75:大丈夫じゃねえ


「大した見世物だな」

 唐突に『ニハ』が鼻で笑った。

「やはり人間というのは面白い。ずっと私たちは二人だけの生活だったから退屈していたのだが……随分楽しませてもらった。だが、遊びはここまでだ」

 何か合図があったわけではない。が、気がついたときには、三子の身体は『イチ』に腕をとられていた。霧で視界もままならないのに、彼は迷うことなく三子の元へやってきたのだ。

「離して!」
「器に何かあっても困るからな。お前はここで大人しくしていろよ」
「お前達の相手など、私一人で十分だからな」
『調子に乗らないでくれる! イチ、さんこのこと頼んだわよ!』
『おい、ニハ!』

 ニハはすぐに飛び出し、戦いの中に身を投じた。
 ――また、見ていることしかできないのか。

「お前も馬鹿だよな」

 嘆息して『イチ』が呟いた。

「俺たちに従っていれば、苦しい思いなんてしないのに」

 『イチ』の同情を帯びた声に、三子は唇を噛んだ。

「私より――」

 みんなの方がよっぽど辛い思いをしている。
 そんなこと、見ていれば充分に分かった。にもかかわらず、三子自身は何もできない。見ているだけだ。それが、悲しくて空しくて悔しい。
 いつでも三子は無力だった。伊礼山でニハ達が死にそうになっているときも、父や母が霊に襲われて蹲っているときも。
 ――いや、本当にそうだっただろうか?
 一つの希望が三子の胸に舞い込んできた。それは、修平の声をなしていた。
 ――物理攻撃だ。あいつは、幽霊でいることに慣れすぎて、人間の身体というものが分かっていない。
 一度「それ」を経験した三子の頭には、物理攻撃は、一つしか思い浮かばない。

「なんっ……〜〜っ!!』

 三子が行動を起こせば、『イチ』は声にならない叫び声を上げて、その場に崩れ落ちた。
 ――イチの記憶にある、大人しくて可愛かった三子。
 まさか、そんな彼女が金的攻撃をしてくるなんて、思ってもいなかったのだ。その油断が隙を生んだ。まさか……まさかあのさんこが!
「く……そったれえええ!! てめえ、優しくしてやってたら図に乗りやがって!!」

 目を血走らせて『イチ』は大きく叫んだ。
 予想に反して、彼の魂はなかなかイチの身体から飛び出してこなかった。
 ――前回はこれでうまくいったのに。
 焦る三子に、『イチ』は高らかに笑った。

「くっ……馬鹿め、私が何年この身体と共に生きてきたと思っている! こんな痛みなど――痛みなどお……」

 それでも、『イチ』の声は尻すぼみになっていく。
 今ならば、逃げようと思えば逃げられる。彼は執念深く三子の腕を掴んではいるものの、その力は非力なものだ。振り払って逃げることは可能だ。しかし。

「何してるんだ、矢代! 早くこっちに――」

 修平の声も聞こえている。が、三子はそこから離れようとはしなかった。もだえ苦しむ『イチ』のすぐ側に膝をつき、彼の身体に手を当てた。
 ――縁を探すんです。
 ふと頭の中に祖母の声が蘇った。短い間だったが、脳裏にこれまでの修行の日々がなだれ込んでくる。
 縁は、すぐに見つかった。脆い蔓のような縁だ。彼の縁は、イチの身体と強く結ばれていた。だが、よくよく見れば、結び目はあちこちにあって、ただ無理矢理身体と繋げているだけにしか見えない。
 ――それはそうだ。本来、この身体はイチのものなのだから。持ち主ではない魂が、本当の意味で身体を自分のものにすることなどできない。
 三子はむんずと縁を掴むと、一つ一つ結び目をほどいていった。魂の縁と、身体から出ている縁。どちらからも、感情のような記憶が流れ込んでくるが、今は無視することにする。

