70:私の涙じゃない
重いリュックを背負っての登山は、普段運動しない理恵子にとって、なかなかに厳しい行程となった。すぐに息は上がり、寒いだろうからと厚着をしてきた格好は、やがて暑苦しく思うようになった。しかし、脱いだとしても荷物になるだけである。仕方なしに、理恵子は額に汗を浮かべながら、山道を登るしかなかった。
霊感のない理恵子にとって、伊礼山は特別怖い場所でも何でもなかった。しかし、調べるうちに、霊感のない人間でも、場合によっては霊に取り憑かれることもあるのだということを知った。
その辺りの霊に取り憑かれるために、わざわざ伊礼山まで行くわけではない。
伝手を頼りに、理恵子はあらかじめ霊に憑かれにくい護符や水晶玉、聖水を大量に買い込んでいた。その効果があったのかは分からないが、今のところ、彼女は無事山を登り続けることができていた。霊感のない彼女には、今周りがどんな状況なのか、それすらも分からないのだ。
やがて、分かれ道にたどり着いた。右は頂上への道のりで、左には展望台があると書かれていた。
昔、伊礼山は、一般人も自由に行き来できる山だった。しかし、立地が好まれたのか、時が経つにつれ、山に霊が住み着くようになり、やむなく仁科家と矢代家がそれぞれ麓から結界を張り、一般人といえども容易には入れないようにしたのである。そのかつての名残で、今もなお、展望台が残っているのだ。とはいえ、もう随分手入れもされていないだろうから、この立て看板同様、ボロボロなのだろう。
「…………」
理恵子は、看板の前でしばし熟考した。頂上へ行くべきか、それとも展望台へ行くのか。
ハッキリ言って、展望台に興味はない。しかし、かといって、頂上へ行ったところで、何をするというのか。
理恵子の望みは、二葉と一也が姿を消した場所に行ってみたいという、ただその望みだけだ。遺体も見つかっていないというのなら、もしかしたら生きているのかも知れない。死んだ魂が死に場所へ戻ってくると言うのなら、二葉と一也もこの山にいるのかもしれない。
そのどちらでもいい。とにかく、理恵子は行ってみたかったのだ。どんな姿でもいい。どんな些細なことでもいい。何か、二人のことについて知れるのであれば、どこへだって。
二葉と一也が、伊礼の滝付近で姿を見失ったという情報は得ていた。肝心の伊礼の滝がどこにあるのかは分からないが、しかし、展望台と名がつくからには、もしかしたらその近くに滝があるのかも知れない。
もし間違っていたら、引き返せばいい。
そんな甘い考えで、理恵子は左への道を行った。
展望台には、一時間ほど歩いてたどり着いた。もうその頃には辺りが真っ暗になっていたため、理恵子は展望台の近くで野宿することにした。
もともと、伊礼山は順調に歩き続けて、一泊二日の行程なのだ。だからこそ、焦りは禁物だ。伊礼の滝は近くに見当たらないが、また明日、来た道を戻ってみようと理恵子は考えていた。
リュックを背負ったまま、念のため彼女は展望台を見て回った。予想通り、展望台は荒れ果て、あちこちに野生動物が荒らした痕や、木の葉や木の枝で散らかっていた。もう随分誰も来ていないのだろう。ベンチには人の座った痕もない。
展望台で寝泊まりすることも考えたが、結局理恵子は、自分でテントを張ってそこで寝ることにした。展望台のしっかりとした屋根や風よけは非常に魅力的だが、自分の寝るすぐ側には、霊を退けるための結界を張らなくてはならないのだ。展望台だと、広すぎて四方八方に限りのある護符を張るわけにも行かないし、かといって展望台の中でテントを張るのも、視界が狭まるという意味では却下だ。結局、吹きさらしの崖近くで寝るしかないのだ。
テントを張った後、四方に護符を貼り付けた。そうしてもそもそと携帯食を食べ、簡単に片付けた後、理恵子は早々に寝ることにした。日中ずっと歩き通しで、想定していた以上に疲れたのだ。
吹きすさぶ風の音を聞きながら、理恵子はうつらうつらとしていた。だが、不意にパチリと目を開くと、リュックをごそごそして、中から水晶玉をとりだした。
見た目は、なんてことないただの透き通った玉だ。しかし、これを覗くと、霊感のないものでも霊を見ることができるという優れものでもあった。もちろん、ハッキリとした姿が見えるわけではない。しかし、霊力のあるもの――霊はぼんやりと黒く映るのだ。
――これを見たからといって、何か状況が変わるわけではない。水晶玉越しに幽霊を発見しても、霊力のない理恵子にはどうすることもできないのだ。
しかし、なんの危機感もないまま、ただ馬鹿みたいに寝ているのは嫌だった。もし近くに危険があるのなら、せめて自覚をしていたい。
テントから這い出ると、理恵子は片目をつむり、そうっと水晶玉を覗いた。周りは真っ暗で、すぐ近くのライトの明かりだけでは、思うように見えない。
しかし、しばらくそんなことをやっているうちに、暗闇に目が慣れてきた。一層目を細めて水晶玉を見つめるが、何も変化はない。――と、思っていた。
水晶玉の中で、靄が動いた。その瞬間、周りで蠢くものたち。
背筋が凍る思いだった。
――水晶玉越しに、ただ外の宵闇を眺めているだけだと思った「それ」は、暗闇ではなく、霊本体だった。向こう側が見えなくなるほど埋め尽くされた黒い物体達は、時折理恵子の呼吸に合わせてぬるりと身じろぎする。
これだけの幽霊が、近くに……?
