80:紹介するね


 眠たい六時間目の国語が終わった後、ようやく後は掃除と終礼を残すだけとなった。とはいえ、まだまだ底冷えのする二月の掃除というのは辛くしんどいものだ。特に窓が全開になっている廊下担当となった健介は、ぶうぶう文句を垂れながら今日も掃き掃除をしていた。

「おい、もういいだろ、このくらいで」
「まだよ。窓が終わってないじゃない」
「誰もそんなとこ気にしないって! もういいじゃんか、終わりで!」

 健介は箒を右手に抱えたまま両手を広げた。確かに廊下は一見ピカピカである。健介と美樹とが一生懸命掃き掃除をしたかいがあるというもの。しかし、一方で窓の方は残念なものだ。昨日も掃除をしたばかりだというのに、曇った窓ガラスには各々キャラクターの落書きがされていた。全く、中学生にもなって一体誰がこんなことをするのか。――父親の車に乗って買い物に出かけるとき、自分だって窓ガラスに落書きをしていることは棚に上げ、健介はそうため息をついた。
 委員長タイプの美樹が言うのならば、彼女に逆らうことができるわけもなく、健介はイヤイヤながら冷たい雑巾をもって窓拭きを始めた。残念ながら、若干背の低い健介は下の段の窓で、女子にしては背の高い美樹は上の段だ。そのことが癪に障って仕方がない健介は、すぐにあいつの背丈を超してやるんだと内心息巻いて拭き掃除をしていた。

「あれ、誰だろう。人がやってくるなんて珍しいわね」

 そんなこととはつゆ知らず、外の景色を楽しみながら窓を拭いていた美樹は、校門で二人組が今まさに学校内へ入ろうとしていることに気がついた。

「誰かの家族かな」

 一見ラフな服装をしているその二人組は、若い男女である。どちらもスラッとした体躯をしていて、見るからにお似合いの男女……のように見えた。だが、美樹達のいる一階のクラスに近づけば近づくほど、彼らの遠慮のない声量での口喧嘩が耳に飛び込んできた。

「だーかーら! 俺が楽しみにしてた駅弁なんで勝手に食っちまうんだよ!」
「あんたがいつまでも間抜け面さらして居眠りしてたからでしょ! しょうがないじゃない、お腹減ってたんだから!」
「そんなにバクバク馬鹿みたいに食ってっと太るぞ!」
「あら、お生憎様ー。あたし、平均よりも痩せてるって病院で言われたもの。むしろ、これからはもっとたくさん食べなさいって! あんたこそ暑苦しい修行するの遠慮してくれない? 毎朝毎朝うっさいのよ!」
「そんなの人の勝手だろ!」

 ギャーギャーやり合う声は近づき、そしてまた遠のいていく。彼らは、正面玄関の方へ入っていった。

「……誰だろうね」
「さあな」

 窓越しまで届いてくる口論の声。彼らが何者であるかは分からないが、しかし、妙にインパクトだけはあった。
 そのまま彼らの声も聞こえなくなっていったので、二人は再び掃除を再開した。……のだが、そう間をおくことなく、またも先ほどの男女の声が響いてきた。――今度は廊下からである。

「あたしが買った漫画勝手に先に読んだくせに! 人のこと言えないじゃない!」
「漫画を先に読むのと弁当食べられるのでは全然違うだろ!」
「違わないわよ! あの漫画読むのあたしがどれだけ楽しみにしてたか分かってて言ってんの!?」
「あーあー、分からないね! お前の頭がおかしいってことくらいしか分からないね!」
「何よ!」

 彼らの口喧嘩が、やたらと響くこと響くこと……。
 彼らがクラスの前を通るたび、何事かと教室の窓からは生徒たちが顔を出していた。ちょっとした騒ぎになっていることすら知らず、彼らは我が道を突き進んでいく。

「あっ」
「おっ」

 ――と、窓を拭いていた健介と美樹も、無意識のうちに彼らに注目していたところ、件の男女二人と目が合った。物珍しくじろじろと見ていたのがバレてしまったか、と慌てて窓拭きを再会する二人だが、徐々に自分たちに近づいてくる二人に、手を止めずにはいられなかった。

「あ、あの……何か?」
「美樹ちゃんじゃない!」

 黄色い声で叫ばれ、美樹は雑巾ごと女性に両手を捕まれた。なにが何だか分からないまま、両手を上下にぶんぶん振られる。

「え? えっと……」
「さんこがいつもお世話になってますー! ありがとうね、いつもさんこと仲良くしてくれて!」
「さ、さんこ?」

 はてさて、さんこと名のつく者は誰だっただろうか。
 しかし、目の前の女性が友好的に接してくれているこの状況で、そんなことを言い出せるわけもない。
 美樹は愛想笑いを浮かべながら曖昧に頷いた。
 一方健介の方は。

