 覚えてなさいよ、お父様に言いつけてやる!!」

 バッと踵を返してドリスは階段を駆け下りた。後ろから招待客たちの嘲笑が浴びせられるような気がして、いつまでも振り返らず、そして足を止めることができなかった。

「どういうことよ、ロクセーヌ家が招待されていないなんて!」

 上流貴族であるロクセーヌ家は、どんな夜会でも引く手あまたの存在だった。だからこそ、今宵の夜会も、招待状はなくても、きっと招待はされているのだがら、中に入れてもらえると思っていた。それが、まさか招待すらされていないなんて!
「でも……でも、まだよ。まだ手はある」

 どんな手を使ったとしても、一旦中に入ればこっちのものだ。中に入れば、ロクセーヌ家の知り合いなどごまんといるし、たとえ招待状がなかったとしても、彼らがきっと見方になってくれるはずだ。むしろ、門前払いをした執事の方を非難するはずだ。
 ぜえぜえと息を吐きながら、ドリスはよろよろと庭へ降り立った。煌びやかな照明が照らす夜会の舞台とは違い、ここは必要最低限の灯りしかなく、余計に惨めな気分になるばかり。しかし、暗いおかげで闇夜に紛れてここへ侵入することができた。悪いことばかりでもない。
 皆が浮足立つ夜会のせいか、警備の数は少なかった。といっても、それは邸宅の庭のことであり、当然、邸宅内や外は警備の数もぐんと上がる。単純にドリスの運が良かったとしか言いようがない。
 そしてもう一つドリスが見落としていたことがあった。庭のどこから侵入するか、ということである。庭へ続くテラスはどこも締め切っており、なかなか入れる隙が無い。
 何よ何よ! 普通テラスは開放しておくべきでしょう、夜風に当たる時のために!
 テラスまで開放すると、警備の範囲が広がってしまうということで、わざと締め切られているのだが、しかしドリスにそのようなことは知る由もなかった。ぷんぷんと誰に向かうでもない怒りを、歩きながら発散させていると、ついに一歩踏み出したその足がグキッと嫌な音を立てた。バランスを崩した彼女は無様に横転する。

「いた……」

 涙目で足を押さえた。慣れない靴を履いた自身の足首は、靴擦れで真っ赤になっていた。周囲には彼女を介抱してくれる執事も、優しく手を貸してくれる紳士もいない。

「もう嫌……何で私がこんな目に」

 ドリスはそう零した。その小さな呟きを聞きとったのはたった一人。

「――大丈夫ですか」

 警備の者に見つかってしまったのかと、ドリスは血の気の失った顔で振り返った。ドリスよりもいくらか下に見えるその少年は、警備隊の恰好ではないが、しかし騎士見習いの紛争をしている。咄嗟に言い訳をしなければ、という思いが彼女の頭を過った。

「わ……わたくし、招待状を無くしてしまって……」

 目が泳ぐ。それはどうしようもなかった。

「な、なのに誰も入れてくれなくって……」

 ここは演技で騙すしかない。ドリスはしくしくとわざとらしく目を押さえ、鼻をすすった。少年は同情を覚えたらしく、ドリスの傍に跪いた。

「それはお気の毒に。では俺が執事の方に進言しましょうか。招待状が無くてもリストに載っていれば入れてもらえるかもしれない」

 ぎく、とドリスの肩がぎこちなく揺れる。先ほど執事にロクセーヌ家は招待されていないと言い放たれたばかりだ。むむむ、と数秒間で必死に考えたのち、ドリスは精一杯の笑顔を作った。

「馬車……そうだわ、馬車まで送ってくださらない?」
「馬車、ですか。構いませんけど、でも夜会には行かなくても――」
「い、いいんです、行かなくても! もともとそんなに乗り気じゃなかったし、それに、それに――」

 言い訳を重ねようとドリスは必死に顔を上げる。その目に、ふと少年の顔が映った。丁度邸宅から漏れる灯りが幻想的に彼の顔を浮かび上がらせる。ドリスの頬は紅潮した。

「……それに、あなたにも会えましたし……」

 ドリスの小さな呟きは、邸宅から漏れる歓声でかき消された。少年は何事もなかったかのように、にこやかに微笑んだ。

「じゃあ俺が馬車までお連れします。歩けますか?」
「え……ええ! もちろん!」

 張り切って言った後、すぐに後悔する。男をモノにするには誘惑しかない。体を密着させてこそ誘惑もできるっていうのに!
「あ……あの、やっぱり少し足が痛くて……。その、肩をお借りしても?」
「どうぞ」

