11:肩が凝ったなって


 例によって、三子は今日も憂鬱だった。
 いい加減憂鬱でない登校と、意識のある下校をしたいものだが、なかなかその簡単なことができない三子である。そんな彼女は、つい昨日、体育の授業の最中、突然奇声を上げて走り回った挙句、気絶して早退してしまったばかりだ。教室の扉を開けるのも憂鬱になるというもの。

『今日はどっちの扉から入るのー』

 隣でニハが意地悪に尋ねる。

『逃げるのか、戦うのか』

 イチも真剣だ。三子はさらに委縮した。

「そ……そんな言い方されたら、開けにくい――」
「入らないなら退いてくれ」

 ハッとして三子は声がした方を見やる。眉根を寄せた修平だった。仰天して三子は飛びのく。

「ごっ、ごめん」
「調子は良さそうだな。昨日の今日だが」
「あ……うん。病院に行ったんだけど、何ともないって。そりゃそうだよね」
「普通の人が身体を乗っ取られたら、一日寝込むなんて程度じゃ済まされないこともある。よっぽどお前たちの相性がいいんだな」
「……そうなのかなあ」

 三子はぼんやりとニハとイチをこっそり見る。何だか、彼らの表情が満更でもなさそうに見えて三子は変な気分だ。
 会話が途切れると、修平はさっさと教室に入って行った。三子も慌てて後を追う。一人で入るよりは、誰かの後に影を薄くして入った方が目立たないのでは、と思ったためだ。といっても、教室の前の扉を選択した時点で、少なからず誰かの注意を引くことは確実だったのだが。
 三子の方へと、由香里が寄ってくるのが視界に移った。三子は自然、身体を固くする。

「おはよう、三子ちゃん」
「――っ、お、おはよう!」

 自然に笑えていただろうか。
 どもってしまったが、目の前の少女の表情に変化はなかった。三子は少しだけホッとする。

「昨日は大丈夫だった? あの後病院に運ばれたんだよね?」
「う……うん。でも特に何ともないって」
「そっか。良かったね。でも、昨日は突然どうしたの?」
「うっ」

 そう聞かれるだろうことは分かっていた。三子も家できちんと言い訳の練習もしていた。が、直接聞かれるというのはやはり緊張の度合いが違った。ゆっくりと頭の中で言うことを整理してから三子は口を開いた。

「昨日……目の前に突然ハチが飛んできてね。結構大きかったから、びっくりしちゃって。私、昔ハチに刺されたことがあったから、余計怖くて」
「そうなんだ。大丈夫だった?」
「気絶したからあんまり覚えてないけど、でも刺された跡はなさそうだから、大丈夫だろうって」

 我ながら一分の隙も無い言い訳だ。
 三子の視界の隅に、何を言ってるんだお前は、と言いたげな表情の修平が映ったが、彼女は素知らぬふりをした。

「でも、転校してから三子ちゃん、全然落ち着いた学校生活送れてないんじゃない?」
「うん……そうかも」

 それは常々三子も思っていたことだ。苦笑いしか返せなかった。
 そもそも、幽霊が見えるという時点でもう落ち着いていない。彼らと出会ってから、三子はただの一度も平穏な生活を送ったことが無かった。

「そう言えば、今日は林間学校の班決めをするんだって」
「林間学校?」

 三子はその楽しそうな響きに顔を紅潮させた。由香里もそんな彼女に、顔を綻ばせた。

「うん。来週ね、この学校の裏の山に林間学校に行くんだよ。毎年恒例なの。小学校の時は遠足だったんだけど、中学生になってグレードアップしたみたい」
「お泊り……するの?」
「うん。自分たちでカレーも作るんだって。テントで寝たりとか」
「へえ……楽しそう」

 三子の口角は自然に上がっていく。
 三子は、今の今まで、自然に触れる機会はほとんどなかった。母は仕事で忙しく、旅行へ行く機会など無かったし、祖母も三子たちの家に一方通行で寄るばかりで、ここへ来たこともなかった。
 その後も、三子たちが楽しく歓談に耽っていると、チャイムが鳴った。にこやかに頷いたのち、美津子と由香里は別れた。三子は満足げな様子で席に着く。

『良かったな』
『ほーんと。一時はどうなることかと思ったけど。あの子、良い子みたい』

 三子は何度も頭を上下に動かした。早退明けに、すぐに話しかけてくれたのはものすごく有り難かった。三子も不安だった分、由香里の朗らかな挨拶でどれだけ救われただろうか。

