09:鼻の穴から


 女子たちは、本気のドッジボールをした後、運動が苦手な子のためにも、少々ルールを改変したものを行った。その名も『左手ドッジボール』。
 参加する人は全員左手でボールを投げなければならないし、運動が得意な者は、それに加えて左手でキャッチするというものだ。
 これなら三子や由香里も心から楽しめたし、運動が得意な者たちも、斬新なルールにはしゃいでいた。
 久しぶりに、三子が運動を楽しいと思った瞬間だった。

『さんこ、楽しそうね』
「うん、すっごく楽しい!」

 三子が外野へ移動することになった時、しばらく姿の見えなかったニハがやってきた。

『あの子、良い子そうだもの。きっと良い友達になれるわ』

 ニハの視線は由香里に向いている。これにも、三子は躊躇いなく頷く。

「うん。そうだといいな。ねえ、イチは?」
『んー、イチね。あの子は今、結構ブルーなのよ』
「ブルー?」

 ニハが指さす方を、三子はチラリと見た。――イチは、三子たちから少し離れた場所にいた。男子が走っているのを羨ましそうに眺めている。タイムを図っている男子たちはというと、何となくだらけた様子で、本気で走っている者も、緩く走っている者もいた。

『俺が変わってやりたいよ、ったく……』

 不意に聞こえたその声は、投げやりにも聞こえたが、三子は切ない響きだと思った。
 どうしたものかと三子が戸惑っていると、そのままイチはスーッとどこかへ行ってしまった。

『あいつ、運動のこととなると、性格が変わるからね……。こっちが引くくらい熱血になるの』
「運動が好きなの?」
『というより脳筋なのよ』
「のう……きん?」

 能天気ってこと? なら、確かにイチっぽい。
 三子はいささか失礼なことを考えながら、女子のドッチボールに注意を向けた。なかなかどちらのチームも拮抗していて、目が離せないと思った。


*****


 三子の注意が逸れた頃、ブルーになっていたイチは、次第にムカムカと自分の中に怒りが込み上げてくるのを感じていた。三子の傍を離れ、男子の列へと行く。途中、呆れたような仁科修平の視線を感じたが、イチは構わなかった。迷わずスタートラインへ行くと、計測を終え、列に戻ってきた一人の男子に叱責する。

『お前! 男子の癖してなんだそのしょぼいタイムは! 俺だったらもっと早く走れる、もっと凄いタイムを叩きだすぞ!』

 当然、幽霊なので聞こえるわけもないが。
 それでもイチはぶつぶつ、ぶつぶつと、様々な人に説教をする。
 イチのそんな怒った声だけだが聞こえてくるので、三子はドッジボールの際、気を取られて仕方がなかった。

「ねえ、大丈夫なのかな、イチ。何だか荒れてるみたいだけど……」
『うーん、どうだろうねえ。前まではこんなことなかったんだけど……』
『あーもう! 俺がお手本で走ってやる! いいか、見てるんだぞ!?』

 聞こえるわけもないのにこの叫び。
 三子は少々イチのことが心配になった。もちろん、頭は大丈夫なのかという意味で。
 イチは高らかに叫ぶと、黒井の笛の根と共に走っている男子たちの隣を並走した。幽霊なので、もちろん風圧など無く、軽々と男子たちを追い抜いて行った。

『あーもう! ぬるいぬるいぬるい! もっと俺は走りたい、適当なお前らの代わりに走りたい!』
『な……なんかイチ、危ない人みたいになってるわね……』

 ニハの呟きに、三子は渇いた笑いを漏らした。まさに同じことを考えていたのだが、これに同意すれば、イチの立場が無いと思った。

「三子ちゃん! そっちにボールいったよ!」

 由香里の叫びに、三子は注意を戻した。左手で投げられたへろへろとしたボールが、まさに三子の方へやって来るところだった。
 何とかそれをキャッチすると、三子は反対側の外野へ投げた。新ルールに伴い、幾分かコートも縮小されているので、何とか盗られずに反対側へ辿り着く。
 その間に、イチと並走していた男子たちが五十メートルを走り終わった。次第に減速し、肩で息をしながら、やがて立ち止まる。
 しかし、彼らと共に走っていたイチは止まらなかった。真剣な表情でそのまま駆けている。