 ドリスはおずおずと少年の肩に腕を回した。少年のサラサラとした髪が頬に触れ、そこが一気に熱を持つ。彼は一見細身だが、つくところに筋肉はきちんとついている。ドリスはあまりの密着度に驚き、黙り込んでしまった。しかし一方で心中では興奮のあまり、舌が饒舌にもなる
 馬鹿! わたくしが誘惑されてどうするのよ! しっかりしなさい! というか、ここからが本番なんですからね、誘惑の正念場なんですからね!!
「…………」
「…………」

 しかし何をどうすれば誘惑することができるのか。
 ドリスはさっぱり理解できず、加えて先ほどからずっと二人の間には沈黙が漂っていることに焦りを抱き始めていた。
 な、何よ、こういう時は男から話題を出すものよ! わたくしに興味ないのかしら!? というか、そういうことに免疫がない?
 始めは手を出してこない少年にいら立ちを覚えながらも、やがて何をどうとらえたのか、ドリスはこの少年がただ奥手なだけだと解釈し始めた。奥手なせいで、魅力的な自分とどう話せばいいのか分からない、どういう話題を出せばいいのか分からない、と。
 ……うん、可愛いじゃない。
 ドリスはますます笑みを深くした。ここは一つ、自分が大人になり、彼を引っ張ってあげなくては。
 しかしそう思う一方で、もう二人は邸宅の門の近く、出迎えの馬車が多く立ち並ぶ広場へとたどり着いていた。

「馬車はどちらでしょう?」

 少年はドリスに顔を向け、尋ねる。彼女はハッとした。自分の馬車などあるわけがない。
 しかしすぐに思い立った。自分の馬車は無くとも、自分にメロメロな御者はいる!
「あの馬車、わたくしの家の馬車なんですの」

 至極堂々とした身振りでドリスは一つの馬車を指さした。傍に一列に並んでいる他の馬車よりも、その馬車は一際大きく、そして一際輝いていた。――もちろんロクセーヌ家の馬車ではなく、旦那様一家の馬車である。
 ドリスは素知らぬ顔でその馬車に近寄り、御者に軽く頭を下げた。彼はというと、ドリスと少年と見比べながら、目を白黒させていた。

「これはこれは……一体、どのような関係で……?」
「いえ、俺は足を挫いた彼女をお連れしただけです。俺はこれで。養生なさってください」

 短くそう言って少年は踵を返そうとした。もちろんドリスは慌てた。
 奥手にもほどがある!
 思わず駆けだし、彼女は少年の服の裾を掴んだ。この際足が痛いだとかはしたないだとか関係ない。縋り付くようにして彼の顔を見上げた。

「私……わたくし、ロクセーヌ家のドリスと申します。あなたは……?」
「え……俺、ですか」
「はい、せめてものお礼に、名前だけでも……」
「え……っと、俺は――」
「良いではないか、良いではないか〜」

 突然空気を切り裂くねっとりとした声。思わず二人してそちらに顔を向けた。

「なあ? そなたも悪い気はするまい?」
「もう、嫌ですわ、ご主人様ったら」

 酒に酔っぱらったような顔の男と、仕着せを着た侍女。イチャイチャしながらこちらへ近寄ってくる二人は、どう見ても身分違い。

「でも奥様に知られたら……私、嫌がらせを受けてしまいますわ」
「恐れることは無い。そんなことになったら、正式にお前を妾にしてやる。それなら怖いことも無いだろう?」
「まあ、じゃあ今すぐ見つからなくてはね! ご主人様といつでも一緒に居られるように!」
「何を可愛いことを言いおって!」

 ドリスは見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりに顔をそむけた。
 しかし、なおも二人の声は近づいてくる。彼らにこの姿を見られたくないのは、何もドリスだけではない。騎士見習いの身分である彼も、余計な醜聞について見なかった振りをしたいらしく、二人して馬車の陰に隠れた。そして声を落としてドリスに囁く。

「俺はこれで失礼します」

 耳が、一気に熱を持った。
 何て男なの、最後まで私の心をギュッとつかんで離さないなんて。
 ドリスはボーっとした表情で、走り去っていく少年の後ろ姿を目に焼き付けた。
 あの服は、間違いなく見習いの騎士。令嬢であるドリスと騎士の少年。間違いなく身分違いの恋だが、しかし。

「恋に障害はつきものというじゃない。障害があればあるほど恋は燃え上がるものなのよ」

 夜会には出席できなかったが、その代わりに良いものを見つけた。
 ドリスは一人ほくそ笑んだ。夜はまだまだ長そうだった。