07:名前がある


 三子は、転校初日にして保健室送りになった。二限、三限と気を失ったまま過ごし、四限になってようやく三子は目覚めたのだ。保健室の先生は休みでいないらしく、小西が心配そうに三子を覗き込んでいた。

「大丈夫? 気分は?」
「あ……はい、大丈夫です」

 多少目が回っているような気もしなくはないが、気分は正常だった。冷たい水を貰い、喉を潤す。

「倒れたって聞いたわ、修平君に。本当に大丈夫? 熱は無いみたいだけど」
「あ……はい。本当に大丈夫です、その、昨日あまり寝られなくて……」

 どう答えたものか迷った挙句、三子はそんな返答をした。小西はそれでも疑いの目でしばらく三子を見ていたが、やがて息を吐き出した。

「大事をとって、今日はもう家に帰った方がいいわ。親御さん呼びましょうか」
「あっ、いえ!」

 慌てて三子は首を振った。

「母は……その、仕事をしていますし、心配かけたくないので……」
「心配……ねえ」

 小西は物憂げな表情で呟いた。

「家族としては、一人で無理に頑張るよりも、心配かけすぎる方が嬉しいものだと思うけどね」
「…………」
「でもいいわ。連絡は止めておく」
「……いいんですか?」
「さっき、修平君にも似たようなことを言われたの。親を呼ぶなら三子ちゃんの了承をとったほうがいいんじゃないかって」
「……?」

 三子は不思議そうに首をかしげた。しかしすぐに合点がいく。ニハかイチが、そう小西に伝えるように頼んだのかもしれない。
 私が、母や祖母に迷惑や心配をかけるのを極端に恐れているから。

「でも早退はするでしょう?」
「……はい。そうします」

 三子は大人しく頷いた。
 こんな状態で、あの教室に戻る気はしなかった。ここで先送りにすれば、おそらくそれだけ明日に重荷がいくことになるが、今の三子は深く考えることができなかった。重たい体に鞭打って、起きようとするが、その前に小西がそれを制した。

「鞄をとってくるから、三子ちゃんはゆっくりしておいて」
「あ……はい。すみません」
「気にしないで」

 笑って小西は出ていった。保健室に静けさが戻り、三子は再びベッドに身を預けた。木目の並んだ天井が飛び込み、しばらくそれをじっと見ていた。すると、予想通り、心地よい眠気に誘われてしまう。三子はせめて家に帰るまで、と必死にその衝動を堪えた。
 五分と経たないうちに、小西が帰ってきた。手には鞄を持ち、そして隣にはなぜか修平を伴って。

「大丈夫か?」
「う……うん」

 どうしてここにいるのか、と目線だけで尋ね返したつもりが、修平には全く通じなかったらしい。

「さ、三子ちゃん立てる?」
「はい……」

 どれだけ頼りなく思われているのだろう。
 小西の手厚い補助によって、三子は立ち上がった。

「先生、俺が送って行きますよ」
「えっ」

 思わず三子は修平を見た。しかし彼は無表情で、何を考えているのかよく分からなかった。

「……じゃあお願いね。これ鞄」

 三子の鞄を修平が持ち、小西に見送られ、三子と修平は学校を後にすることとなった。
 歩いて帰る途中、再度三子はもの言いたげな視線を修平に送る。今度はそれに気づいたのか、彼は少し照れくさそうに笑った。

