72:夢かなあ


 心地よいぬくもりだ。適度な温度に、眠気を誘う穏やかな揺れ。
 このまま眠りと現実の境地でたゆたっていたいような気もしたが、そういうわけにもいかない。何しろ自分には、役目があるのだから。
 すうっと瞼を押し上げると、澄んだ冷たい空気と、眩しい陽光が目に入った。思わずまた三子は目を閉じた。その際、小さく声が漏れてしまったのか、何者かが三子に顔を近づけた。

「目が覚めた?」
「ニ、ハ……?」

 聞き覚えのある声は、ニハだった。優しく、労るようなその声の響きに、三子はまたそうっと目を開けた。しかし、三子のその位置からでは、ニハの姿は目に入らなかった。

「ニハ、どうして……」
「大変だったのよ。あんた、急に斜面転がり落ちていくから」
「仁科君は?」

 目が覚めたばかりで、未だ舌っ足らずな声で三子は尋ねた。

「仁科? ……ああ、あの子は先に行ってるって。ゆっくりおいでって言ってたわよ」
「そう……」

 まだまだ頭が覚醒しない三子だが、やがて、自分が何者かに背負われていることにようやく気がついた。大きな背中で、触れている部分からは、ぬくもりが伝わってくる。

「イチ?」

 反射的に三子は尋ね返した。そして自分で自分の疑問が馬鹿らしいことに気づく。――おかしい、この背中がイチだなんておかしすぎる。だってイチは――。

「何だよ、まだ寝ぼけてんのか?」

 おかしそうに笑って、背中の主は三子の方へと首を回す。三子の位置からでは、横顔しか見えなかったが、それでもその顔は、紛うことなくイチだ。

「ど、うして……」

 身体があるんだろう。それに、その姿は――。

「さんこ」

 不意に飛び込んできたニハの声に、三子はまたもそちらへ顔を向けた。
 三子のすぐ隣を歩くニハ――。彼女もまた、イチ同様、しっかりと地に足をつき、そしてまた、しっかりと三子を見返していた。そしてその姿は、大人のものだ。いつも三子の側をうろちょろしていたような子供の姿ではない、しっかりと二人が成人した姿だった。

「夢かなあ」

 三子の口から、そんな言葉が出てきた。それはそうだ。あの二人が、人間の姿となって目の前に現れるなんて。
 そう、彼らの姿は、まるで三子の姉と兄、そのままの姿だった。二人が死なずに今も生きていたのならば、こんな風に三子を背負い、そして頭を撫でてくれたのだろう。
 三子は、視界がぼやけるのを感じた。
 以前考えたことが、滝のように頭の中に流れ込んでくる。もしニハとイチの二人が生きていたらできたこと――。
 一緒に遊んで、時々喧嘩して。仲直りだってできる。それどころか、触れあうことすらも。寂しくなったら、抱きしめてもらうことだってできる。お婆ちゃんと一緒に遊園地だって行けた。
 もしかしたら、お父さんとお母さんだって離婚しなかったのかも知れない。
 夢じゃなかったらいいのに。これが現実だったらいいのに。

「ニハ……」
「なあに?」

 すぐに返ってくる、優しい声。

「手……触っていい?」
「もちろんよ」

 イチの首に巻いていた腕を片方解き、ニハに向かって伸ばした。宙を彷徨っていた三子の腕は、すぐにニハによって捕まえられる。

「……あったかいね」
「当たり前でしょ」

 嘆息と共に紡がれる言葉に、三子は声もなく涙を落とした。それを見て、不思議そうにニハが目を丸くする。

「どうして泣くのよ」
「だって……まさか、二人に触ることができるなんて思ってもみなくて」

 鼻をすすりながら、視線を落とす。

「なんで触れるの? 二人は幽霊だったのに」

 夢か幻か、はたまた現実なのか。

「願いが、叶ったからかな」
「願い?」
「生身の身体が欲しいっていう願い」

 ニハは魅惑的に微笑んで見せた。微かに違和感を覚え、三子は口をきゅっと結んだ。彼女は、こんな風に笑う人だっただろうか。

「俺たちがこうしてお前の前にいることに、理由が必要か?」

 続けてイチが答えた。

「理由? ……いらないと思うけど、でも、不思議に思って」
「気にするな。全て俺たちの言うとおりにすればいい」

 不意に身体が痛み、三子は眉をしかめた。先ほど斜面を転がり落ちた身体がズキズキと痛みを主張しているのだ。まるで、早く夢から覚めろと警告しているかのように。
 三子は再びイチの背中に身体を預けて、ニハを見つめた。