「健介! 久しぶりだな!」
「んんっ!?」

 男性の方から、突然の知り合い宣言をされ、目を白黒としていた。

「元気にしてたか? しばらく見ないうちに大きくなって!」
「は、はあ……」

 やたらと距離の近いこの男性。果たして誰だっただろうか。
 しかし、相手側は完全にこちらの顔と名前を知っているこの状況で、そんなこと言い出せるわけもない。
 健介は引きつった笑みでバンバン肩を叩かれるがままになっていた。
 さて、そんな中、ゴミ箱を持った由香里が廊下を歩いていた。教室の掃除が終わったので、ゴミ捨て係になった彼女は焼却炉までゴミを捨ててきたのだ。

「いやー、こうして話せて嬉しいわ! これからも仲良くしてあげてね!」
「は、い……」
「今度一緒に遊ぼうぜ、な? この街案内してくれよ!」
「も、もちろんです……」

 あはは、ふふふと豪快な笑い声と愛想笑いが交錯する一年一組の廊下。
 由香里は戸惑いながらそうっと彼らの後ろを歩くところだった。助けてくれという視線を健介と美樹の二人から感じていたが、しかし由香里は事情も知らないので助けることもできない。むしろ、知り合いらしいので、声をかけるのは不躾だろうとすら思った。
 そのまま由香里は通り過ぎようとして――捕まった。彼女もまた、全く身も知らない彼女に腕をとられたのである。

「由香里ちゃんじゃなーい!」
「ええっ!?」

 どうしてわたしの名を、と聞き返す間もなく、目の前の女性はマシンガントークならぬ勢いで話し出す。

「あたし、由香里ちゃんには本当に感謝してるのよー。一番最初にさんこに話しかけてくれて。その節は本当にありがとうね!」
「は、はあ……?」
「あ、教室に入るのね? 開けてあげる」

 さんことは誰なのか。
 そう聞く間もなく、女性はゴミ箱を抱えている由香里を気遣って、教室の扉を開けてくれた。ぺこっと頭を下げながら、由香里は中へ入った。このままこれで終わりなのかと思ったのも束の間、女性は由香里と共にガンガン教室の中へ入ってきた。

「もうすぐクラス替えねー。さんこったらね、由香里ちゃん達とクラスが離ればなれになったらどうしようっていっつも愚痴ってくるのよ。本当に心配性な子よね、二クラスしかないのに、そうそうクラスなんか離れないってのに」
「あっ、置いていくなよ!」

 ようやく健介から離れ、男性も慌てて教室の中へ入っていった。クラス中の好奇の視線を二人締めしているとは、彼らは興味もないようだ。

「さんこはどこだー? って、あ!!」

 教室に大声が響き渡る。その声に、ビクリと肩を揺らしていたのは、男女二名の不審者に対し、不自然に背を向けていた生徒――。

「修平! お前そんなところにいたのか!」
「仁科っ! 久しぶりじゃない!」

 色めき立ち、自分たちに背を向ける修平に駆け寄る男女二名。

「お前冷たい奴だよなー。全然見舞いに来てくれないじゃん」
「そうよそうよ。手土産持って来るのが普通でしょうに!」
「お前達……それよりもどうしてこんなところに」

 うんざりしたように口を開く修平に、あっと思ったのは由香里達の方だ。
 彼は二人のことを知ってるんだと、ますます疑問が膨れ上がる由香里と美樹、そして健介。

「どうしてって、さんこに会いに?」
「サプライズだろ、サプラーイズ! 病院でずっと退屈してたんだ、このくらいしても罰は当たらないだろ?」
「だからってなあ……」
「――ニハ、イチ?」

 教室の前方の扉。そこから、呆然としたような声があがった。本当に小さな声だったが、「さんこ」関係のアンテナは常にビンビン張っている二人のこと、すぐに喜色をあらわにすっ飛んでいった。

「さんこ! 久しぶり!」
「びっくりした? びっくりしただろ!?」

 他教室の掃除から戻ってきた三子は、すぐに大きなニハとイチに埋もれた。

「う、うん……。どうして学校にいるの? もう大丈夫なの?」
「見れば分かるでしょ? よーやく退院したの!」

 ニハは胸を張ってそう宣言した。しかし三子は訝しげに首を傾げる。

「でも、退院は一週間後って聞いてたけど」
「ニハが病院側に無理に掛け合ったんだよ。もうこの通りピンピンしてるから、退院早めろって」
「何よ、あたし一人のせいにするわけ? あんただってあたしの後ろでやいのやいの言ってたじゃない」
「あー、なるほど」

