79:おかえり


 三子達は、正面玄関から再び病院内へ入った。
 三十分ほど外にいたので、身体は随分冷え切っていたが、中に入ると、じんわりとした温かさが身に染みた。
 三子はそのまま祖母と共に病室へ向かおうとして、ある者に目が向いた。そしてその場に立ち止まって、しばし熟考した後、渋々祖母に声をかけた。

「お婆ちゃん、先に行っててくれる? 私、トイレに行ってくる」

 そうして祖母を見送った後、三子が向かったのは、エントランスの長椅子の端で頭を抱えている男性の元だ。――彼が醸し出す哀愁に、三子は見て見ぬふりなどできなかったのだ。

「お父さん」

 仕方なしに三子が声をかければ、ズーンとみるからに項垂れていた父――慶史は、ハッとして顔を上げた。

「三子?」
「うん。こんなところでどうしたの?」
「い、いや……」

 そう言ってあからさまに目をそらす慶史。大方、ニハ達の様子を見に行きたいが、母や祖母に遠慮して行けずにいるのだろうと三子は当たりをつけた。そのまま彼を放ってはおけないので、三子は父の隣に腰を下ろした。

「腕は大丈夫?」
「ん? ああ。多少日常生活は不便だが、一ヶ月ほどで治るって」
「良かったね」
「そうだな」

 ぼうっとした口調で慶史は頷いた。そしてやがて、彼は本題に入る。

「その、二葉と一也の様子は」
「相変わらずかな」
「――そうか」

 詳しく聞きたそうな顔をする慶史だが、三子もそれ以上言いようがないのだ。
 目は覚まさないし、手足も動かない。報告すべきことが、何もない。

「理恵子は?」
「あんまり元気ないかな。ずっと病室にいる。ご飯もあまり食べてくれなくて」
「食欲がないのか?」
「そうみたい」

 慶史はわずかに嘆息した。そのため息には、様々な思いが込められている。

「今日でもう一週間か……」

 そうして、ぼんやりした眼差しでそう呟いた。

「今でも、信じられないんだ」
「何が?」
「二葉と一也がこの世にいること。どうしても、欲を持ってしまう。もしかしたらって欲を」
「何言ってるの……?」

 三子は信じられない思いで目を見開いた。
 多くは語らない慶史。だが、彼の言葉の先は、容易に想像がついた。
 思わず三子は父を見る。

「欲って……ずっとそう思ってたの? ニハとイチの身体が無事だったことすら奇跡で、目を覚ますことなんてあり得ないって? もうこれで諦めようって?」
「い、いや……」
「私はそんな風には思わない。親として……家族として当たり前のことだよ、二人が目を覚まして欲しいって願うのは! なんで信じてあげられないの? 二人が怨霊にならずに、身体もピンピンしてて、後は目を覚ますだけじゃない。なんで最後の最後まで祈ってあげられないの?」

 祖母のおかげで浮上していた感情が、みるみる萎んでいくのを感じた。――他でもない父が、こんなことを言い出すなんて。

「す、すまん……そういうつもりじゃなかったんだ」

 慶史は慌てて首を振った。拙く言葉を連ねる。

「ただ……情けなくて。本当に」
「…………」
「もう、何も多くは望まない。二人が無事なら、本当に何もいらない。でももし……と、そう思うと、不安で堪らなくて」

 三子は黙ったまま膝の上を見つめる。
 誰しも不安なのだ。わずかな希望を胸に抱いていても、つい悪い未来を想像してしまう。

「病室に行こう」

 三子はゆっくり立ち上がった。呆気にとられて慶史は彼女を見つめた。

「三子……」
「こんなところでうじうじ悩んでたって仕方がない。二人の顔を見た方が悩みも吹き飛ぶでしょ」
「そ、そうか?」

 むしろ、一層思い悩んでしまいそうな気が。
 そう思った慶史だが、三子はそんなことなど見透かしたように小さく微笑んだ。

「私は吹き飛ぶよ。二人が目を覚ましたら、どんなことしようって楽しみにしてる。――そうでもしないと、やってられないから」

 三子達は、ゆっくりと病室に向かった。慶史も一応ついてきてはいるが、後ろめたいのか、三子よりも半歩ほど後ろを歩いていた。
 軽くノックをした後、三子は病室に入った。いつまでも入ってこない父を不思議に思って振り返ってみれば、彼は入り口のところで立ち尽くしていた。

