77:よくやった
三子は、力なくその場に崩れ落ちていた。
ニハがどうしているのか、三子には確認する勇気もなかった。
ギリッと歯を噛みしめてみても、このやり場のない憤りはどうすることもできない。
私が……私さえいなければ。そう思わずにはいられない。
「誰か! 手伝ってくれ!」
突然悠司の声が響き渡った。遠くから聞こえてくるその声は、切羽詰まっているようにも聞こえた。
「早く! 誰か!」
その声に、順々に大人達が駆け出していく。
動きたくなかった。
しかし、イチに促され、行かないわけにもいかない。まだこの近くには、幽霊が隠れているかも分からず、足手まといにしかならない三子が一人でいるわけにはいかないのだ。
騒ぎは、西尾市側の山道をしばらく降りたところで起こっていた。絶景が眺める名所と書かれている古い看板の横を通り過ぎていく。
名所には、柵とベンチが設けられていた。そしてその先の、少しせり出した手すりも何もない崖で、男性達が何やら固まっている。
「何が……」
「しっかり掴んだな!? 引き上げるぞ!」
「…………」
三子の足は、自然と速くなっていった。
信じられない、そんな、まさか――。
「お父さん!」
もどかしい思いで三子は駆け寄ったが、何人もの男性の壁に阻まれ、何がどうなっているのか、覗くことができない。
「慶史さん――」
「二葉!」
くぐもった声と、焦ったような智恵の声。
「お父さん……」
三子が近づけば、人だかりは自然に右に左にと分かれた。一様に皆が見つめる先には、四人の男性。崖に身をせり出し、何かを引き上げようとしていた。
「離すなよ、あともう少し!」
三子は縋る思いで、いつしかぎゅっと両手を握りしめていた。「なに」を引き上げているのか。それは祈りにも近い予感だった。
険しい表情で男達が引き上げたのは――他でもない、ニハだっだ。その中に魂はないのか、彼女は死んだようにぐったりしている。
「ニハ!」
思わず三子が駆け寄れば、その側に腕を押さえて崩れ落ちる父に気がついた。ニハを掴んだときに脱臼をしたのか、彼の右腕は、ぶらんと垂れ下がっていた。
『お、お父さん……』
「二葉」
彼の側に、ニハが舞い降りる。泣きそうな表情だった。
「少しは父親らしいことできただろ」
そう言って笑う父の額には、玉の汗。しかし、何よりも彼の笑顔は輝いていた。
「さ、二葉。早く中に」
『うん……うん』
ニハは、唇を噛みしめながら、己の身体に飛び込んだ。まるで吸い込まれるように彼女の魂は消え、そして心なしかニハの表情にも暖かみが戻ったようにも見える。
「ニハ」
声をかけてみても、彼女は応えない。イチはすぐに気がついたのに、ニハはどうして。
「ねえ、お父さん――」
「大丈夫、呼吸はしている」
三子の声を遮って、慶史は立ち上がった。ニハのことが心配でも、まだやらなければならないことがあるのだ。
「さっきの霊がまだ近くにいるかもしれない。用心に用心を重ねて頂上へ行こう。三子、来てくれるな?」
「うん……」
意識のないニハは、悠司に背負われた。そのまま、一行は頂上へと再び歩みを進める。
三子は彼女のことも、そして父のことも心配だったが、彼は前を見据えたまま、何も言わない。慶史は、イチのこともしっかりその視界に入れたが、唇を震わせ、頷くだけで、何も言わなかった。緊張感が漂った。
霧はすっかり晴れていた。見晴らしの良い崖を過ぎ去り、岩場を登ったところで、小さな洞穴にたどり着いた。洞穴と言うよりは、単純にいくつもの岩でできた穴だ。あなぐらはそう大きくもないので、入り口に男達を残し、慶史と三子、そして智恵だけが身をかがめて入った。穴は狭く、そして浅かった。すぐに最奥にぶち当たる。その前には、大きな石が鎮座していた。霊力のない三子でも、肌でその異様な空気は感じ取っていた。風はないはずなのに、生暖かい空気が身をかすめたような気がして、三子は身震いした。
「これが封印石ですね」
重々しい口調で智恵が切り出す。
「封印石って?」
三子は智恵に尋ねたが、彼女の代わりに慶史が答えた。
「ある霊を封じている。あまりにも長い年月封じていて、俺たちも詳しい情報は分からない」
「寿霊って霊……?」
恐る恐る三子がその名を口にすれば、慶史は唖然と三子を見下ろした。
「知っているのか?」
「ニハの身体に入ってた霊が、そんなこと言ってたから」
「寿霊か……そうか。他に何か言っていたか?」
「あんまり覚えてないけど……でも、寿霊様のために、伊礼山の霊が一致団結してるみたいだった」
「そうか……」
慶史は難しい顔で考え込んだ。だが、せっつくように智恵が彼を見る。
「早く済ませましょう。一刻も早く、二葉と一也を病院に連れて行ってあげたいんです」
「そうですね」
慶史は三子の肩に手を乗せた。
「三子、やってくれるか?」
「うん」
「私ができれば良かったんですが。でも、三子さんならできると信じていますよ」
反対側から、智恵が三子の背中に手を当てた。