 容易にその光景が頭に浮かび、三子は半目になった。きっと、担当の医者や看護師には、多大な迷惑をかけてこちらにやってきたのだろう。

「三子ちゃん……その方達は?」

 そのとき、躊躇いがちな声が後ろから降りかかった。慌てて振り返ると、困ったような笑みを浮かべて小西が立っていた。扉の前で立ち往生している彼女を見て、三子は慌てて横に身をずらした。

「す、すみません!」
「ううん、それはいいんだけど……」
「小西先生、こんにちは!」
「こ、こんにちは……?」

 無邪気に挨拶をされ、小西は思わず返事をした。そして同時に思う、この人、知り合いだったかしら、と。
 そのときになって、三子はようやく周囲の目に気がついた。自分たち三人を見る、教室中の物珍しそうな視線。その中には、由香里や美樹、健介までいる。修平はというと、俺は関係ないからなとでも言いたげな顔で明後日の方向を向いていた。

「ちょ、ちょっと二人とも!」

 三子はかがみ込み、二人に小声で尋ねた。

「みんなに変なことしてないよね? 言ってないよね?」
「ん? してないしてない」
「言ってない言ってない」

 ヘラヘラと笑ってそう言うニハとイチ。だが、三子はどうも素直に信じられない。この二人が、何もしてないはずはない、と。

「ね、そんなことよりもさ、お母さんとこにも行ってみない? きっと驚くわよ」
「おっ、いいねいいねえ!」

 三子を差し置いて、盛り上がるニハ達。三子は浮かない顔で苦言を呈した。

「でも、お母さん今は仕事中だよ? 邪魔になっちゃうんじゃ……」
「ちょっとぐらいなら許してくれるわよ! サプライズ、サプライズ!」
「一度くらい許してくれるって! ちょーっと覗くだけじゃん、大丈夫、大丈夫」
「だからって……」
「ほら、そうと決まれば行くわよ!」

 ニハは高らかに宣言すると、三子の首根っこを掴んで廊下に出た。三子は咄嗟に反応できなかったが、すぐに我に返ると、ジタバタもがきだした。

「私! まだ終礼が残ってるから!」
「いいじゃんそんなの。残りが終礼だけなんて、もう学校は終わったも同然だろ?」
「よくない!」

 三子は一際大きく叫ぶと、ニハの腕から抜け出した。再び教室に戻り、ジトッとした目で二人を見つめた。

「終礼が終わるまで待ってて。私、そういう所きちんとしたいから」
「んもう、頭が固いのねえ、あの子ったら」
「仕方ねえな。暇つぶしに俺たちは学校の中散策でもしようぜ」
「そうね」
「…………」

 やれやれと首を振りながら廊下を歩いて行く二人を見て、三子はむしろ帰らせた方が良かったかもしれないと嫌な予感しかしなかった。たった十分程度の終礼の時間だが、あの二人が校内にいると考えるだけで、何かやらかすのではないかと頭が痛くなってくる。

「あの……お騒がせしました」

 教室に向き直ると、三子はしずしず謝罪を述べた。騒がしくしてしまったことと、終礼の時間が遅くなってしまったこと二点についてだ。そのほかにも、ニハとイチに気分を害したのかも知れないということも兼ねている。何しろ、あの二人は良い意味でも悪い意味でも強烈だ。何か変なことでも言われてないか、とチラッと三子は由香里達の視線を投げかけた。が、返ってくるのは、困惑したような愛想笑い。
 ――絶対何かした。絶対に変なこと言った!
 三子は顔を真っ赤にしながら、恐る恐る席に着いた。針のむしろのようなこの状況に、三子はやはりあのままニハ達に連れられたままの方が良かったかも知れないと思わずにはいられなかった。

「じゃ、じゃあ終礼を始めましょうか」

 ぎこちなく小西が口を開いた。三子のことを案じてか、先ほどのことには触れないつもりのようだが、むしろ話題に出してくれた方が三子は有り難かった。あの二人は誰かと問われた方が、姉と兄が大変失礼しました! と謝れるからだ。
 始めはぎこちない雰囲気のまま始まった終礼だが、終わりが近づく頃には、先ほどのゴタゴタも忘れ去られ、和やかな空気が戻ってきた。

「じゃあ、みんなさようなら」
「さようなら!」

 ようやく長い十分も終わり、生徒たちは皆思い思いに帰り支度を始めた。三子も慌てて鞄を整理し、立ち上がる。こうしている間にも、あの二人が何か問題ごとを起こしているのではないかと気が気でなかった。

