10:あなたのためを
三子が目を覚ました時、天井の様子は、いつもと違っていた。
校庭から見える青空ではないし、保健室の天井ではなく、三子の部屋の天井でもない。
「病……院?」
三子が考える病院とは、天井から部屋の椅子まで、いろいろなものが白い所だ。しかしここは、木製の個人病院のようなところで、白いものと言えば、ベッドのシーツとカーテンくらいだ。そのため、三子の理解が及ぶまでしばしの時間を要した。
確か、私が気を失ったのは校庭だったはずだ。保健室ならまだしも、どうして病院に?
「三子!」
木製の扉から入って来たのは理恵子だった。三子はますます目を丸くする。
「お母さん……?」
「三子、良かった……」
今にも泣きそうな表情で、理恵子は固く三子の手を握った。彼女の手は震えていた。
「本当に良かった……三子がいなくなったら、もう私――」
「ご……」
咄嗟に謝罪が口をついて出そうになって、すんでの所で三子は踏みとどまった。
釣られて謝るなんて、母に対して失礼だと思った。ゆっくりと、自分が心底心配させたことを肝に銘じ、心を落ち着ける。
「三子……」
「心配かけてごめんなさい、本当に」
三子は視線を下げる。心配はかけたくないと常々思っていたが、最悪な形でバレることになってしまったようだ。
「でも……大丈夫。最近、あまり寝られてなかっただけだから」
「でも……先生から聞いたわ。突然何か叫びながら走り出したって」
「うっ……」
そんなことまで報告がいっているのか。
「あ……っと、その、急に目の前に虫が飛んできて、びっくりしただけだから。私、昔から体力もないから、疲れて倒れちゃって」
「そう……」
三子の必死の言い訳に、それでも母は浮かない顔だ。
「あんまり、無理しないでね。何かあったら、すぐに私やお婆ちゃんに相談して」
「うん」
「喉、渇いてない? お茶買ってきたんだけど」
「うん……。じゃあ少し貰う」
蓋の開いた状態でペットボトルを渡された。三子は有り難くお茶を喉に流し込んだ。
「……ここで暮らそうって決めた時、ね。私、自分のことしか考えてなかったわ」
「……?」
理恵子が徐に口を開いた。
「都会の何もかもが嫌になって……この、穏やかな空気を吸いたいなって思って、ここへ来たの。母子二人の暮らしで、いつまでもあそこにいるわけにもいかないってことも、もちろんあったんだけど」
母は顔を俯かせ、手の中のキャップを見つめた。
「ごめんね……。三子にも、たくさん苦労をかけちゃって。学校にもお友達がいたのに、何もかも手放させることになっちゃって」
「あ……! ううん、そんなことない!」
三子は慌てて首を振った。引っ越しが苦痛に思ったことはない。むしろ、新天地で新しくやり直せることが、三子にとってどれだけ嬉しかったことか。事実、三子は現在に至るまで、後悔は全くなかった。
「そう言ってもらえると嬉しいけど……。でも、ここの利点ばかりじゃなくって、欠点も見るべきだったわ。ここは確かにのんびりとしていて良い所だけど、大きな病院もないし、いざという時に警察や救急車も到着が遅れるかもしれない」
「…………」
「あなたのためを思ったら、ここへ来るべきでは――」
「お母さん」
まだまだ続きそうな母の後悔を、三子は思い切って遮った。
「私、ここに来てよかったよ。ここにきて……友達もできたの」
三子は朗らかに言った。
これも、事実だった。しかし三子は思う。この土地へ来て、自分は何度嘘をついたか、と。母に心配をかけたくないばかりに、いつの間にか、彼女との時間をおろそかにし、そして本当のことをなかなか言えなくなっていた。それでは、本末転倒ではないか。
「今が楽しいよ。お母さん、私のことは心配しないで」
「……ええ。ありがとう、三子」
しばらく躊躇っていたようだが、母はやがて、しっかりと頷いた。三子も嬉しくなって目を細めた。
『……こんなに心配してもらって、さんこは幸せね』
扉をすり抜けてニハがやってきた。向こう側で聞いていたのだろうか。三子は聞いてみたかったが、しかし母がいるので、断念した。
『でもあんたはそれを嬉しいって思うよりも、申し訳ないって思っちゃうんでしょう?』
何か、もっと他に言いたいことがあるような言い方だ。三子はニハを見つめたまま、黙り込む。
『でもその気持ち……あたし、ちょっと分かるな』
「…………」
『泣くよりも、笑っていてほしいと思うのは、独りよがりなのかしらね』
ニハは視線を落とす。
『――先に、死んだ身で』
まだ十二年しか生きていない三子には、ニハの深い思いは知ることができない。天国へ行くことができず、地上へ留まったままでいれば、何か――三子には想像もつかないような思いも生じてしまうのだろう。
三子が黙って見つめたままでいると、ニハは急に首を振った。気分転換のつもりらしい。
