15:一目でも
今にも雪が降り出しそうな寒々しい天気ととるか、冷たい空気が身に染みて清々しいととるか。それは人それぞれだろう。リディアはもちろん後者だった。
鼻歌でも歌いたい気分で邸宅を後にする。予想外に多い買い物のせいで、すっかり昼を過ぎていたが、それでも煉瓦道を一歩一歩歩く彼女の足取りは軽い、心も軽い。いつもは寒さに身を丸めて小走りで駆けていくこの道も、今日はゆったりと周りの景色を楽しみながら歩いた。
リディアは今日、とっておきの服装をしていた。といっても、村にいた頃母に繕ってもらったものなので、街で流行っている流行のそれとは程遠い。しかし、リディアはこの服を着ているだけで、故郷にいるような気持ちになれたし、流行ではないとはいえ、この服も十分お洒落だったので、彼女自身は非常に気に入っていた。
途中、貰った給金で初めての買い食いなどもしながら、リディアは王宮へと向かった。早く会いたいのに、でも何だか気恥ずかしくなって、思うように足が前に進まない。
そんな自分自身に焦れったくなりながらも、リディアはようやく城門へとたどり着いた。途方もなく広がっている門が更に彼女の足をすくませる。
無計画で来てしまったせいで、何の心の準備もできていなかった。門前払いされたらどうしよう、無法者として拘束されたらどうしようと、リディアの不安の種は尽きない。しばらく辺りをうろうろしたところで、ようやく先ほどの豪華な城門よりも少し離れたところに、小さな入口があることに気が付いた。おそらく、使用人のための出入り口だろう。
半ば救われた思いでリディアはそこに向かった。城門の前のいかつい門番たちに睨まれながら、リディアは入口の出窓を覗いてみた。中は思ったよりも広く、中央には大きなテーブルがどっしりと構えてあり、その上には幾枚もの書類が散乱していた。それらを椅子に座って仕分けしている者が三人、奥に積み重なった小包の確認をしているのが一人、そして出窓の一番近くの椅子に座り、欠伸をしながら書類と睨めっこしている者が一人。眠そうな彼に、リディアは思い切って声をかけた。
「あ……の、すみません」
緊張のあまり、固い声が出た。男は緩慢とした動きでリディアを見やる。
「私、サイラス――従騎士のサイラスさんの幼馴染の、リディアと申します。サイラスさんはいらっしゃいますか?」
おずおずとリディアは声を出し、男を見上げた。彼はあからさまに眉をひそめた。
「なに、幼馴染?」
「はい」
「最近そう言って事あるごとに面会を要求する女が多いんだよねえ」
「え……えっと?」
話が読めず、リディアは混乱した。畳みかけるように男は続ける。
「ましてや君……」
「な、何ですか?」
「幼馴染? そりゃまた新手の作戦だね。どうせなら恋人くらいホラ吹けばいいのに」
「嘘じゃありません」
あんまりな物言いに、リディアは眉をしかめる。
「証拠もないんでしょ? 俺らはそうほいほいと簡単に中に入れるわけにはいかないんだよ」
「別に中に入れてもらいたいわけじゃないんです。ちょっと顔が見たくて……。あの、それじゃあ一言、私の名前をサイラスさんに伝えてもらえませんか? それで分かってもらえるはずです」
何たってここは王族の住まう城。リディアだって、そう簡単に入れてもらえるとは思っていなかった。しかし、それでもリディアはここで引き下がるわけにはいかない。せっかくここまで来たのだから、顔くらいは見たい。
「でもねえ、面倒――いや、俺たちそんなに暇じゃないんだよね。ほら見てこのありさま。毎日届く手紙やら小包やらを誰に届いたのか、危険なものは無いのか、いろいろ仕分けしないといけないわけ」
男はだらーんと腕を後ろへやる。リディアも釣られて彼の後ろを見やる。――相変わらず忙しそうな一室が目に入った。