「じゃあ昨日も言ったとおり、この時間は一週間後に迫った林間学校の班決めをします。男女混合の五人グループね。人数は多少前後していいけど、だいたい四つに分かれてね」

 小西の声を皮切りに、生徒たちは一斉に立ち上がった。三子も後れを取るまいと立ち上がる。

「三子ちゃーん。一緒に組もー」

 パタパタと手を振ってやってきたのは由香里だ。三子の表情はパーッと明るくなる。勇気を出して自分から行こうと思っていたのだか、まさか向こうから来てくれるとは。

「三子ちゃん、こちら友達の美樹ちゃん」
「よろしくー」

 由香里は、背の高い女の子を連れて来ていた。三子は慌てて頭を下げる。

「矢代三子です。よろしくお願いします」
「あたしも三子ちゃんって呼んでいい? 固いの苦手で」
「もちろん……!」

 何となく場が和む。美樹は、サバサバしたような印象を受けたが、どちからというとおどおどした自分の態度を気にする様子もなく、上手くやっていけそうだと三子はホッと息をついた。

「後は……男子が二人か三人くらいだね」
「誰と組む?」

 二人の声に、三子はキョロキョロと見回した。そうしてようやく、三子は未だクラスメイトの半分も顔と名前を知らないことに気付いた。まだ一週間と経っていないせいもあるのだろうが、これはゆゆしき事態だ。せめて顔だけでも覚えようと、難しい表情で三子がクラスを見渡していた時。

「矢代」

 三子に声がかかった。彼女に気安く声をかけてくれるのは一人しか知らない。しかしその一人も、よっぽどのことが無い限り声をかけてこないように見えたのだが。

「俺と組もう」

 三子はポカンと口を開けた。振り返った先には、想像通り修平が立っていた。しばし彼女の頭は混乱する。それは由香里達も一緒のようだった。

「どうしたの、仁科君。三子ちゃんと組みたいって」
「……まあ。何か問題でもあるのか?」
「いや……ないけどさ」

 由香里も美樹も戸惑ったような表情だ。

「じゃああと一人か二人の男子、どうする?」
「ああ、馬場でいいんじゃないか」

 そう言って適当に修平が指さすのは、短く髪を刈った少年だ。由香里達の了承を確認する間もなく、修平は半ば無理矢理彼を引っ張ってきた。

「余ってそうだし」
「なんだその言い草は! 俺は余ってたんじゃない、どのグループに入ろうかじっくり見定めてただけだ!」
「あーはいはい。じゃあ俺たちのグループでいいんじゃないか」
「う……まあ、どうしてもって言うのなら、入ってやらんこともない」
「…………」

 そっぽ向いてそう言い放つ少年の腕を、美樹はグイッと引っ張った。

「三子ちゃん、こっちは馬場健介。一応あたしの幼馴染」
「……どうも」

 不貞腐れたように健介は顔を背ける。仲がいいのか悪いのか、美樹はそんな彼の頭を小突いた。

「なーにー、その言い方。健介、まさか三子ちゃんの転校初日のこと忘れた訳じゃないわよね?」
「う」
「何かあったっけ?」

 突然あたふたとしだした健介を見て、三子は不思議そうに呟いた。転校初日、と言われて思い出すのは、修平に呼びだされてひと騒動あり、そのまま倒れてしまった事だけだ。

「ほら、三子ちゃんの自己紹介の時、ひどいこと言った奴がいるじゃない? それ、健介だから」
「あ……」

 そう言われてようやく三子も合点がいく。確かに、三子が自己紹介をしたと同時に、うんこなどと発言した男子がいた。

「…………」

 気まずげに俯いている健介を見て、三子は朗らかに笑った。

「別にもう気にしてないからいいよ。昔から変な名前ってからかわれてたし」
「そうなの?」
「うん。だからもう慣れてる。気にしないで」
「……悪い」
「うん」

 再び三子が大きく頷くと、気遣わしげに見守っていた他のメンバーも、どこかホッと息をついた。

「三子ちゃんに感謝しないとね」

 嬉しそうに美樹はパシッと健介の肩を叩き、彼は彼で、照れくさそうに眉を寄せる。その様を見つめながら、三子は何とも癖のあるグループになりそうだと思った。

「みんなー、どう? いい感じに分かれた?」

 丁度その時、小西の声がかかった。三子たちのグループは現在五名。見たところ、どのグループも多少人数は前後しているようだが、綺麗に分かれることができたようだ。
 転校早々のグループ分けに、三子はいつの間にか緊張していたようで、ほうっと長いため息をついた。
 何だか、肩の荷がすっかり下りた気分だった。来週が林間学校なので、準備も当日もいろあるのだろうが、ひとまず三子は楽しい気分だった。

