78:胸を張りなさい
「売店でお昼ご飯買ってくるね」
小さく母にそう言った後、三子は立ち上がった。
理恵子は三子の声など聞こえた様子もなく、二つのベッドの間の椅子に座り、子供達の手をギュッと握るのみだ。
三子は心配そうに眉を下げるが、何か言ったところで、今の彼女の耳には入らないと、やがて病室から出て行った。
伊礼山での出来事から、一週間が経った。
ニハとイチは、病院で入院することになったが、未だ目を覚まさない。医学の観点から言うと、植物状態らしい。そして霊能関係から言うと、魂と身体の融合ができていないのだと。長期間魂と身体が乖離していたため、本来の持ち主であるにもかかわらず、うまく適合できないのだ。
三子と理恵子、智恵の三人は、病院近くのホテルに泊まり、ニハとイチの回復を毎日見守っていた。慶史や茂隆は伊礼山の後処理に忙しく、あまり病院には姿を見せない。――しかし、今はそれで良かったのかも知れない。
――もう今は何も聞きたくないの。
――せめて待って、この子達が目覚めるまで。
三子との約束を守って、慶史は伊礼山から帰ってきた次の日に、理恵子に全てを話そうと病院に現れた。しかし、返ってきたのは精一杯な短い返答。結局、話し合いすらできずに今日まで来ていたのだ。
母の気持ちは、三子も分からないではなかった。長い間死んだと思っていた子供が、突然戻ってきた。たとえ植物状態だとは言え、目の前に元気な身体で横たわっているのだ。――まるで、今にも目を覚まして動きだそうで。
でも、そんな確信はない。たとえ身体に異常がなくとも、もしかして永遠に意識を失ったままかも知れないのだ。後悔や懺悔、謝罪。過去のことを受け入れるよりも、今は子供達の無事を祈りたい。それは、母親として当たり前の思いだった。
病院内に併設されている売店は、こぢんまりとはしているが、品揃えは悪くない。自分と母のために、何を買っていこうと三子がお弁当の一角で迷っていると、肩をポンポンと叩かれた。
「三子さん、今からお昼ですか?」
「お婆ちゃん」
柔らかに笑み、三子の祖母――智恵は立っていた。しゃっきりと立っているようには見えるものの、なんだか疲れているように見えて、三子は声のトーンを落とした。
「大丈夫? 向こう、忙しかったの?」
「いえ、それほどでもありません。私ができることは限られていますし、仕事自体は大変なものではなかったんです」
嘆息しながら、智恵はやがて一つのお弁当を手に取った。三子も、それに合わせて自分と母のとを両手に持つ。
「お菓子は大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫」
お弁当とお茶三つを買うと、三子達は売店を出た。そのまま病室へと三子は足を向けたが、そんな彼女を智恵が引き留めた。
「外で食べませんか。少し肌寒いですが、太陽も出ていていい天気なんです」
「うん、いいね。外で食べよう!」
いつも薬品の臭いのする病室で食事をするというのは、正直なところ、飽き飽きしていたところだ。三子は喜んで外へ出て、智恵と共に病院の敷地内にあるベンチに腰掛けた。
「様子はどうですか」
「……うん、相変わらず」
「理恵子も?」
「そうだね。あんまり食べ物も口にしてくれない」
「そうですか……」
植物状態のニハとイチに変化はなく、また、それを見守る理恵子も、次第に憔悴していくばかりだ。せめてしっかりとご飯を食べてくれればと思うのだが、食欲がないのか、いつも残してばかりだ。
「コンビニ弁当ばかりで飽きたでしょう。夜は外食しましょうか」
「うーん……今日はいいや。ありがとう」
きっと、誘っても母は来てくれないだろうと思ったので、三子は首を振った。外食という提案は非常に魅力的に思えたが、しかし今の母を一人にするのは、どうにも心配だった。
「私にできること、ないのかな」
力なくそう呟くくらいには、三子は自分の非力さを身に染みて実感していた。
いつも助けてくれたニハとイチのために、自分は何もできないなんて、そんなの、役立たずすぎる。
思わず力を込めて箸を握る三子だが、そんな彼女を見かねて、智恵は一旦箸を置いた。
「あなたも今回経験したかも知れませんが……縁に触れると、その人の記憶が流れ込んでくるでしょう」
「あ……うん!」
過去に二度ほど経験したことがあるので、三子は勢い込んで頷いた。
「私も、数日前二葉達の縁に触れたんです。ほら、三子さんが理恵子と一緒に売店に行ったときに」
「あ……」
