74:死んでなどいない
ニハ達は、目を見開いたまま目の前の人物を凝視した。
一四歳程度の見た目でしかないニハとは違い、彼女――『ニハ』は成人した姿に見える。しかしその一方で、簡素なワンピースに、気の強そうな顔立ち、声、何もかもが瓜二つだった。違うところがあるとすれば、髪の長さくらいか。
「こんな奴らに説明する義理はない。さっさとやっちまおうぜ」
『なっ!』
霧の中から続いて現れたのは、『イチ』である。『ニハ』と同様、イチそっくりの見た目である。ただし、彼が浮かべている表情は、イチには似つかわしくもない歪んだ笑み。
『幻……か?』
思わず修平はそんなことを口走る。そうでもしないと、目の前のことが理解できなかった。
――霧に紛れて、俺たちを謀ろうとしているのか。
『あたし達にそっくりなあんた達が何しようって? 本物のあたし達に反旗を翻そうって?』
「反旗? 面白い冗談だ」
高い声で『ニハ』は笑った。
「偽物はお前たちの方じゃないか? たかだか幽霊でしかないお前たちが、実体の俺たちに挑もうというのか?」
『なっ――』
思わず言い返そうとしたイチだったが、ニハが真剣な表情で一歩下がったのに気取られた。
『仁科、さんこはどこにいると思う?』
「あいつらの後ろから、まがまがしい霊力は感じる。矢代がそこにいるかは――」
『イチ』
『分かってるって!』
ニハの声と同時に、イチは飛び出した。
本当にそこにいるかは分からない。それでも、当てずっぽうで手当たり次第探すつもりだった。しかし、そんな彼の前にすかさず立ちはだかる一つの影。
「ひゃはははっ! 逃げようったってそうはいかねえぜっ!」
『――っ、俺の顔で気持ち悪い笑い声出すんじゃねえ!』
そのまま二人のイチが衝突する。霧と砂埃に視界が閉ざされ、戦況がよく分からない。ただ激しい爆音だけがニハ達の元に届く。
『仁科!』
「分かってる!」
ニハに言われるまでもなく、修平は駆け出した。
自分と彼らの間に歴然とした力の差があることは分かっていた。ならば、ニハとイチが二人を足止めしている間に、俺が――。
「させるかっ!」
戦いの合間に、『イチ』が修平に向かって霊力を飛ばした。衝撃に修平が遙か後ろに吹っ飛んでいく。
『仁科っ!』
「おっと」
思わず駆け寄ろうとしたニハの前に、『ニハ』が立ちはだかった。
「私の相手をするのはお前じゃないのか? それとも、三対一であいつと戦うつもりか?」
『くっ……!』
「せいぜい楽しませてくれよ。でないと、ここまでお前達を待った甲斐がないというもの」
『うるさいのよ!』
神経を逆なでするような口ぶりに、ニハは苛立って右手から霊力の弾を飛ばした。しかし相手はそれを容易に片手で受け止める。霊力はすぐに霧散していった。
「お前の力はこんなものか? ……いやはや、この身体の持ち主は、どんな者なのと楽しみにしていたが、所詮この程度とは」
何のことやら、ニハは片眉を跳ね上げる。
「幽体のままで思うように力が出せないとはいえ、実に残念だ。可哀想になあ、お前達もこの身体さえあれば私たちと同等に戦えたというのに」
ニハは思わず息をのんだ。彼の言っていることが事実なのであれば――。
『そ、それ……』
知らず知らず声が震える。
『あ、あたしの、身体?』
「おや、知らずに攻撃してきたのか?」
やっとのことで押し出した言葉は、なんてことない調子で肯定された。
「てっきり知っているものと思っていたが。わずかではあったが、お前達も器の力を受け継いでいたのだよ。お前達は死んでなどいない。ただ魂と身体が離れただけなのだ」
冷たい風が吹きすさぶ。寒さすら忘れ、ニハは立ち尽くした。
「霊体のままでは思うように力も震えなかった故、私と奴が身体をもらうことにした。この身体に慣れるのは数年を要したが……今では、かつての自分の身体以上に快適だ」
『何を――』
「お前達の記憶も幾らか保持している。本来は記憶は魂に刻み込まれているものだが……この身体にも、記憶の名残はあったらしい。自分が飲み込まれるほどの勢いでお前達のことを植え付けられたよ」
不意に、ニハの中で全ての音が途絶えた。つい先ほどまで、イチや修平が声を掛け合いながら戦う音が聞こえていたというのに。
静寂の中、『ニハ』の声だけが頭の中に響いてきた。
「不思議なものだな。お前達の思い出と共に記憶されているあのさんこという娘に対する愛情が、まるで自分の感情のように感じられる。赤の他人のはずなのに、今は妹のように思うよ」
『馬鹿なこと言わないで! あんたなんか、さんこを器としか見てないくせに! さんこはあたし達の妹よ!!』
あふれ出す激情と共に霊力を爆発させたが、『ニハ』はそれすらも容易に片手で己の身体をガードする。