「まあ……一応俺にも責任がある訳だが。俺のせいで……その」
「――気にしなくていいよ」

 何だそんなことか、と三子は笑みを零した。

「何だかんだ言って助けてくれたし。――そう言えばお礼言うの忘れてたね。ありがとう」
「いや……」

 修平は視線をずらした。

「俺の方こそ、少し調子に乗ってしまったみたいだ。まだ祖父には実践は止めておけと言われていたのに。――しかし……なあ」

 急に修平は真剣な表情になって考え込んだ。

「どうしたの?」
「……いや、何でもない。とにかく悪かった」
「……うん」

 その後は、二人とも言葉少なに帰り路を歩いた。そんな時、さんこーと間延びした口調でイチがやってきた。

「……また出たな」

 ふよふよと目の前で浮かぶイチを見て、修平の視線が鋭くなった。三子は苦笑いしてそれを眺める。

『出ちゃ悪いかよ』
「悪い」

 場が険悪になっていくのを見越して、三子は慌てて二人の間に割って入った。

「ニハは? さっきから姿が見えないけど」
『今ちょっとへこんでる』
「ニハが?」

 三子は意外そうに聞き返した。それはそうだろう、あのお気楽なニハが。

『もう少しでさんこが死ぬところだったからなー。あいつなりに反省してんじゃね』
「ニハでも落ち込むことってあるんだ……」
『俺たちには見せないだけで、あいつは人一倍落ち込む性質だよ』
「……そうなんだ」

 意外に思って、三子はそれ以上言葉を返すことができなかった。

『じゃ、俺ちょっとニハの様子見てくるわ』
「あ……イチ、ニハって今どこにいるの?」
『家じゃねえか。そこくらいしか、俺たちあんまり知らねえし』
「そっか。ありがとう」

 ヒラヒラと後ろ手に振られる手を見ながら、三子はイチを見送った。その間、修平はほとんど口を開かなかったが、イチの姿が空気に溶けこんだときに、ぽつりと呟いた。

「あいつ……あいつらにも、名前があるんだな……」
「……うん。始めに自己紹介してくれた。女の子がニハで、男の子の方がイチだって」
「変な名前だな」
「そ……そうかな」

 自分の名前も一風変わっている自覚がある三子は、どうにも元気よく肯定することができなかった。

「そう言えば自己紹介がまだだったな」

 唐突に修平が口を開いた。

「俺は仁科修平。由緒正しい祓い屋の――」
「それ、さっきも聞いたよ」
「……そうだったか?」

 うん、と今度はしっかり頷く三子。イチやニハと対峙した時に、意気揚々と宣言していた様が脳裏に浮かんだ。

「私は矢代三子。東京から引っ越してきました。……よろしく」
「ああ」

 言葉が途切れる。
 でも不思議と、三子はこれが居心地の悪い沈黙には思えなかった。
 不思議だった。思い返してみれば、ニハやイチと一緒にいても、苦痛とは思わない。まだ会って間もないのに、彼らの方こそ随分親しげだった。そのせいかもしれないと三子は思った。

「お前、霊感あるよな?」
「う……うん」

 これまた唐突な質問だ。
 どう答えたものか、一瞬三子は躊躇ったが、結局頷いた。まだ幽霊はニハとイチの二人しか見ていないが、彼らが見えるということは、霊感があるといっても過言ではないのだろう。

「……これだけは忠告しておく。幽霊にあまり深入りするなよ。あいつらはいつ豹変するかも分からない。いつの間にか、あっちの世界に足を踏み入れていた、なんてこともざらだ。手遅れになる場合もある。死にたくなかったら、俺の所に来い」
「…………」

 修平の長い言葉を、三子はゆっくり頭の中で咀嚼する。
 修平の言っていることは、分からない訳ではなかった。それ以前に、彼は由緒正しい祓い屋の息子だという。ならば、霊感を持って一週間かそこらの三子よりも、きっとずっと霊のことを知っているのだろう。彼は悪い人には見えない。嘘をつくような人にも見えないし、ならば、彼の言葉は真実だ。
 ……でも、ニハやイチが、悪者に見えるかと言われれば、それは否だ。ニハやイチと過ごした時間は一週間。短い期間ではあるが、それでも三子は彼らの人となりは、分かったつもりでいた。彼らは幽霊で、三子たち人間とは根本から何かが違うのかもしれない。しかし、今の三子には、彼らが年相応のただの少年少女に見えた。