『イチ! 一体どこまで走るのよ』

 呆れてニハが声をかけた。

『いや……このまま、どこまでも走っていきたいなって』
『はあ?』
『風を……せめて、感じたいな。もう死んでるってことは分かってる。でも――』
『イチ……』

 物憂げな表情に、ニハは言葉を無くす。しかしすぐにハッとすると、イチと傍の三子とを何度も見比べた。次第に血の気が引いていく。

『って、イチ! あんた早く止まりなさい!』
『はあ? 何で?』
『せめて軌道変更するとか――とにかくこっち来ちゃ駄目だって! ここにはさんこが――』

 イチはすっかり失念していた。幽霊だからこそ、何にもぶつかることが無いと高をくくっていたのである。しかし、彼の前には三子がいた。

『――っ』

 普通ならすり抜けるはずの三子の身体に、イチは吸い込まれていった。イチは何が何だか分からなかった。三子を視界にとらえるよりも早く、吸い込まれてしまったからだ。彼に分かることと言えば、何だか身体が重いことと、自身の身体が風を感じていること――。

「あっ……あれっ……? 俺、もしかして走ってる……? 今、風を切って走ってる……?」

 『三子』は信じられないと言った様子で空を見上げた。心なしか、いつも見ている光景も、より鮮明に感じた。

「お……俺、今走ってる!」
『そりゃそうよ! あんた今さんこの身体に乗り移ってんだから!』

 ニハのツッコミが入る。しかしイチの耳には全く入って来なかった。

「走ってるー!」
『こらイチ! 人の話を聞きなさい! っていうか早くその身体さんこに返しなさい!』

 闇雲に走る『三子』を、ニハが慌てて後を追った。
 しかし一方で、校庭は騒然としていた。何しろ、先ほどまで和やかにドッジボールをしていた三子が、突然奇声を上げながら走り出したのだから。

『どうしよう……どうしよう!』

 三子の方も、もちろん大変だった。
 単に思うままに走っている『三子』と違って、自らは幽体となり、命の危機に瀕しているのだから、それも当然だ。

「おい、矢代! 聞こえるか!」

 三子の異常事態を察して修平がやってきた。
 空中に向かって、突然叫び出す。
 この時の修平の行動も、普段ならばなかなかに不可解な行動だったのだが、何しろ今『三子』に注意が向いている中、修平の行動に目を止める者はいなかった。

『きっ……聞こえる、けどっ』

 三子は思わず涙目になって修平を迎えた。幽霊なので、本当に涙が出ることはないのだが。

「お前はこのままだと昇天する。つまり死ぬってことだ! お前はこのままだと死ぬ!」
『わ……分かってるよ、そう何度も死ぬ死ぬ言わなくても!』

 それに昨日ちゃんと辞書で焦点の意味を調べたし!
 三子は混乱して叫ぶが、その間にも順当に身体は上昇してしまっている。

『でも……じゃあどうしたら――』

 三子は言いかけてハッとする。そう言えば、昨日同じ状況に陥った時、私はどうやって元に戻った!?
『あ……ねえ! 昨日の水晶玉は!? あれ使えないの!?』
「昨日の水晶玉はもう持ってない! あれは結構高いんだよ!」
『ご……ごめんって!』

 咄嗟に三子は謝る。
 そういえば、まだお礼を言ってなかった。
 確かにあの水晶玉は三子が飲み込んだままだ。
 あれが……トイレの際に出てきたら嫌だな、と三子はふと思ってしまった。高価らしいあの水晶玉のお金を払えるかどうかも分からないし、かといって出てきた水晶玉を返せと言われても嫌だ。
 ――って、こんなこと考えてる場合じゃなくって!
「だからつまり! お前は自分の力でこの状況を打開しないといけないってことだ!」
『――っ』

 いちいち突っ込むのは止めにして、三子は黙って修平の言葉を待った。

「幽霊が昇天するのは、この世に未練がなくなったからだ! 逆に言えば、この世に未練があればそのままこの世に留まることができる。この意味が分かるか!?」
『分かる……それは分かるけど――』

 未練。
 そう言われて咄嗟に思い浮かぶものは何だろう。
 小さい未練なら山ほどある。あのお菓子食べ忘れたとか、漫画の最新刊もうすぐ出るのにとか、あとニハたちに一言言わないと気が済まないとか!
 でもそんなくだらない未練でこの世に留まることなんか――。

