76:それで充分
薄い霧の中、イチはしっかりと地に自分の足をつけ、立っていた。
――こうしてここに立っていることが、今でも信じられない。
だが、これは夢じゃない、現実だ。現に、あの凄まじいほどの痛みは、かつて姉であるニハに味わわされたもの以上の苦痛だった。
さんこも、大きくなったんだな……。
妙なところで妹の成長を実感したイチ。
霧の中に向かって、大きく叫んだ。
「おいっ! もう好き勝手させねえぞ! この通り俺は身体が戻った! 今ならお前と――いや、お前以上の実力を見せてやる!」
「生意気な……。所詮そこの「ニハ」の下位互換の分際で」
「うるせえ! お前に言われたかねえよ!」
どうせ、ニハの身体を奪ってでしか自分の実力も発揮できないくせに。
声が聞こえた方に向かってイチは走り出した。相手を霊力で疲弊させるよりも、三子のように、物理攻撃で魂を追っ払った方が要領がいいと考えたのである。――三子が縁によって霊を追い出したとは、想像もしていなかった。
「仁科! さんこのこと頼んだぜ!」
「えっ? ああ……」
突然の形勢の変化に、修平は戸惑いつつも一旦前線から退いた。小さく声をかけながら辺りを探し回ると、同じく小さく返事が聞こえてきたため、そちらに駆け寄る。
「ごめんね、私、足手まといだよね」
三子はやってきた修平に、すぐに謝った。自分さえいなければ、三対一で、すぐにけりをつけることができたかもしれないのに。
「いや、大丈夫だ」
小さく答えて、修平はその場にしゃがみ込む。精神を集中させるためだ。
――むしろ、修平としては、自分が足手まといだという実感しか湧かなかった。
イチが来るまでの戦況。一見すると二対一という構図だが、内実は一対一だ。修平は、ほとんど何もしていない。
そもそも祓うことだけを専門にしている修平にとって、ニハを援護することすらおぼつかないのだ。仁科家は、幽霊に対し、力任せで除霊するというよりは、技巧を磨いて除霊する方が肌に合っていたし、実際それを想定して修行もしてきた。今回のような実践形式は、お門違いも甚だしい。
――そうは思うものの、修平は自分の無力さが悔しくて堪らなかった。幽体のまま必死に戦っているニハに反して、ちゃんとしたからだがあるにもか変わらず、何もできない自分。
「……そういえば、どうやってイチの身体は元に戻ったんだ?」
ふと思い出し、修平は何気なく三子に尋ねた。何故だか一瞬にして三子は頬を赤らめた。
「え、えっと……その。物理攻撃で」
「物理攻撃……」
そう言われて、始めはパンチやキックを頭に思い描いた修平。だが、やがてその頭はかつての記憶を掘り起こす。――かつて似たような状況で、人質になってしまった三子がとった行動。
「――なるほど」
ようやく修平は三子が恥ずかしがっている理由に行き渡った。若干申し訳ない気分にもなったので、彼はそれ以上そのことについて掘り起こすことはなかった。が。
「痛みで、魂が出て行って、イチが身体を取り戻したと?」
「ううん、それだけじゃなくて。お婆ちゃんから言われてた縁を探したの。イチの身体と、イチの中に入っていた幽霊の魂とが縁で繋がってたから、それを解いて」
「解いてって……そんなことできるのか?」
「うん。ずっと矢代家でその修行をしてたから」
「そうか」
修平は顎に手を当てた。
「じゃあニハの身体も同じようにできるんだな?」
「たぶん。抵抗がなければ、できると思う」
「なるほどな」
だが、男と違って女にはこれといった急所が存在しない。すねやみぞおちなどがあるかもしれないが、そこまで接近できるのは稀だろう。どこか逃げられないような場所に追い詰められれば良いのだが。
「そうか……」
「え?」
ふっと修平が呟く。三子は彼を見上げた。
「あいつ、今実体があるんだったな」
「うん、でもそれが?」
「おい、イチ! ちょっとこっちに!」