そういえば、と三子は思い出した。いつもいつも病室にこもりっきりじゃ身体に悪いから、と半ば三子が理恵子を強引に連れ出したときがあったのだ。そのとき、智恵がニハ達の付き添いに名乗りを上げたのだ。
「もしかしたら、二葉達の魂と、身体を繋げることができるんじゃないかと試してみるつもりでした。でも結果は芳しくなく……。何度試してみても、縁は私の手では繋がってくれないんです。きっと、本人達が自分の力で魂と身体とを繋げなくてはならないんでしょうね」
「そうなんだ……」
三子は嘆息して俯いた。短い間だったが、折角自分も修行をして力を身につけたというのに、一番大切な人たちに対しては、なんの効力も持たないなんて。
「でも、その際触れた縁が、とても印象的でした」
「ニハとイチの?」
「はい。いろんな記憶が流れ込んできました。幼い頃の記憶や、修行の時のこと、幽霊になった後、三子さん達がいろいろな騒動に巻き込まれてるときのことも見えました」
「あー……それは」
三子は気まずげに顔を振らした。
智恵には、三子がニハとイチの二人のことが見えるようになった経緯と共に、自分の身に起こったことをかいつまんで説明だけはしていたのだ。だが、実際にどんな事件に遭遇したかは話しておらず……まあ、話したら話したで心配されるのではと思ったのもある。
「そのことについてはまた話すとして」
からかうように口元を緩めた後、智恵は再び前を向いた。
「正直、目を見張る思いでした。子供達を失った後、私たちは悲しみに暮れるばかりだったのに、二葉達の縁から伝わってきたのは、深い愛情ばかりでした。三子さんの成長を喜ぶ感情や慈しむ感情、家族のことを心配する感情。胸が張り裂けそうでした。幽霊になっても、二葉達はこんなにも私たちのことを案じていたんだと。中でも、三子さんに対する思いは格別でしたね」
悪戯っぽく笑って智恵は三子を見た。三子は羞恥と照れに、顔を俯ける。
「三子さんがあの子達の未練だと言われて、すぐに納得しました。だからこんなにも深い愛情がにじみ出ているんだと。すごく……嬉しかったんです。――霊は、現世に留まれば留まるほど、縁が淀み、怨霊になってしまう。それは事実です。普通三年もすれば、霊がこの世の全てに絶望し、怨霊になってしまうのは仕方のないことでしょう。誰も見てくれないし、話してくれない、触れられない。それはとても辛いことです」
祖母の声に、すぐに三子はニハ達のことが浮かんだ。
「でも、あの子達は違った。六年も現世に留まっていたのに、怨霊にはならなかった。――三子さんがいてくれたからです」
「ち、違うよ……。私は何もしてないよ」
何故だか確信を持った言い方に、三子は躊躇いがちに声を押し出した。自分は何もできなかった――今も何もできないという無力さに、知らず知らず背中を丸める。
「私は、数ヶ月前まで二人のことが見えなかったし、なんの力にも――」
「三子さんが生きているだけで良かったんです」
語気と視線を強めて、智恵は三子を見た。
「あなたが勉強し、運動して、おいしいものを食べて。そんな普通のことをしているのを眺めているだけで、あの二人はすごく幸せだったんです。二人の縁に触れた途端、私は自分のことのようにそう感じました。――三子、胸を張りなさい」
背中をトンと叩かれ、三子は祖母を見た。思わず目頭が熱くなって、唇をきゅっと結ぶ。
「私は、幼い妹をその身を挺して守ってくれた二葉と一也が誇らしいです。そして同時に、幽霊になった姉と兄に、存在する希望を与えてくれた三子に感謝の気持ちしかありません」
「……うん」
「訳あって、私は理恵子一人しか子供がいませんが。……もう少し努力をして理恵子に兄弟を作ってあげられれば良かったなと、今更ながらに感じました。そうすれば、何か辛いことがあっても、あなたたち三人のように、お互いを支え合うことができるのに、と」
「うん」
「きっと大丈夫、そんな予感がするんです。あの二人が、可愛い三子を置いて逝くわけがないでしょうって」
智恵はポンポンと三子の頭に手を当てた。三子は黙ってそれを受け入れる。
不安なのはお婆ちゃんも一緒なのに。
「――病室に戻りましょうか」
「……うん」
三子は頷き、立ち上がった。
多くは語れなかった。もっといろいろ話したかったのに、言葉が詰まって何も言えない。
祖母の言葉が有り難かった。自信のなかった三子に、思いも寄らぬ勇気を与えてくれた。
私だって、お婆ちゃんに感謝してるし、大好きなのに。
三子は何も言わずに、祖母の右手を握った。彼女は驚いたように三子を見たが、やがて、穏やかに握り返した。