『って、えええ!』

 三子は仰天した。

『身体が……身体が地上へっ!』

 三子は叫んだが、ハッとすると口をつぐんだ。少しでも動いたら、また上へ引っ張られそうだった。三子はじっとしたまま事の成り行きを見守る。
 ゆっくりゆっくりと降りて行き、三子の身体はようやく地上に降り立つことができた。といっても、幽霊なので、完璧に足がつくということはないのだが。

『…………』

 驚きや喜びが一通り落ち着いてくると、段々三子は呆れが出てきた。

『こんなくだらない未練で、幽霊って地上に留まることができるんだ……』

 三子は茫然としたまま呟く。
 ニハたちの未練は何だろう。
 ふと三子はそう思ったが、何だか空しくなりそうで止めておいた。

「うまくいったようだな」

 満足げな表情の修平に出迎えられる。三子は視線を逸らしながら頷いた。

「人それぞれ――幽霊それぞれ、未練は様々だが……その思いが強ければ強いほど、幽霊は地上に縛り付けられる。まあ、また幽体になった時のために未練は残しておくといい」

 ……お菓子食べ忘れておくとか?
 思わず三子はそう聞き返そうとしたが、何だか馬鹿らしくなって止めた。本当に馬鹿にされそうだし。

「あと……残るはあいつだな」
『…………』

 修平の視線が『三子』へと向けられる。ニハに説得されたのか、彼女はようやく立ち止まっている所だった。

「取りあえずあっちへ行こう」
『う……うん』

 三子は頷きながらも、恥ずかしげに修平の後について行った。今の彼女は幽霊なので、誰に見られるということはないのだが、しかしどうにもクラスメイト達から見られているような印象を受けてしまう。何しろ、今三子と修平は、奇声を上げていた『三子』の元へと向かっている。三子自身は見えなくとも、『三子』と修平が彼らには見えているのだから、それも仕方がないのだから。

「大丈夫か?」
「あ……ああ」

 どこかボーっとした様子の『三子』だ。

「とにかくすぐに戻った方がいいな。先生もこっちに来てるし」

 ハッとして三子がそちらを見やれば、確かに黒井が不思議そうな顔をしてこちらへやって来ている。三子は焦った。

『ど……どうしよう、どうやって元に戻ればいいの!?』
「そうだな……」

 修平は顎に手をかけ、しばらく考える。

「よし、鼻の穴から入れ」
『はっ、鼻の穴!?』

 三子の声は裏返った。予想もしない返答に、頭が追い付かない。

『口からは――』
「いや、こういう時は鼻の穴から入った方がいいと教わった。鼻の穴だ」
『じゃあ昨日の水晶玉はどうやって――』

 ふと気になって三子は尋ねてみた。修平はイラッと眉を吊り上げたが、しばらく黙り込んで、そして叫んだ。

「あれは! ……その、いろいろと複雑な効果があるんだよ! 俺が知るか、とにかくさっさと鼻の穴へ行け!」
『さんこ、早く鼻の穴へ!』
『何度もそう連呼しないでよ……』

 三子は訳の分からない羞恥心に苛まれた。が、そううかうかもしていられないと、皆の視線に見守られながら、『三子』の鼻の穴へダイブした。
 始め、三子の意識ははっきりとしていなかった。自分の身体に戻ったことを、遠い意識の中で理解したが、どうにもその意識を浮上させることができなかった。

「――おいっ!」

 自分の身体さえも操ることができず、三子は修平の腕の中に倒れこんだ。心配そうなニハ、イチの視線も感じたが、返事をすることができない。

「おい、修平。矢代は大丈夫か?」
「はい……。ちょっと意識が朦朧としているようで」

 黒井と修平が話す声も遠かった。

「こ……」

 しかし、何としても三子には伝えたいことがあった。

「これだけ言わせて……」
「何だ矢代! 最後に何が言いたいんだ!」

 修平の鬼気迫った顔に、何だか遺言みたいだ、と三子は思った。
 しかし、これだけは。
 これだけは言わなくては。きっと後で目覚めた時、怒りが鎮火していることだから。
 浅い呼吸を繰り返しながら三子は言葉を紡ぐ。

「ふつ……普通に……」
「何だ、何が言いたいんだ!」
「普通に学校を終わらせてよ……」

 それだけ言うと、三子の意識はスーッと途切れてしまった。
 ニハやイチと出会ってから。
 三子は、未だまともに学校を終えたことが無かった。