73:無事なんでしょうね


 三子の悲鳴が止んだ。
 だが、それでも今なお彼女がどこにいるのか、ニハとイチ、修平は把握することができなかった。

「矢代!」
『崖に落ちたのか?』
『滅多なこと言わないで!』

 ギャーギャーワーワー言いながら手分けして辺りを捜索するが、三子の姿は見当たらない。
 やがて、修平は近づいてくる二つの霊力に気がついた。

「嫌な気配がする」

 神経を研ぎ澄まし、ボソリと呟く。

「幽霊? いや……ちょっと違う気もする」
『何ブツブツ言ってんのよ! 敵が現れたの!?』
「たぶんそうかもしれない」
『どっち! どっちの方よ!』
「あっちだ」
『見えるわけないでしょ!』

 ニハの声に合わせて修平は指を指したが、霧の中では見えるものも見えないので、彼女に理不尽に怒られた。

「ニハは今俺の左の方にいるだろ? そこから俺とは反対の方から嫌な気配がする」
『オーケー、あっちね! イチはどこにいるのよ! あたしたちの話聞いてた?』

 ニハは目を血走らせて辺りをぐるんと見回した。

『いや……だんだん目も慣れてきてさ、こっちの方に斜面があるなって』
『斜面?』
『ああ、だからここをさんこが滑り落ちたんじゃないかって』
『そっちの方って……嫌な気配の方じゃない!』

 舌打ちをし、ニハはイチの方へ飛んでいく。相変わらず霧で視界は悪いが、確かに十数メートル下まで斜面が続いているのが分かった。

『仁科、来れる?』
「え? 行ってはみるけど、降りられ――って、うわっ!」

 返事の途中で、情けない悲鳴を上げる修平。ニハは愕然として大きな声を出した。

『ちょ――あんたまで気を失われたら困るんだけど!!』

 しかし、やがて修平の悲鳴は止んだ。恐る恐る彼の方へ近づく二人だが、へなへなと修平の声が上がったことにホッと息をついた。

『もう、びっくりさせんなよな』
『本当。ね、その辺にさんこいない?』

 地面を這いながら、修平は手をパタパタさせた。が、彼の数メートル内にはどこにも三子の姿はない。

「いない……と思うけど」
『どこにいるんだ? てっきりその辺りに倒れてるもんだと思ったけど』
『まさか、連れ去られた!?』
『でも、俺たちみたいな幽霊が、重いさんこを背負っていくなんて無理なんじゃないか?』

 ちゃっかり「重い」なんてワードを付け加えられた三子。だが、ここに彼女の尊厳を守ってくれるような人はいなかった。

『厄介なことになったわね……』

 全く、どうしてさんこはこういつもいつも問題ごとに巻き込まれるの、とニハはため息をつく。

『仁科、気配の方はどこへ行ったの?』
「あっち」
『だから見えないって!』
「そんなカッカするなよ……」

 妹のことになるとこれだから、と修平は嘆息するが、三子の身を案じる気持ちは分かるので、すぐに気を切り替えた。

「お前達の後ろだよ。えっと……今、俺がお前達の前にいるだろ? その逆方面だ」
『こっちね』

 ニハは腕を組んで振り返った。霧は未だ、晴れない。

「でも、道なんかあるか? お前達ならどこへでも行けるかも知れないが、俺は――」
『道ならあるみたいよ』

 遠くから見るだけでは分からないが、近くで見ると、霧も多少は薄くなるのだ。近くに行けば行くほど、霧は薄くなり、ニハの前に細くうねった道が現れた。

「獣道か……」

 驚嘆して呟く修平に、ニハは頷いた。

『仁科、一応聞くけど、気配は?』
「この先に続いてる。たぶん、頂上に向かってる」
『分かった。行くわよ』
『ああ』

 三人は、真っ直ぐに歩みを進めた。ゆっくりと登っていく太陽を背に。


*****


 しばらくは急斜面が続いた。普段からトレーニングをしているさすがの修平も額に汗をにじませ、浅い呼吸を繰り返す。

『大丈夫か?』
「ああ……」

 短く返事をし、修平は汗を拭った。霧は大分晴れてきたが、まだ遠くは見晴らすことができない。この先どれだけの道が続いているかも分からないのだ。

『それにしても、気になるのは幽霊がてんで現れないことよね』

 修平が気にかけていたことを、ニハは難なく口にする。

『一体どういうことかしら。仁科、霊の気配は?』
「近くにはいないな。遠巻きに観察されてはいるが」
『観察、ねえ。嫌な響き。まるで誰かから手を出すなって命令されてるみたいじゃない』
「…………」