修平は急に声を張り上げた。霊力でイチの居場所は分かっていたのか、彼が顔を向けたまさにその方向からイチはやってきた。戦いの邪魔にならないよう、修平は彼に屈むよう指示した。
「んだよ、俺今忙しいんだけど!」
「お前、分かってるだろうな? ここは頂上なんだぞ。むやみやたらに走り回ってたら、そのうち崖から真っ逆さまだ」
「そういやそうだな」
今思い当たったとばかり、イチは目をぱちくりさせた。
「久しぶりの身体だからさ、つい夢中になっちまったな」
「ったく……まあいい。この霧が晴れるまではまだ時間がかかる。俺の手伝いをしてもらうぞ」
「でも、ニハ一人で大丈夫?」
三子は気遣わしげな視線を後ろに走らせる。霧で視界を封じられていても、音はよく反響している。時折ニハの好戦的な声は聞こえるが、戦況がどちらに傾いているのかは全く分からない状況だ。
「あいつは今本気を出してない。俺たちを甘く見てる隙に、対策を講じないと」
「私も手伝う!」
「助かる」
そうして、三子達はこそこそと動き出した。あの『ニハ』がその存在に気づかないわけはないだろうが、しかし幸か不幸か、彼は三子達に興味を持たなかった。『ニハ』は、もはや目の前の異質な霊にしか目に入らなかった。
血が騒ぐ、といった方がまさに的確か。
自分よりも遙かに格下のくせに、好戦的に挑んでくる一介の霊。口の減らない彼女の物言いには、苛立ちよりもむしろ痛快さが勝った。もはや身体はボロボロで、霊力も残り僅かなその状況で、なおも諦めが頭をよぎらないのは、一体どうしてなのか。
彼女との距離を詰めようとしたところで、異変に気づいた『ニハ』は、すぐに右足をあげた。その瞬間、地面に張られていた護符は自ら発火し、わずか数秒もせずに燃え尽きる。何の工夫もない単純な罠だ。だが、もしも引っかかっていれば、僅少ではあるが、足止めを食らっていただろう。
「小賢しい」
神経を研ぎ澄まし、ゆっくりと辺りに視線を走らせれば、いくつか似たような罠が分散して張られていることに気がついた。近くに行けば詳しい場所を感知はできるが、それだと先ほどのように素早い移動はできない。
「こんな程度の低い罠で、私を足止めできるとでも?」
煩わしい気分だった。一対一の勝負を邪魔されたような。とはいえ、決着はとっくの昔についているようなものだ。今は久しぶりの霊との戦いに興奮しているに過ぎず、これに飽きれば、すぐにでもニハの息の根を止め、そしてその他の小物も同じ道を追わせるだけだ。
「もう終わりにするか」
乱入者のちょこまかとした動きに、『ニハ』は興ざめしていた。彼らにはもうこれ以上遊ぶ価値はない。
目の前の標的だけに神経をとがらせ、『ニハ』は彼女を追い詰めていった。彼女の身体はもう疲弊しきっている。後はもう、その時を待つかのように、ジリジリと後ずさりするのみだ。
「こんなものか? もう少し楽しませてくれると思ったのだが」
『あら、あたしはまだまだやれるけど』
「そのなりでよく言う。それでももった方じゃないか? たかが一介の霊が」
『偉そうに言ってるけど、それあたしの身体じゃない。本来の形で勝負したら、今頃どうなってたんでしょうね』
そんなことを言い出しても、もはや後の祭りだ。
ついに諦めたのかと『ニハ』は勝利を確信したが、顔を上げたニハの瞳に、諦めの影はない。
『でも、どちらにせよあたしが勝ってたと思うわよ? だって、断然有利なくせに、あんた、今追い詰められてんだもん』
「はっ」
唇の端を歪め、なおも詰め寄ろうとしたとき、『ニハ』は足を止めた。地面を擦った足が小石を蹴飛ばし、それは遙か崖下へと落ちていく。
いつの間にか、『ニハ』は崖近くまで追い詰められていた。宙に浮いたままのニハは、悠然と腕を組みながら、彼を見下ろしていた。
次第に霧が晴れていく。『ニハ』はゆっくりとした動作で後ろを振り返った。今なら分かった。あの小賢しい罠達が、丁度魚を追い詰める網のように、ジリジリと己を崖へと追い詰めていったことに。
