08:自由だね


 三子は今日も憂鬱だった。それはそうだろう。転校初日に、早退をしてしまったのだから。
 一時間かそこらしか顔を会わせていないクラスメイトに、いざ朝出会ったら、誰? なんて真顔で聞かれないだろうか。腫物を触るように接せられないか。サボりなんて良いご身分だと言われないか。
 三子の中にはいくつもの悩みが混在し、ついにはため息をついた。隣には陽気なニハ、イチが飛んでいることも要因の一つだ。

『ほーんと、さんこったら相変わらず陰気なんだから』
『教室入ったら元気よく挨拶しろよ? おはようございまーす、昨日転校してきたさんこでーすってな!』
「はあ……」

 少しくらい憂鬱に浸らせてほしいものだった。一日中こんな騒がしい二人と一緒にいれば、相乗効果で三子も明るく――なるわけもなく、むしろうんざりしてより一層暗くなってくる。
 決して言い訳をするつもりはないが、辟易するのも仕方がない。それほどこの幽霊二人は、陽気で、空気が読めなくて、無神経なのだから。
 三子は恐る恐る教室の扉を開いた。緊張の面持ちで中へ入ると、ゆっくり扉を閉める。
 扉を開ける前から分かっていたことだが、教室の中は騒がしかった。友達と談笑する者もいれば、静かに本を読んでいる者もいる。三子はその中で、そろりそろりと自分の席に向かった。
 何事もなく――そう、本当に何事もなく、三子は席につくことができた。ここが前の学校ならば、うんこが腹痛で早退した〜だとか、今日もうんこたくさん出たかだとか、いろいろ言われるだろうことは想像にたやすい。でも、この学校でのこの待遇は。

『あちゃー、まずいことになったかもね』

 ニハの声に、三子はビクッと肩を揺らした。

『あんた、教室入って来たの誰にも気づかれてないじゃん』
「そ……それって、良いことじゃないの……?」

 三子は恐る恐る尋ねた。
 前の学校に合わせれば、それはものすごく良いことのように思える。何しろ、意地悪なことを言われなくて済むのだから。

『良くないわよ。しょっぱなからそんな感じだと、皆あんたに声かけるの躊躇っちゃうじゃん。気づけば教室の隅にいる、何だか大人しい子って。そんなレッテルを貼られたら最後よー。よっぽどのことが無い限り、話しかけにくいもの』
『ここは勇気を出して前の扉から行くべきだったな。そうすれば誰か一人くらい優しい子が声かけてくれたかもしれないのに』
「う……うう」

 そんなことを言われても、後の祭りだ。三子は段々居たたまれなくなって、教科書の中に顔を埋めた。

「友達……できるかな」
「できるといいな」

 パッと三子は顔を上げた。黒い瞳と目が合う。彼は少し笑うと、自分の席についた。

「っおはよう!」

 三子は勢い込んで修平に挨拶した。

「……おはよう」

 彼は何も感じていないようだが、三子としては、先ほどの独り言が聞かれたことに羞恥を抱いていた。

「それよりも、そんなにのんびりしててもいいのか? 次体育だけど」
「えっ」

 三子は慌てて立ち上がる。教室の掲示板に張られている時間割を見れば、確かに今日の一時限目は体育だ。

「女子は更衣室だぞ。男子はここで着替えるが」

 見ると、クラスの男子たちの視線が三子へと集まっていた。三子がいつまでもここにいるため、着替えるに着替えられないらしい。

「すっ、すみません――っ」

 慌てて三子は教室を飛び出した。手にはちゃんと体操着の入った袋を持っていたが、更衣室の場所を聞くのを忘れた。三子は自分の馬鹿さ加減にうんざりだった。

「更衣室の場所……分からないよね」
『あたしたちに聞かないでよ。知る由もないし』

 駄目もとで幽霊である二人に聞いてみても、返事は素っ気ない。三子は再びため息をついた。

「矢代さん」
「――はいっ」

 そんな時、唐突に彼女の名を呼ぶものがあった。さんこでもうんこでもない、普通に苗字呼びである。
 三子はそれだけでも嬉しかったが、振り返ってみて更に笑顔になった。名前は分からないが、クラスメイトの女の子だった。

「更衣室にいないから、もしかしてまだ教室かなと思ったんだけど。ごめんね、更衣室の場所分からなかったよね」
「う……うん。だから困ってて……」
「一緒に行こう。この時間だとちょっと遅れるかもしれないけど、先生に事情を離したらきっと分かってくれるよ」
「あ……ありがとう!」

 三子は元気よくお礼を言った。目の前の少女も、嬉しそうに頷いた。

「そういえば、まだ名前言ってなかったね。わたし、吉澤由香里って言うの。よろしくね」
「う、うん。よろしく」

 仁科修平以外の名前を知ることができた。三子は今、感動に胸を震わせていた。
 更衣室につくまで、三子と由香里は和やかな会話を続けた。どうせ今から急いでも授業には間に合わないとの由香里の意見だ。三子としては、由香里が遅れるのではないかとハラハラしていたが、由香里はそんな彼女を一笑した。