 ニハの言うことには、一理あった。何者かが三子を連れ去ったのならば、その者は相当な実力者である。霊の中でもかなりの実力を誇るニハ、イチに気づかれずにその場を立ち去ったのだから。おまけに、この霧の中を迷いなく進んでいくとは。辺りの地理を知り尽くし、同時に前もって計画を立てて誘拐をもくろんだのではないかと思わずにはいられない。
 その者は、果たして幽霊なのか人間なのか。
 判断は難しいところだ。どちらであっても、きっと今まで出会った中でも相当手強いだろうことは想像に難くない。
 急斜面は、やがてなだらかな山道へ変化した。その頃には、もう随分太陽も昇っていて、背中が熱いくらいだった。相変わらず霧は晴れないが、数メートル先くらいなら見通せるようになった。
 一時間もしないうちに、その緩やかな山道は、次第に平坦な道へと姿を変えた。道はゴツゴツしているが、行けども行けどもまた斜面になる様子はない。
 ようやく頂上にたどり着いたのだ。
 獣道を通ってきたせいで、頂上を示す看板もないのだ。本当にここが頂上なのか疑わしい部分もあったが、振り返れば、薄い霧の合間から、時折思わず声が漏れ出るほどの眺望を見ることができた。所々見覚えのある建物に、きっと自分の住む日南市だろうと修平は当たりをつけた。そして反対側は、西尾市だ。

『さんこ、どこにいるの!』
『返事をしろー!』

 そんな修平の思考を遮って、ニハとイチは懸命に声を出した。当初の目的を思い出し、修平も慌てて辺りを見渡した。

「矢代! どこだー!」

 しかし、さん人の声は、山彦として反響して戻ってくるのみで、他のものの気配などほとんどしない。

『ねえ仁科! 霊は!? ここにはいないの!?』
「近くにはいないみたいだが……もうちょっと先に行ってみないとどうにも」
『――っ』

 頂上といえども、辺りは広いのだ。おまけに、随分マシになったとは言え、霧のせいでそんなに遠くまでは見渡せない。
 三人は、慎重に歩みを進めた。しかし、数分と経たないうちに、修平の足が止まった。

「……何かが近づいてくる」

 彼の言葉通り、やがて二つの足音が響いてきた。しっかりとした足取りに、大人のそれだろうと当たりをつける。

『誰?』

 足音の主が姿を現さないうちに、ニハが先手をきって声をかけた。

『さんこを連れ去ったのあんた達?』
「そうだが」

 短く返答がくる。女性の声にも聞こえるが、男らしい口調だ。
 ニハは勢い込んで質問攻めしようと息を吸ったが、イチが右手で彼女を制した。

『変じゃないか?』
『何がよ!』
「俺も……微かに違和感が」
『はあ?』

 訝しげにニハは片眉をつり上げるが、誰も返事はしてくれなかった。代わりに、イチと修平は食い入るように霧の先を見つめた。

「道中、静かだったろう?」

 足音は、着実に近づいてくる。

「道の途中でお前達を始末することも考えたが、何分俺たちも退屈していてな。余興があった方が楽しめそうだと思った」
『何を偉そうに!』

 手のひらで転がされていたという訳か。
 ニハとしては、そんなつもりは毛頭なかったが、しかし、彼の口ぶりではそうとしか言いようがない。そのことが、悔しくて堪らなかった。

『さんこは無事なんでしょうね!?』
「ああ。穏やかに寝ているよ。大切な器だからな」
『やっぱりそれが目的なのね!!』

 ニハが飛びかかろうと身構える。それを制するのは、またもイチだ。ニハを押さえ、一歩、二歩と声の主の足が近づいてくるのを確認し、そしてゆっくりと顔を上げ――。

「三人か。思ったより少ないな」
『――っ!』

 ニハは愕然と目を見開いた。微かに予感がしていたイチ、修平もである。

『あんた……なんで』
「気になるか?」

 薄く笑う目の前の人物――彼女は、紛れもなくニハだった。