「こっ、こんにちは……」
「…………」

 慶史の声に、理恵子も気がついてそちらに顔を向けた。ちょっと視線を泳がせた後、しかし結局何も言わずにまた子供達に視線を落とした。慶史はわずかながらに失望の色を瞳ににじませたが、何も言わず、ゆっくり病室の中に入ってきた。

「腕の具合はどうですか」

 いいながら、智恵が椅子を勧めた。慶史は手を振ってそれを固辞した。

「えっと、大分調子はいいです。後一月ほどで治るとか」
「腕、どうかしたの?」

 不意に理恵子が振り返った。始め、自分が声をかけられたと思わなかった慶史は、しばらくの間をおいて、慌てて背筋を伸ばした。

「その……伊礼山でヘマをしてしまって。ははは、情けな――」
「ニハを助けるために怪我をしたんだよ。崖から落ちてきたニハの身体を、お父さんが下で受け止めてくれたの」
「…………」

 聞いていられなくて、思わず口を出してしまった三子だが、何故だか病室はお通夜のような雰囲気になる。
 どうしたものか。何か明るい話題でも出した方がいいのか。
 そう焦る三子だったが、やがて一番に口を開いたのは、驚くべきことに理恵子だった。

「私――伊礼山で、二葉と一也の声を聞いた気がするの」
「えっ?」
「そのときは幻聴だろうって思ったけど、もしかしたら、すぐ側に二人がいたのかもしれない」

 すぐにあの時のことを三子は思い出した。
 入れ替わりで、ニハやイチと身体を交換したこと。入れ替わったときのことを言っているのか。三子は咄嗟に前のめりになった。

「そうだよ、幻聴じゃないよ」

 確信を持った言い方に、理恵子は顔を上げた。ようやく娘の三子と目が合う。

「あの時、すぐ側にニハとイチもいたの。いや、本当は、あの時よりもずっと前から、二人は私たちの側にいてくれた」
「どういうこと……?」
「二人は幽霊になっても、私たちのことをずっと見守ってくれてたんだよ」

 説明されてもいまいち理解が及ばず、理恵子は助けを求めるように慶史を見た。慶史は重々しく頷く。

「三子の言うとおりだ。二葉と一也は、伊礼山で魂と身体が切り離されて……ずっと、幽霊の状態で辺りを彷徨っていたらしいんだ。その後、未練である三子について回るようになった」
「じゃあ……何よ」

 理恵子の声が震える。

「見えないだけで、二葉と一也はずっと私達の側にいたの?」

 情けなさに、彼女は拳を強く握った。ずっと側にいてくれてたのに、何もできなかったなんて。それどころか、見ることもままならなかった。

「――私もね、ずっと二人のことは気づかなかったの。転機が訪れたのは、おばあちゃんちに引っ越したとき。神社の裏手に、私の力を封印した石があるでしょ。私が産まれてすぐ、あそこに力を封印したんだってお婆ちゃんに聞いたんだけど」

 三子はチラッと祖母を見た。
 ――三子に封じの力があると分かれば、二葉と一也のように、矢代家に盗られてしまう。
 そんな思考から、智恵と理恵子は、幼い三子の封じの力を神社の石に封印したのだ。

「でもね、引っ越ししたその日に、私、その石触っちゃったんだよね」

 三子は恥ずかしげにそう言い放った。まるで好奇心の塊のような自分のかつての行動に、羞恥を抑えられない。

「そうしたら、封印が解けちゃって、力が戻ったらしいの。ついでに、なぜかニハとイチも見えるようになったの」

 強い縁で繋がっていれば、やがては霊感のないものも見えるようになる――。
 それは、かつて祖母から聞いた事実だ。

「本当に? 本当に、二葉と一也が見えたの?」
「うん。話すこともできた。でも、二人が私のお姉ちゃんとお兄ちゃんだってことは、全然知らなかった。私の記憶がないことを二人も知ってたから、私のこと気遣ってくれたんだと思う」