霧と共に、己は視覚や聴覚、そして思考までも狭めていたのか、と今更ながらは『ニハ』は自嘲の笑みを漏らした。
人が己の傲慢に気づくとき、物事は大抵手遅れになっているものだ。
『ニハ』もその例に漏れず、己の最後を悟った。今は『ニハ』を警戒して遠目からジリジリと近寄ってきている彼らもすぐに気づくだろう。頂上へと続く坂道を、複数の足音が駆け上がっていることに。
「あそこです! 三子さん達がいました!」
「え、あっ、お父さん達!?」
三子はパッと笑顔を浮かべ、音の方向に顔を向けた。息を切らし、次々に頂上へ姿を現す仲間達に、彼女は一層希望を大きくする。
「――形勢逆転だな」
ジリジリと近づいてくる一行に、『ニハ』は同じだけ後ずさった。
『あんた達の企みももう終わりね。寿霊様とやらを復活させるのが目的だったんでしょう』
かつて、洞窟内で聞いた名前だ。普段は統制の取れない霊達が、今回に限ってこれほどまでに統率が取れているのは、何者かが伊礼山一帯の霊を支配しているのに違いならない。そしてその何者かは、今は動けない状況にあるようだが、やがて動き出すのだろう。今もなお流れ続けているこの吐き気を催すほどの強い霊力がその証だ。
『ようやくお仲間が到着よ。あたし一人では無理でも、皆がいれば、すぐにあんた達は取り押さえられるわ』
「――本当にそう思うか?」
『ニハ』は嘲るように笑った。
「お前はこの身体が惜しくないようだな」
『なに?』
「私の判断一つで、この身体はぐちゃぐちゃになるというのに」
彼は口元を歪め、チラッと後ろに視線をやった。彼の後ろには、遙か地上へと続く崖がどこまでも続いている。
一瞬息をのんだ後、ニハは視線を鋭くした。
『脅そうって言うの?』
「そういうわけではない。取引だ」
軽い調子で『ニハ』は両手を広げた。警戒を解かず、皆は彼を見つめる。
「こちらにさんこを渡してくれたら、私のこの身体をお前に返す。どうだ?」
『ばっかじゃないの! あたしがそんな提案にのるわけないじゃない!』
「だが、さんこの方はどうだろうな」
『ニハ』はずっと後ろに控えていた三子に視線を向けた。三子は目が合った途端ビクリと肩を揺らしたが、やがてきゅっと口を結び、走り出した。一瞬出遅れるイチだが、すぐに駆け出して三子の肩を掴んだ。
「おい!」
「離して!」
「涙ぐましい兄弟愛よ」
三子はイチの手から抜け出そうともがくが、成人男性の腕力に勝てるわけがない。力の限り彼の腕をつねってみても、イチはびくともしなかった。思わずキッと彼の顔を見上げれば、イチは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
『イチ、その手、絶対に離すんじゃないわよ』
「だって、ニハ!」
感極まって、三子はそれ以上言葉が出てこない。
ニハの身体が傷ついてしまうよりは、私が幽霊になった方が、よっぽど――。
『さんこ』
ニハは、いつも以上に穏やかな顔で振り返った。その顔は、なんだか泣きそうにも見えた。
『あたしはもういいのよ。イチだけでも元に戻れたのなら、それで十分だわ』
「なっ――」
『やるならさっさとやりなさいよ!』
憤怒の形相でニハは怒鳴った。
『そんな自殺まがいの行動、あんたにやれるの? あんただって死ぬかもしれないのに』
「私を見くびってもらっては困る。お前の身体が崖に激突する寸前で、私はそこから飛び出す。いいアイデアだとは思わないか? それにさぞ見物だろう、この身体がグチャグチャになった姿は」
『ニハ』は甲高い声で笑い出した。
「しかし無念だな。この私が道半ばにして倒れることになろうとは」
ジリジリと彼は後ろに下がっていく。
「寿霊様……申し訳ありません」
『ニハ』は小さく呟いた。その時の彼の目は、もはや何も映しておらず、ゆっくりと崖下に倒れ込んでいった。
「やっ……止めてええええ!!」
一瞬だった。
三子の叫び声は、山彦として何度も尾を引くくせに、ニハの身体が消えてるのは、一瞬――。