「さんこは何にも気にしなくていいのよ」

 垂れた三子の前髪を、ニハは優しく払いのけた。

「ずっとあたし達の側にいてよ。今までだってそうだったでしょ?」
「ほら、また昔みたいに遊ぼうぜ。隠れん坊に鬼ごっこ、缶蹴りだってしたよな」
「お父さんとお母さんの目を盗んで遊ぶの、楽しかったわよねえ。いつも一緒になって怒られてたっけ。ねえさんこ、覚えてるでしょ? みんなで離れにこっそり侵入して――」
「あれ」

 三子は反射的に声を上げて、ニハの言葉を遮った。

「私、言ったっけ、二人に? 記憶が戻ったこと」

 三子とニハの視線が交錯する。ほんのわずかな時間だった。

「何が?」
「それよりもさんこ、今日の夜は満天の星空見せてやるよ。いつも見たがってただろ? いい場所知ってんだー」
「いいわね。あそこはいつ見ても絶景よ」
「…………」

 三子を置いてけぼりに、どんどん進む会話。
 三子は一旦視界を閉じ、自分の施行に集中する。
 ――ニハとイチがまだ生きていた頃の、幼い三子の記憶。
 記憶が戻ったら――いや、ニハとイチに再び会えたら、聞きたいと思っていたのだ。自分が小さかった頃のこと。何をして遊んだだとか、どんな修行をしてたのかだとか、三人で何を話していたのかだとか。
 記憶は、無事戻ったのだ。父が霊に襲われているところを目にした時――フラッシュバックのように、かつての出来事を思い出した。ニハとイチと共に野営地を抜け出し、そして幽霊達に襲われたときのことから遡って、小さい頃のことも断片的に思い出した。
 しかし、三子はそのことを誰にも伝えていない。タイミングがなかったというのもあるし、もし言うのであれば、ニハやイチはもちろんのこと、母や父、祖母たち皆が揃った場で言いたいとも思っていた。
 それなのに、どうして二人はまるで私が幼い頃を鮮明に覚えているかのように話すのだろう。今までニハとイチは、私に対して、一度も過去のことを匂わせるようなことは言わなかったのに。
 彼らは、誰を見てるんだろう。
 ふとそんな疑問が頭に浮かんぶ。

「あなたたちは誰なの?」

 そしてその疑問は、形を変えて三子の口から飛び出していった。
 守護霊としてずっと側で見守っていたのに、ある日突然その妹が自分たちのことを認識するようになって、赤の他人と化す。家族でも友達でもない、本当にただの他人として。
 なぜそんな立場に甘んじたのか。それはもちろん、家族を守るためなのだろう。記憶を無くしている妹を混乱させないためにも、そして悲しみを押し殺している両親の痛みを掘り起こさないためにも。
 自分たちが兄弟だと、ポロッと口から出てしまってもおかしくはないのに。それがなかったのは、ひとえに私たち家族を思ってのことからじゃないのか。
 この二人は――誰?
 イチの足が止まった。それと共に、隣のニハも立ち止まる。

「…………」

 不意に「ニハ」が三子の方を向いた。その顔に、表情はない。

「なっ、なに――」

 彼女の手が、三子の額に触れた。思わず三子はその手を避けようと身じろぎするが、「イチ」に背負われているせいで、それもできない。その上、彼にはガシッと両足を捕まれているため、その背から降りることもできなかった。
 「ニハ」の手に触れた額から、じわりと熱が伝わってくる。次第にぼんやり頭が霞がかってきた。

「そう、お前はそのまま寝ていればいい」

 遠くからニハかイチ、どちらともつかない声が聞こえてくる。

「目が覚めた頃には、もう全部終わっている」

 感情のないその声は、意識を無くした三子には届かなかった。