「じゃあ授業に入るわよ。みんな、席についてー」

 ガヤガヤと互いに話をしながら各々席に戻っていく。三子もそのまま戻ろうとした時、肩に手を置かれた。

「矢代、いろいろ引き連れんのも程ほどにしておけよ」
「……?」

 三子は訝しげに修平を見やる。どういうこと、と三子が聞き返す間もなく、彼はすぐに席に着いた。三子も慌てて自分の席に戻る。

「さっきの……何だったんだろう」

 あまりにも気になって、三子はぼそっと呟いた。自身の机にニハが座っていたことも影響していた。

『――っ』

 ニハの肩が微かに揺れた。彼女の背が三子のすぐ目の前に会ったので、三子がそれを見逃すことはなかった。

「ニハ……?」
『えっ、あっ、何の話だっけ? 何か言った?』

 いつものように明るく受け答えするニハからは、何の情報も受け取れなかった。ただ、いつもとどこか違うような。そんな違和感を三子は抱えた。
 ふと気になって三子が辺りを見渡してみれば、イチがいないことにも気が付いた。どこへ行ったのだろう。全く気が付かなかった。

「……何でもない」

 小さく答えると、三子は教科書を出して前を向いた。数学教師である小西は、普段は朗らかな女性なのだが、授業中はとことん厳しいということを、最近身をもって知ったためだった。


*****


 三子はその後、何事もなく学校生活を終えることができた。初のちゃんとした下校である。その感動に三子が身を震わせる間もなく、なんと、由香里と美樹が、買い物に行こうと誘ってくれた。一週間後の林間学校に向けて、おやつを買いに行こうとのことだった。
 三子はもちろんこれを快諾。何かあった時のためと、お小遣いが入った財布を持ち歩いていたことに、三子は心から喜んだ。

 おやつや食べ物が揃っているスーパーは、学校からは数十分ほど離れていたが、その間友人達と歓談に耽ることができたので結果オーライだ。
 スーパーの近くに家があるらしい由香里、美樹とは、学校へ続く十字路で分かれた。またもや長い道のりを、今度は一人で歩くことになるのだが、三子の足取りは軽かった。一人といっても、傍にはニハやイチがいるし、何より腕には来週のためのお菓子が入っている。胸が躍るのも無理はない。

「ねえニハー。……あれ、イチ、ニハは?」

 キョロキョロ辺りを見渡してみても、三子の目の届く範囲にニハはいなかった。イチは目を逸らしながら答える。

「さあ……どこ行ったんだろうな。散歩でも行ってんじゃないか?」
「散歩……」

 何となく不思議な気分だ。
 ふよふよと飛んで行けるのなら、きっとどこへでも行けるのだろう。

『あれ、さんこ、買い物もう終わったの?』

 そんなことを考えている間に、ニハが後ろからやってきた。三子は少し辺りを窺って、誰もいないことを確認すると、にっこり笑った。

「うん。たくさん買ったよ」
『そんなに食べると虫歯になるわよー。あんた、いつも歯磨き嫌だってぐずるんだから』
「一体何歳の頃の話をしてるの……。私はもうそんな歳じゃないよ」
『さあ、どうだかねー』

 ニシシッとニハは笑うと、三子の目の前を嬉しそうに上下に飛んだ。どこへ行っていたの、と聞きたいような気もしたが、タイミングを逃してしまったので、三子はそのまま黙り込んだ。そして少し身体を前かがみにすると、肩に手を置いた。ニハの激しい動きを見たせいで、少し肩が凝ったような気がした。

『さんこ、どうしたんだ?』

 そんな三子に、イチが心配そうに飛んできた。三子は思わず笑う。大したことではないのに、時々ニハやイチは、ものすごく心配そうな顔をする。

「ん……何か、肩が凝ったなって」

 正確に言えば、何となく肩が重かった。身体も怠いような気がする。昨日の影響だろうか、と薄ら三子は思ったが、イチがいたため、口にはしなかった。

『さんこ……』

 イチの不安げな声に、三子は首をかしげた。イチは何か続けようとしたようだったが、隣のニハに小突かれ、ハッとしたように苦笑した。

『あ……やっぱ何でもない』
「え?」
『あー、いやー、なんか腹減ったなー』

 適当に放った言葉は、ニハによって一蹴された。

『幽霊がお腹空くわけないでしょ。何言ってんのよ』
『あっ、や、そうだったな。いやー、今日もいい天気だなあ』
「どちからというと、雨模様だけど……」

 今度は三子が躊躇いがちに突っ込む。

『あっ……あ、そうだな、あはは、本当に今にも雨降りそうー』
『来週は晴れるといいわねえ。折角の林間学校なんだもの』

 イチの空笑いと、ニハの神妙な声が妙にシンクロして、三子は思わず吹き出してしまった。