「……ありがとう」

 ようやくそう返すと、三子は修平に向き直った。
 修平の言葉は有り難かった。三子の中の何かも、彼の言葉を持ってして、少し形を変えた。

「ちゃんと覚えておく。何かあったら、仁科君の所に行く」
「……いや、分かってくれたのならそれでいい」
「うん。あと、送ってくれるのはここまででいいよ。今日もまだ授業あるでしょ? ここで大丈夫」
「でも――」

 なおも言いたげな修平を、三子は笑って制する。

「ニハが落ち込んでるみたいだから、少し、話して帰りたいの」
「……そうか」
「ありがとう」

 再度お礼を言って、三子は修平に背を向けた。
 分かってないと思われただろうか。でも、今の私には――私がこうしたいと思ったのは確かだった。
 いつか、ニハやイチが豹変してしまうその時まで。

「…………」

 でも、彼らなら大丈夫じゃないだろうか。
 三子は懲りずにそう思った。
 修平の言葉をもってしても、あの二人が豹変する姿など、想像もつかなかったのだ。
 もし豹変したとしても、それはきっと、あの二人の真意じゃない。
 三子は、そう思い至ったことで、少しだけ自信を持つことができた。あの少年の言葉は、ちゃんと聞き入れる。聞き入れた上で、自分の目で確かめていくのだ。
 三子はそう結論を下すと、先ほどとは打って変わって足取りの軽い様子で、階段を上って行った。


*****


 つい数時間前倒れた身としては、途方もなく長い階段はなかなか体に応えた。しかし何とか上り終えると、三子はキョロキョロ辺りを見渡した。
 この辺りにはいるのだろう。だが、どうしても三子はニハが家の中にいるとは思えなかった。ちょっとした直感だった。
 幽霊が見えるようになった日から、怖くて近寄りもしなかった神社の裏手に、三子は向かった。

「ニハー?」

 彼女の名を呼びながら、三子はどんどん歩いた。家の中には祖母がいるのだろうから、音量は少々落としている。授業があるはずなのに、どうしてここに、と聞かれたくはなかったからだ。
 ニハは、体育座りをしながら顔を伏せていた。彼女の前には、あの石があった。うっと思わず尻込みしてしまいそうになるのを堪え、三子は彼女に近寄った。ニハの近くにはイチもいたが、三子が来たことに気付くと、少し眉を上げ、静かにどこかへ飛んで行った。

『……さんこ……』
「……ん?」

 寂しそうな声に、三子は優しく応える。

『ごめん』
「…………」
『本当に……ごめん』

 三子はニハの隣に腰を下ろした。おろしたてのスカートが汚れてしまう、なんてことは頭に無かった。

『もう少しであたし……あんたを』
「気にしなくてもいいよ」

 隣からの反応はない。三子はさらに続けた。

「私もちょっとびっくりしたけど。でもおかげで新鮮な体験もできたし。空を飛べたんだよ、私。まだ生きてるのに、すごくない?」

 ニハが黙ったままだ。少し不謹慎だったか、と三子が後悔すると、隣から控えめな笑い声が漏れた。

『あんた……本当、お気楽ね』
「ニハに言われたくないよ」

 唇を尖らせて三子は言い返す。ニハ以上に能天気な人――幽霊は、なかなかいないだろう。

「一緒にいると似てくるってよく言うもんね」

 適当に言い返すと、ニハは再び黙り込んだ。

『……そうね』

 ようやく返したその声には、何か感慨深げなものが含まれていた。三子はさして深く考えることなく、お尻を叩きながら立ち上がった。

「さ、もう帰ろう? イチも心配してるだろうし――あ」

 しかしすぐに三子は座りなおした。隣からの不思議そうな視線に、彼女はポリポリと頬を掻いた。

「――今、多分お婆ちゃん家にいる。だからもう少し……ここにいようかなって。学校が終わる時間まで」
『……治らないわね、その癖』
「必要な時に心配してもらうのと、無駄な心配は違うよ」
『無駄……ねえ』

 ニハはなおも何か言いたげだったが、それ以上何か言うことはなかった。
 三子とニハの丁度真上では、イチが安心したようにホッと息をついていた。