 嫌なことを思い出させないために、混乱させないために。

「だからさ、私、最初は二人のことうるさい幽霊だなとしか思ってなかった。だって実際うるさいんだもん。私のこといつまでも子供扱いするし、すぐからかってくるし、ずっと側で話しかけてくるし」

 授業もままならなかった、と三子はため息をつく。しかし、その様は端から見れば、嬉しそうなことこの上なかった。

「でもね、二人はいつも私のこと励ましてくれたし、慰めてくれたし、守ってくれた。危険なんかものともせずに、いつも私の所に駆けつけてくれるの。私――私ね」

 少しだけ言葉が詰まった。けれどもすぐに三子は気を取り直す。

「小学校の頃、ちょっといじめられてたの」

 息をのむ音が聞こえたが、構わずに三子は続けた。

「そんなに大したものじゃなかったけど、ものを隠されたり、無視されたり。私、ちょっととろい所があったから、そのせいかも」

 いじめの発端は三子の名前だったかもしれないが、いじめがその後も続いたのは、自分の性格のせいもあったのかも知れない。

「ど、どうして言ってくれなかったの」
「心配、かけたくなかったから。それに、その時はこれがいじめだなんて分からなかったから」

 どうしてみんなが冷たいのか、全く理由も分からなかった。自分が悪いんだと何度自分を責めたことか。

「お母さん達の前では普通にしてたけど、私、本当は暗くておどおどしてばかりだったの。自分に自信がなかったし。引っ越しするからって、新しい学校でもうまくやっていける自信なんかなかった。不安で仕方がなかった」

 あの時のことを思うと、今でも震えが止まらない。

「でも、ニハとイチが見えるようになって、生活が一変したの。友達もできたし、自分に自信が持てるようになったし、何より毎日が楽しいの。全部ニハとイチのおかげ」

 二人には、感謝しかない。笑顔でありがとうと言いたい。
 ――でも、その思いと裏腹に、涙が頬を伝うのはなぜだろう。
 意図せず嗚咽が漏れ出してくる。
 ――まだお礼だって言えてないのに。ずっと二人から愛情をもらうばかりで、私は何も返せていないのに。
 ――私だって、二人のことが大好きなのに。

「あーもー、誰かさんの泣き声がうるさくっておちおち寝てもいられないな」
「本当よね。あと三日くらいは寝ていたい気分だったのに」

 時が止まった。
 かすれた声だった。だが、その声は紛れもない――。

「情けねえなあ。俺たちが正気に戻るのは、いつもその誰かさんのおかげだし」
「本当に。何の因果かしらね」

 智恵が椅子から立ち上がった。乱暴に立ったのだろう、その衝撃で、椅子は後ろに倒れ、ガシャンとこの場にそぐわない物音が響く。

「お母さん」
「お父さん」
「お婆ちゃん」

 一人一人、順々に呼んでいく。その声と共に、ゆっくり視線を合わせれば、見る間に彼らの唇はわなわなと震えた。

「二葉っ……一也!」

 理恵子が一層二人の手を握る力を強めた。さすがに病み上がりでは痛いのか、二人とも引きつった笑みを浮かべるが、その様すら愛おしい。

「心配かけてごめんね」

 悪戯っぽく笑う二葉の顔が眩しい。

「そんなに強く握らなくて大丈夫だって」

 困ったように笑う一也の顔が懐かしい――。
 むせび泣く理恵子の声が病室中に響き渡った。それを聞いていると、三子は自分の胸まで張り裂けそうだった。
 一時も目を離すものかと理恵子は二人から目を離さず、智恵は両手で顔を押さえ、慶史は泣き声を押し殺し。
 三子は、一歩二歩とベッドに近づいた。そして二つのベッドの間から、二人の手を握った。

「ニハ、イチ……おかえり」

 ずっとずっと、そう声をかけたかったのだ。
 きっと二人は目を覚ます。
 そう願ってやまなかったから。

「ただいま、さんこ」

 しっかりとした声、柔らかい手、伝わるぬくもり。
 その全てが、彼らが今ここにいるという何よりの証拠だった。それをこの身で体感できることが、何よりも嬉しくて、涙が溢れた。