「やめ……やめろっ!」

 彼も、自分の中で起こっている異常事態が分かるのか、ものすごい力で三子の腕を掴んでくる。痛みに三子は顔をしかめるが、それでも縁を解く手は止めない。

「これで最後だよ!」

 最後の結び目をほどいた。するすると縁が伸びていき、身体は自由となり、魂は外の世界に放り出される。

『貴様ぁっ!』
「イチ!」

 イチの身体をギュッと抱き締めながら、三子は振り返った。霧の中で、イチの姿はよく見えない。

「空いたよ、イチの身体!」
『さ……さんこ』
「さあ早く!」

 また奴に盗られないうちに。

『ほ、本当に、俺の身体……』

 躊躇いがちに、イチが近づいてきた。四肢をだらけさせ、その場にくたっと倒れ込んでいる身体に、イチは手を伸ばした――。

「イチ、大丈夫!?」

 イチの姿は、すぐに身体の中に入っていった。まるで溶け込むようなその光景に、やっぱり本来の持ち主なんだと三子は胸が熱くなる。

「イチ、イチ!」

 けれども、イチは目を覚まさない。息はしているようだが、どうして意識がないのか。

「うっ……」
「イチ!?」

 イチの顔に手を当て、三子は彼の顔を覗き込んだ。

「イチ……」
「さ、さんこ……いてえ」

 イチは苦しそうに顔を歪めていた。三子は思わず手のひらに力を込める。

「どこか痛むの!?」
「痛い……死ぬ」

 瞳を潤ませて、イチは身体を丸めて蹲った。三子はなにが何だか分からず彼の背中を撫でた。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃねえ……お前の金的、効いた……」
「あっ……ご、ごめん」

 ようやくその時になって三子は合点がいった。思わず赤面して目をそらす。

「自分の身体に戻って、最初に言うことがこんな言葉だなんてな。笑える……」
「本当にごめん……」

 自嘲の笑みを浮かべるイチに、三子はもはやかける言葉も分からない。

「矢代! そっちはどうなったんだ!」

 霧の中から修平の声が響き渡った。ニハの援護をしているのだ。三子はハッとして顔を上げる。

「な、何とかうまくいった!」
「ならイチ! こっちを援護してくれ!」

 三子はもの言いたげにイチを見下ろしたが、彼は唇を真っ青に染め、小さく首を振った。

「む、無理……」
「ごめん、仁科君! イチ無理だって!」
「はあ! なんで!」
「そ、それが……」

 大事なところを両手で押さえ、背中を丸めたイチからは、なんとも言えない哀愁が漂っている。
 ――無理だ。三子には、真実を口にすることなどできなかった!
「とにかく無理なの! 何とか頑張って!」
「そんな無茶な!」

 思わず修平は叫んだが、その声は次の攻撃によって尻すぼみに消えていく。大分晴れてはきたが、霧のせいで思うように戦況が見えないのがもどかしい。

「情けねえな……俺」
「そんなことないよ! 元は……私がいけなかったんだし」

 イチの声があまりにも小さかったので、三子は慌てて明るい声を出した。が、それくらいで慰められるほどこの時のイチは単純ではなかった。
 しばらく三子は、せめてもとイチの背中をさすっていた。そんなときだった。

「危ねえっ!」

 突然のイチの声と共に、三子は強い力で押し倒された。

「大丈夫か!?」
「う、うん……」

 実は、三子は地面に強か顔面を打ち付けていたのだが、イチの声の真剣さに、そのことに言及する勇気が出なかった。

「あいつ――」

 彼は険しい目で霧の中を睨み付ける。
 三子にはなにが何だか分からなかったが、どうやら『ニハ』がこちらにも攻撃を仕掛けてきたらしい。イチが気をとられている隙に、三子はこっそり鼻血を手で拭った。

「くそっ、もう我慢ならねえ!」
「い、イチ、身体は大丈夫なの!?」

 イチはスッと立ち上がった。三子は咄嗟に彼の服の裾を掴んだが、イチは笑ってその手を押さえる。

「さんこは気にすんな! 俺もいつまでこんなことで情けない姿はさらしていられねえ。あいつらには俺がいないとな!」

 そう言って駆け出していくイチの後ろ姿が、これほど頼もしく見えたのは初めてだった。