「だからさ、いちいち君のサイラスさんを呼びに行く時間ないの。分かる?」
「……はい。すみません」
何だか急に申し訳なくなって、リディアは顔を暗くした。しかしすぐにちょっと顔を上げる。
「あの」
「まだ何かあるの」
いい加減男の声はうんざりしている。リディアは更に縮こまった。
「すみません。これだけ、せめてこれだけサイラスさんに届けてもらえませんか、手紙と一緒に」
「……届けるだけだからね。読んでもらえるかどうかは別の話だから」
「構いません。お願いします」
「はいはい、次からはちゃんと連絡してから来てね」
リディアはすっかりしょぼくれて城門を後にした。
男はその姿にひらひらと適当に手を振った後、大きな欠伸をして、再びテーブルに足を投げ出した。その適当な様に、見習いの青年はため息をついた。
「ちょっと今の可哀想じゃありませんでした?」
「ああ? 何の話?」
「さっきの子ですよ。折角来たのに門前払いって……」
「あのねえ、そんなこと言ってたらキリ無いの。我らが王宮の騎士目当ての輩、たくさんいるんだから。あの人に会わせて、あの人にこれを渡して、あの人の名前は? って女、一体一日に何人来ると思う? 王宮に籠りっきりで接点がないからって、ここにまで突撃するのはこっちがうんざりなんだよ」
「でも彼女……真面目そうでしたし……」
「あーはいはい。じゃあ君が中に入れてやれば―? 責任問題になっても俺は知らないから」
「……せめて手紙、届けてきます」
取り付く島もない男に、青年はしぶしぶ立ち上がった。彼が言うほど、この部署は忙しい訳ではない。日が沈む前にはお届け物の嵐は止むし、夕餉前には全ての部署にそれらを届け、後はゆっくりできる。ただ、不定期に荷物が届けられるので、気が抜けないというだけだ。
青年は、先ほどの手紙を手に取った。いい加減なことに、男は受け取ったまま近くのテーブルにほったらかしていたので、下手したら届けられるのは明日になってしまう。
しかし手紙に目を落としてみて、青年は固まった。
「あ……の、これって……!」
「今度はなに。さっきから君うるさいよ。静かに仕事しなさい」
「先輩、あの人本物の幼馴染なんじゃないですか? だってほら名前のとこ――」
「リディア?」
「ほら、いつもサイラスさんに手紙送ってた人ですよ! よく話してたじゃないですか」
城外へ手紙や荷物を送ることがある時、使用人たちは皆この部署へやって来る。田舎へ仕送りをする者も、恋人へ贈り物をする者も。その種類は様々だったが、その中でも目を引いたのがサイラスという従騎士だった。騎士の見習いとなれば訓練も厳しいはずだし、休日もそんなに貰えない。にもかかわらず毎週欠かさず手紙を送りにやって来る彼。と言っても、彼とは一度も話したことがなかった。自分たちは仕分けで忙しいし、何より彼が醸し出す空気が固く、気軽に聞いてはいけないような、そんな雰囲気があったのだ。
だからこそ、陰ながらここの部署の人員たちは、仕事の片手間に、勝手に各々の空想を膨らませていた。相手はどんな人なんだろう、あの若さでもう決まった恋人でもいるのだろうか、というように。
「あー、何かそういう奴もいたような……」
しかし残念ながら、噂話よりも居眠りの方が好きらしいこの先輩は、元よりサイラスとその文通相手には興味が無かったようだ。
大きな欠伸一つすると、もうその話は飽きたと言わんばかりに書類をテーブルに置き、目を閉じた。早速居眠りするつもりらしい。
「でも最近文通止んでたよな。それが急に会いに来て渡すってどういうことなんだか」
こちらの話を聞いていたらしいもう一人の先輩が、顔だけをこちらに向けた。青年は躍起になって言い返す。
「でもも何もないですよ! きっと喧嘩して、で、あの人が仲直りに来たとか、きっとそんな感じですよ! 俺、やっぱりあの人呼び戻してきます」