「果たしてそうだろうか?」
『ニハ』が一歩近づいた。
「さんこは懐いてくれたぞ。私たちに触れることができて嬉しい、と。これで一緒にお父さんとお母さんのところに行けるね、ともな」
『――っ』
「お前達がいなくなれば全て丸く収まるとは思わないか?」
歌うように、『ニハ』は耳元で囁きかけた。
「私たちがこの身体で地上へ戻る。そうすれば、母親はもちろん喜ぶだろうし、父親もそうだ。矢代家のことは少しばかり情報を得ているぞ。お前達の両親、お前達が原因で離婚したらしいな? さんこもさぞ悲しい思いをしたことだろう。私たちが戻ることで、全て元の鞘に収まるとは思わないか? 何もかも元通り。幸せな家庭のできあがりだ」
ニハはぶるりと震える。
「さんこを自由にしてやろう。このままではさんこが可哀想だろう?」
さんこも、さんこを、さんこが。
まるで魔法の呪文のようだ。それを言われれば、何も反撃できなくなる。
元々、霊は脆い存在だった。たった一つの未練に執着し、この世に残っている存在。未練のためならば、なんでもやる。しかし、その未練を盾にとられれば、途端に自分の存在意義が分からなくなってしまう――。
「馬鹿じゃないの!」
そのとき、白い霧の中から突然響く声。
『ニハ』は驚いたように顔を上げた。
「もう起きたのか?」
「当たり前でしょ! 近くでドカンドカン爆音が響いてたら嫌でも起きるよ!」
ぶんぶん怒った様子の三子は、霧の中からどんどん近づいてくる。そのくせ、未だ姿は見えない。
「お前が寝ているときに二人を始末してやろうと思っていたのに、その気遣いを無碍にするとはな」
「そんな気遣いいりません!」
鼻を膨らまし、三子は立腹してそう叫ぶ。
「それに、あなたは何か勘違いしてる。私は……別に、家族が元通りになることを望んでるわけじゃない。そりゃ、お父さんとお母さんが仲直りしてくれれば嬉しいけど……。でも、そのためにニハとイチがいなくなるなんて間違ってる」
『――さんこ』
ニハがようやく小さく押し出した声は、空気に溶けて消える。
「私にとっては、私が苦しいときも悲しいときも楽しいときも、ずっとずっと側にいてくれた二人の方が、よっぽど大切。身体なんかなくたっていい。触れなくても、二人が側にいるだけで私は嬉しいんだもん」
『さっ――』
「さんこ!」
思わず呼びかけようとしたニハだが、からかうように『ニハ』も後追いをする。
「ニハ!」
『そ、そっちじゃない!』
三子は釣られてそちらへ一歩踏み出そうとしたが、またも聞こえるニハの声にその場に立ち止まった。
『あたしはここよ……』
「あたしはこっちだってば!」
「…………」
どちらへ行くべきか戸惑う三子の脳裏に、ニヤニヤと意地悪く笑っている『ニハ』の姿が容易に浮かび、なんだか腹が立ってきた。
「さんこー!」
『あっ、お前まで参加するつもりか!?』
しまいには、『イチ』までもが三子を混乱に陥れようとする。イチは思わずまた霊力で攻撃しようとしたが、あっさり躱され、イチは憤慨した。
『避けんじゃねえ!』
「うっせーなー、弱いくせに俺様に刃向かってくんな!」
『こっちの台詞だ!』
ギャーギャーやり合うイチ達に、呆れながら傍観者を決め込む修平。
彼らを尻目に、三子は一歩前に踏み出した。
「ニハ」
どちらでもいい。身体が見えるくらい近くに行けば、どちらが本物かくらいは区別がつく。でもそうしないのは、矜恃があるからだ。見なくたって、ニハを見つけることができる、と。
「ニハ、今まで気を遣わせてごめんね。私、記憶が戻ったの。二人が死んだときの記憶。それよりもずっと幼い頃の記憶も」
息をのむような音と、様子を見るために息を殺す者。
二人のニハの区別をつけるためならば、もっと分かりやすい方法もあるだろう。でも、それでは三子の矜恃が許さない。私たちは――そんな分かりやすい方法で測られるような、そんな簡単な関係ではないのに。
「私のせいで二人は死んじゃったんだよね。私を守るために」
「いいのよ、さんこが元気ならそれで。あたし達はあんたが生きてるってだけで嬉しかったんだから」
そんなこと分かってる。彼らからの愛情は、この身に全部受け止めている。それに――ニハは、そんなことわざわざ口にしない。
『馬鹿じゃないの? 自惚れないでよね!』
自分に正直で、我が儘で、そして誰よりも優しい。
『あの時はあたしが油断してただけだから! 今だったら絶対に負けないから!』
彼女の言うことは、半分本当で、半分嘘だ。
『あー、そんなこと思い出さなくてもいいのに! どうせならもっと格好いいところ思い出しなさいよ……』
――ほら、こっちがニハだ。
三子は思いきって霧の中から駆け出した。