『さんこ、後でイチのフォローに行ってくれる? あの子、昨日のあたしみたいに落ち込んでるみたいでさ。あたしみたいな能天気なやつよりも、さんこの方が落ち着くと思うのよね。よろしくね』
戸惑いながらも、三子はしっかりと頷いた。それを確認すると、ニハは寂しく笑って扉の外へスーッと消えていった。三子はそれをしばらく眺めていたが、やがてハッとすると理恵子と向き直った。
「お母さん、私もう大丈夫だから、家に帰ろう」
「え……? でも念のためにもう少しここにいた方が……」
丁度母は三子の持ち物を整理していたところだったが、三子の申し出に、眉根を寄せた。
「お婆ちゃんにも心配かけちゃうし。もう大丈夫だから」
「……そう、分かったわ。じゃあ帰りましょう」
三子のきっぱりとした物言いに、理恵子はそれ以上の説得を諦めた。三子の鞄を手に持つと、三子と一緒に病室を出る。
「私、先生に挨拶してくるから先に出ていてくれる?」
「はーい」
母に示された方へ行き、三子は病院の入り口へ向かった。カウンターには優しそうな女性が座っており、書類を見比べていた。三子に目を止めるとにっこり笑った。
「矢代さん、お大事に」
「ありがとうございました」
軽く頭を下げ、三子が玄関近くでウロウロしていると、母がやってきた。そのまま受付で会計を済ませ、二人一緒に病院を出る。
「どうする? お昼ご飯食べてないからお腹空いたでしょう?」
「うん……」
母に優しく聞かれたが、三子は浮かない顔だった。お腹よりも、イチのことが心配だった。
「あんまり食欲ないから、もう少し後で食べようかな」
「……三子、本当に大丈夫? 疲れてるんじゃないの?」
「ううん、本当に大丈夫。ちょっとお昼寝してくるね」
「……分かったわ」
渋々母は頷いた。祖母の部屋へ行く彼女を見送って、三子はこっそり家を出た。自分の勘を信じて、神社の裏手に行く。
「イチもここにいたんだ」
見慣れた後ろ姿に、三子は笑みを見せた。イチの背は、三子の声にピクリと反応した。
イチは、あの石に前に蹲っていた。まるで、昨日のニハのようだ。ここは二人にとって、落ちつく何かがあるのだろうか。
「イチー? 聞いてる?」
わざと明るい口調で三子はイチを覗き込む。まるで拗ねているように、イチは腕の中に自分の顔を隠した。
『情けねー』
「え?」
『俺、自分が情けねえ』
「…………」
何と声をかけていいか分からず、三子はそのまま彼の隣に腰を下ろした。
『昨日のことで、さんこが危険な目にあったこと、俺よく知ってんのに。……俺、馬鹿だなあ……』
「……そうかなあ」
確かに、昨日今日と三子は怖い目に合った。だが、それだけだ。最後の最後には無事に戻ってこられたわけだし、むしろ、新鮮な体験ができたと思っていた。もともと、三子は妙なところで楽天的になることがあった。
「なんか」
思ったままを三子は呟く。
「イチって弟みたい」
『っはあああ! 俺が弟だと!?』
瞬間、イチが飛び上がって顔を上げた。その様が、三子は微笑ましく感じられた。
「うん」
『何で俺が弟なんだよ! そこはお兄ちゃんだろうが!』
「だって、見た目的にも丁度同じくらいだし」
『死んでるんだから見た目が成長しないのは仕方がないだろ!』
「……?」
見た目もそうだが、三子としては、性格も含めて弟みたい、という意味だった。しかしそれを言葉にするのは何だか難しく感じられ、三子は曖昧に微笑むだけにとどめた。
『はあ……』
そんな三子の様子に、イチはがっくり肩を落とした。
「元気出た?」
『なんかもう呆れやら驚きやらでもうすっかり元気だよ……。いや、元気っていうか……はあ』
前以上に落ち込んでいるようだ。その内容は、さっきまでのものとかけ離れているのだが。
『あ、イチー』
表まで出ると、ニハが出迎えてくれた。
『元気出た?』
『……さんこと同じことを聞くなよ』
そう返すイチは照れくさそうだ。
「ねえ、どうして二人とも、いつもあそこへ行くの?」
三子が指さすのは、神社の裏手だ。
『何だろうな……』
『よく分からないわ』
二人は顔を見合わせ、首をかしげた。
『自分がいったことのない場所だと、行こうとは思わないし』
『でもあそこへ行くと……なんか落ち着くっていうか』
「じゃあ、二人の家出場所はあそこなんだね!」
また二人がいなくなるようなことがあれば、三子はあそこを探そうと、思わず笑顔になって言った。イチたちは当然顔をしかめる。
『嫌な言い方だな……』
『あたしは家出なんてしないわよ。そんな歳でもないし』
『俺だって!』
程度の低い言い争いをする二人を見て、三子は思わず笑い声を立ててしまった。彼女は丁度その時玄関を忍び足で歩いている所だったので、何事か、と顔を出した母に見つかり、外出していたことがバレてしまった。
三子はその後、母にこってり絞られた。