「ちょっと君―、仕事どうするの、もしかしてサボるつもり?」
慌てて男は居眠りから飛び起きたが、もうその頃には歳若い青年は駆けて行ってしまっていた。この仕事がまだ浅いせいか、純粋というか生真面目というか……。
何か責任問題になったら、真っ先に彼を突きだしてやろうと男はこっそり決意した。
一方青年の方は、のろのろと歩いていた少女にようやく追いついた。肩を落とし、明らかに落ち込んだその様子を見て、青年も胸を痛めた。
「あの、すみません」
「はい? 私、ですか?」
少女もといリディアは、戸惑ったように振り返った。青年は軽く頷くと、息を整えた。
「あの、込み入ったことを聞きますけど、君ってよくサイラスさんと文通していたリディアさん、ですよね?」
「は、はい。そうです」
「やっぱりそうかー」
パーッと青年は喜色を露わにし、頬を掻いた。いまいち事情が分からないリディアは居心地悪げに立っている。
「いやあ、俺もどんな子なんだろうって不思議だったんですよ。サイラスさんと文通してる人」
「は、はあ……」
「あ、確かサイラスさんと会いたいって言ってましたよね? 案内しますよ」
「え……ええ? いいんですか?」
思いもよらない申し出に、リディアは嬉しさよりも驚きで目を白黒させた。
「いいんです、いいんです。身元がハッキリすれば、こっちだって断る理由もありませんから」
「えっと、じゃあすみませんけど、お願いします」
「はいはい!」
元気よく請け負うと、青年は張り切って歩き出した。
「いやあ、さっきは先輩が失礼しました」
「先輩……?」
「先ほど君に応対してた人です。でも悪い人じゃないんですよ。ただ、昔からよく若い女性が騎士目当てにやって来る人が多くて……」
「騎士目当て……?」
「街中やパレードで騎士を見かけた女性が、よくあそこまでやって来るんです。名前を教えてほしいとか、誰々に会わせてくれとか」
「はあ……」
初耳だった。騎士というのは、そんなに人気があるものなのだろうか。確かに、きっちり制服を着こなし、剣を携えて整列している姿は、誰が見ても恰好よく見えるものだが……。
「だからあの部署の人たちはうんざりしてるんですよ、若い女性に。だからすみません。不快な思いをさせてしまって」
「あ、いえいえ! こちらこそすみません。私が約束してなかったのが悪いんです。何も考えずにここまで来てしまったので……」
「いやー、だからってねえ。あの人の態度は酷いと思いますよ! 自分は終始居眠りしてるだけのくせに――」
「誰が酷いって?」
ドスの聞いた声が降ってきた。いつの間にか先ほどの出窓の所まで戻って来ていたらしい。そこから男が不機嫌そうに顔を出していた。
「嫌だなあ。誰も別にそんなこと言ってませんよ」
しれっと青年は答える。男は更に不機嫌そうな顔でリディアを見やった。
「あーあ、その子入れるんだ。問題になっても知らないからね。君一人の責任だから、俺は関係ないから!」
「はいはい、別にそれで大丈夫ですよ」
素知らぬ顔で青年は扉を開けてリディアに先に入るよう促してくれるが、リディアとしてはそうもいかない。
「あの、私やっぱりここで待っていた方が……」
「ああ、大丈夫です。あの人の嫌味は気にしないでください。いつものことなので」
「でも――」
「あー、面倒くさいなあ! そこでたらたら話してる方がもっと邪魔なんだけど」
ついに男は怒鳴り出した。ビシッと扉の向こうへ指を突きつける。
「行くなら行く! 行かないなら行かない! さっさとどっちかに決めてくれない!?」
「はっ、はい! すみません!」
慌ててリディアは扉へと駆けこんだ。苦笑しながら青年も後を追う。
「……素直じゃないんだから」
「何か言った?」
「いえ」
そんなやり取りをしながら。