「さ、三子。頼むぞ」
「はい」
カラカラに渇いた喉。三子は無理矢理唾を飲み込み、唇をなめた。浅い呼吸を繰り返し、そっと石に手を触れる。その瞬間、非常に強い感覚が三子の胸の中を駆け抜けた。様々な感情が溶け合ったそれは、理解するには時間がかかりそうだった。理解しようとすれば、飲み込まれてしまいそうで、三子は急いでそれらの侵入を遮断した。
気持ちが悪かった。まるで、何者かが己の中にズカズカと侵入しようとしているみたいに。
それらの膨大な感情を無視し、三子は必死になって縁を探した。修行とはまるで違った感覚だった。人工物の石では、これほど蠢く「何か」はなかった。だが、寿霊が封印されているこの石には、巨大なものが圧縮して存在している。
吐きそうな感覚になりながら、三子はようやく縁らしきものをみつけた。淀んだ縁は、形を変え、色を変え、おそらく元の縁とはかけ離れた姿になっていた。緩みかけている縁をガシッと掴み、力任せに引っ張る。今までの恨み辛みもこめて、二回、三回と、何度も何度も結びを上乗せする。もっと頑丈な結び方があるのかもしれないが、今の三子には、固結びという方法しかなかった。
気がついたときには、縁はすっかり先が短くなっていた。これ以上結べそうもないので、三子は目を開けた。その瞬間、乖離していた己の感覚が戻ってくる。たいしたこともしていないのに、三子は大量の汗をかいていた。
「一応できたけど……」
三子は不安げに振り返った。自信のない声になってしまうのも仕方がない。今回の目的は、寿霊を封じること――つまり、三子の肩に全てがかかっていると言っても過言ではないからだ。
「私が確認しましょう」
智恵が一歩踏み出したので、三子は慌てて身を退けた。目をつむり、彼女が石に手を当てる様を、三子は緊張した面持ちで見つめる。しばらくして、智恵はゆっくり目を開けた。
「ええ、しっかりと封印できています。よくやりましたね、三子さん」
「うん……!」
「ありがとう、三子。よくやった!」
慶史はようやく笑みを浮かべ、三子の頭を乱暴にかき回した。こんなことは今まで一度れされたことがなかったので、三子は思わず照れ笑いを浮かべる。
「でも、こんなに簡単に終わっちゃうんだね。もっとすごいことをするのかと思ってた」
「今回はまだ封印が解ける前に重ねづけすることができましたからね。封印が解けてしまえば、これほど簡単にはいきませんが」
智恵は厳しい目で石を一瞥すると、きびすを返した。
「戻りましょう、長居は無用です」
「うん」
あなぐらを出ると、すぐにようやく人心地ついた気がした。体感的には長い間穴にこもっていたような気もするが、正確にはそれほどでもないのだろう。
「お疲れ様です」
「どうでした」
人々が駆け寄ってきた。慶史は大きく頷くと、三子の背中をポンと叩いた。
「三子がやり遂げました。志藤さんにも確認して頂きましたが、きちんと封印できているそうで」
「それは良かった……!」
次々と安堵の息を漏らす仲間達。三子は、そんな中彼らに目を走らせた。
三子にとって、寿霊の封印はとても大切なことだ。己の両肩にのしかかる使命なのだから。だが、それと同じくらい、ニハとイチのことも心配だった。生身の身体は不安定なようで、むしろ幽霊であったとき以上に不安が押し寄せる。ほんの少し離れただけだか、顔を見るまでは、どうしても不安が頭をよぎった。
「イチ!」
男達の後ろで、イチが三子に向かって手を挙げていた。彼の隣には、悠司に背負われたニハもいる。
良かった、二人ともまだ――。
しかし、その安堵も束の間だった。顔の横まであげていた右手は、急に力を失ったように視界から外れ、やがてイチ自身も糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「イチ!?」
「どうかしたのか!」
ただならぬ三子の声に、一番に慶史が駆けつけた。人混みをかき分け、三子もイチのもとへ走り寄る。
男に抱えられたイチの顔は、真っ白だった。わずかに胸が上下しているので、呼吸はあるようだ。
「気を失ったのか……」
「一也!」
智恵が細い声で叫んだ。急いで彼の元に駆け寄り、その頬に手を当てるが、イチは目を覚まさない。
「一也……一体どうして」
「まだ身体に魂が順応していないのかもしれんな。ひとまず、急いで地上に降りましょうぞ」
孝雄が覗き込んでそう言う。智恵は縋るように何度も頷いた。
「ええ、ええ、そうですね。どなたか、一也を背負ってくれませんか?」
「僕が背負いますよ」
若い男性が、力強くイチを背負う。
「とにかく、急いで病院に連れて行きましょう」
「一也……」
血の気を失った顔で、智恵は肩をふるわせる。慰めにもならないだろうが、三子は祖母の背中をさすった。
「大丈夫……きっと大丈夫だよ」
まるで言い聞かせるように、三子はそう呟く。
――折角これで何もかも終わると思ったのに。
三子は、焦る思いでニハとイチの背中を見つめた。