「三子ちゃん!」
「えっ!」

 突然声をかけられ、驚いた三子は、咄嗟に顔を上げたその先に、由香里が立っているのを見てサーッと血の気を失った。どことなく緊張した表情の彼女に、嫌な予感が舞い戻る。

「えっと……あの二人に何か変なことされた?」

 言われる前に先手を打とうと三子は恐る恐る尋ねた。しかし、三子の恐れとは裏腹に、由香里はあっけらかんと首を振った。

「変なこと? されてないよ? 三子ちゃんと仲良くしてくれてありがとうって言われた」
「そ、そうなの?」
「随分仲よさそうだったね。親戚の人?」
「あっ、ううん……」

 三子は首を振って頬を赤らめた。――初めてなのだ、実際に口にするのは。

「私の、お姉ちゃんとお兄ちゃんなの」
「そうなの? 三子ちゃん、兄弟がいたんだ!」
「うん、実は」

 お姉ちゃんとお兄ちゃん。なんて甘美な響きなんだろう。
 小さく頷く三子だが、その行動と反して、心はムズムズして仕方がなかった。自分でも分からないが、急に叫びたくなったのだ。あの二人が、私の姉と兄だと。宣言したくなったのだ、みんなに。ニハとイチが戻ってきてくれたんだと。

「終わったかー? 行こうぜ、さんこ」

 当たり前のように、教室の扉に寄りかかって自分のことを待ってくれているイチ。

「早く早く。あたし達が担任したってこと、お母さんに連絡が行っちゃったらサプライズも何もないでしょ」

 何気ない動作で、自分に手を差し出してくれるニハ。

「――うん」

 三子はその手を取ると、廊下に飛び出した。そうして足を踏み出した矢先、思い出したことがあって教室を振り返った。

「由香里ちゃん、美樹ちゃん、紹介するね」
「ん?」
「二人ね……私のお姉ちゃんとお兄ちゃん」
「うん……?」

 なぜもう一度同じことを口にしたのか。
 由香里は不思議そうに首を傾げたが、三子は構わなかった。ただ自分がそうしたかっただけなのだ。みんなに、この人達が私の兄弟なんだと自慢したくて。

「由香里ちゃん、これからもさんこと仲良くしてあげてねー」
「美樹ちゃんも、さんこが苦労かけると思うけどごめんな!」
「は、はあ……」
「馬場! あんたはさんこに面倒かけさせないでよね! いつもいつもゴタゴタに巻き込まれて!」
「修平、また今度遊びに行くから、そのときはよろしくな」
「はい……?」
「も、もう止めてよ、恥ずかしい……」

 大人しく頷く者と、何を言われているのかさっぱり分からないまま首を傾げる者、そしてまた騒がしい三人がやってくるのかと己の今後を悲観する者。
 様々な反応に見送られつつ、三子達は教室を後にした。
 妹馬鹿な姉たちを披露してしまったようで、三子は少しばかり――いや、かなり恥ずかしかった。
 こんなはずではなかったのに。ただ自分の兄と姉を自慢したかっただけなのに。
 三子も似たような思考回路をしながら、夕暮れ時校門へ向かって歩く。右手にはニハ、左手にはイチと共に。

「ほんっとかったるかったよなあ、病院生活。好きなものも食べられないし、量も少ないし」
「本当に。ねえ、さんこ、あたし達の退院祝いに、何か奢ってよ」
「えっ!? 妹にたかる気なの?」
「なんて言い草! お姉様とお兄様の退院よ? 妹ならそれくらいする義務はあるわ」
「そうだそうた! 俺ステーキがいいなあ。ステーキセット!」
「あたしはパフェが食べたい。甘い物全然食べられなかったのよねえ」
「私、そんなにお金持ってないんだけど……」

 呆れたように三子が呟けば、彼女の口から、白い吐息がふわっと宙に浮かんで消えた。
 まだ二月中旬の日南市は、ひどく冷える。
 手袋もマフラーもしていない三子だったが、全然寒くはなかった。右腕はニハ、左腕はイチの腕にしっかりと掴まっているのだから。

「ほらほら、早く行くわよー。お母さんとこに行った後、カフェにでも寄りましょう」
「ええっ、俺のステーキは?」
「また今度ね」
「ひっでー!」

 端から見れば、連行されている犯罪者さながらだが、三子はこれでも、通り過ぎる通行者達に自慢しているつもりだった。

「仕方ないなー。今回だけだからね? 私だってそんなにお金持ってないんだから」

 話せるし、触れるし、抱き締めてもらえるし、遊びにだって行ける。喧嘩もするかもしれないが、口と手と足がある今、仲直りだって簡単だ。

「よっしゃ、さすがはさんこ!」
「それでこそあたし達の妹だわね!」

 私のことを大切に思ってくれて、見守ってくれて、いつも助けてくれる。
 そんな二人は、私のお姉ちゃんとお兄ちゃんだと!