「ここの先生、そんなに厳しい人たちじゃないから。大丈夫だって」
「そ……そうかな?」

 三子に気を使っているのか、由香里は、三子が更衣室で着替える間中話しかけてくれた。

「ねえ、三子ちゃんって西尾市から来たんだよね。どんなところなの?」
「う……うん、人が多いかな……?」

 あまり外出したことが無かった三子としては、具体的に紹介できるようなことも場所も知らない。月並みなことしか言えなかった。

「やっぱりそうなんだー。わたし、西尾市みたいな都会だと絶対に生きて行けなさそうだなー。なんか、みんなキラキラしてそう」
「うーん……キラキラしてる人はしてる、かも……。私みたいにあんまり馴染めない人だっているし……」

 次第に声が小さくなっていく。こんな暗いことは言いたくないのに、つい口が滑ってしまった。

「じゃあここなら馴染めるかもしれないね! みんなマイペースだから、三子ちゃんならきっと大丈夫だよ」
「ありがとう……」

 ポンポンと流れるような会話に、三子は感動した。同時に由香里に感謝もした。自分に話しかけてきてくれたことに。

「そう言えば今日は五十メートル測定だって」
「え、そうなの……?」
「うん。嫌だなー。わたし、運動とか嫌いだから」
「あ……私も」

 思わぬ共通点に、三子は嬉しそうに声を高くした。

「私、走るの――というか、運動全般が苦手で……」
「じゃあ仲間だー。わたしも球技とか特に苦手!」

 いつの間にか、二人は校庭へ出ていた。そのことにも気づかないほど、会話に熱中していたのかと、三子は再び胸を震わせた。

「お、来たな」
「はい。遅れてすいません」

 由香里は潔く頭を下げた。三子も慌ててそれに倣った。

「先生、この子、転校生の矢代三子ちゃんです」
「よっ、よろしくお願いします……」
「よろしくな。先生は体育の黒井だ。体育が無い時はいつも職員室にいるから、何か困ったことがあれば来るといい」
「はい。ありがとうございます」

 豪快そうだが、その分細かいことは気にしない性質らしい。三子は自分のせいで由香里が怒られなかったことにホッと息をついていた。

「女子はドッジボールをやっているから、そこに入ってくれ。男子は今測定をしている。男子が終わったら交代だからな」
「はい」

 二人は連れ立って女子のグループへやってきた。なかなか白熱した戦いをやっているらしく、三子は気後れした。

「ドッジボールって怖いよね……」

 そんな三子の気持ちがバレたわけではないだろうに、三子の心中を当てたかのような由香里の物言いに、彼女はホッと息をついた。

「うん、私もそう思う。当たったら痛いし、なんか……こう、うん、痛いよね」
「ええっ、なにそれー」

 具体的にドッジボールの怖さについて三子は熱弁しようと思ったが、何だか引かれそうだったので止めておいた。それが功を奏したのか、由香里はカラカラと楽しそうに笑った。

「由香里! どっちのチームに入るのー? 矢代さんも」

 なかなかドッジボールのコートの中に入らないので、見かねてクラスメイトの一人が声をかけた。由香里は笑ってそれに手を振る。

「ごめん、わたし達は外野でいいや。皆で頑張って」
「矢代さんも?」
「うんうん、わたしたち、運動が苦手な徒党を組んだから。ごめんねー」
「何それー。もう、仕方がないなー」

 彼女はそれ以上深追いすることなく、再びドッジボールに熱中し始めた。他のクラスメイトも同様だ。三子はマイペースな由香里に驚くとともに、彼女の行動を気にも留めないクラスメイト達に驚いた。

「じゃあわたし達は外野にいって皆の応援しよっかー」
「う、うん……」

 内心では、三子は戸惑いで一杯だった。普通なら、こんな状況はあり得ないだろう。皆でドッジボールをするなら、全員が参加するのは当然だし、もしそれを拒否するような人がいれば、一気に批判が集まるのも当然だった。

「自由……だね」

 つい声が漏れた。由香里の顔は不思議そうに三子へと向いた。

「だって……皆内野へ入るのが普通かなって。ほら、頑張ってる人とか、そういうのあんまりよく思わないと思ってたから……」
「ああ、確かにそうかも」

 由香里は納得の声を上げた。

「でもここの子達、皆小学校からの付き合いだしね。運動が苦手な子ってだいたい分かるんだよ。そんな子を無理に入れても楽しくないじゃん? ただサボりたいとかで外野に行きたいんじゃなくて、普通にドッジボールが苦手だったりとか、怖かったりとか。そういう子たちは、外野へ行ってもいいって何となく決まってるんだ」
「そうなんだ……」
「その代わり、応援は一杯するけどね。運動は苦手だけど、見てる分には楽しいし」
「うん……そうだね」

 三子は柔らかく微笑んだ。
 少しだけ、心が温かくなった。いつも、ドッジボールは苦手だった。ボールが当たると痛いし、当たって外野に行くことになると、何となくチームの視線が自分に集まった。どこか非難を帯びたような視線と、からかうような視線。
 三子はいつも、チームプレイが必要とされる運動が苦手だった。

「ほら、応援がんばろ?」

 由香里の明るい声に現実に呼び戻される。三子は元気よく頷いた。