害はないのだろうか。
早鐘のように鳴り響く胸に手を当て、理恵子は慎重に辺りを見回した。
目に見える世界には、何も変化はない。だが、水晶越しに覗くと、こんなにも視界に変化が現れる。
「――っ」
生唾を飲み込むと、理恵子はいそいそとテントの中に戻り、きっちり入り口を閉めた。
「大丈夫、大丈夫……」
結界を張ってあるから、ここは大丈夫。
そう言い聞かせて、理恵子は寝袋に潜り込んだ。震える身体を、無理矢理両腕で押さえ込む。
――こんな恐怖を、二葉と一也も味わっていたのだろうか。
理恵子はふっと自嘲の笑みを浮かべた。
七年も経って、ようやくその事実を知るなんて。
後悔と自嘲、悲しみと憤懣がない交ぜになる。理恵子は無理矢理にでも目をつむった。明日に備えて睡眠をとらなければならないのだ。周囲を例に囲まれていても、その事実は変わらない。
――そう間をおくことなく、理恵子は眠りについた。霊に対する恐怖はあったが、それ以上に身体が疲れていたのだ。糸が切れたように眠りにつき、そして時が流れた。
「くっ……」
突然の息苦しさに、理恵子はハッと目を覚ました。が、だからといって息苦しい状況は変わらない。混乱する頭で周りを見渡してみても、寝る前とどこか変化があるわけではない。にもかかわらず、この息苦しさ。
酸素が頭に回らず、理恵子は無意識のうちに喉元に手をやった。ぽっかり開けられた口から、自分の体内から湧き出る酸素だけが出て行く。
咄嗟に、どこかで読んだ本のことを思い出した。
――結界は、諸刃の剣でもある。結界を破られた後、そこは一転、霊達の蔓延る住居となり得る――。
理恵子は、咄嗟に枕元のリュックを掴み、テントから這い出した。月の光が目に入ったと思った瞬間、ようやく酸素が理恵子の肺に飛び込んできた。慌てて呼吸を繰り返す。
肩で息をしながら、理恵子はよろよろと後ずさった。
目には見えないが、もう水晶玉で確認する必要がないと悟るくらいには、肌で感じ取っていた。辺りの重い空気、不穏な風、驚くほど静かなこの場所。
霊感がないからといって、これほどまでに証拠が揃っていれば、気づかないわけがなかった。
霊が結界を破り、そして、私を狙っているんだ。
唾を飲み込む暇もなく、理恵子はリュックを背負い、きびすを返して歩き始めた。もうここにはいられない。先へ進まなければと。
だが、その意志に反して、足取りは妙に重たくなっていく。まるで、背中に何かがしがみついているような重たさ。身体全体もけだるくなっていく。足取りはどんどん遅くなっていき、ついには理恵子はその場に蹲ってしまった。
――リュック。リュックから護符を取り出さないと。
そうは思うのに、手足が動かない。まるで何かが自分の中に入り込んでくるような、そんな異物感を感じ、理恵子はその場でえずいた。しかし、喉元からせり上がってきたのは、胃液だけだ。それだけでは、この異物感は取り出せない。
理恵子は、蹲ったまま動かなくなった。動けないといった方が正しいが、それ以上にもう諦めてもいた。
ここでこうなるのが自分の運命だったんじゃないか。むしろ、もっと早くにこうなるべきだったのに。
そんな思いが頭の中を駆け抜け、もう何もかもがどうでも良くなったのだ。しかし、そんなとき。
「お母さん!」
気のせいだろうか。
薄れゆく意識の向かう側で、三子の声を聞いた気がした。
「お母さん、大丈夫!?」
しかし、それは幻聴ではなかった。三子の声と共に、肩に手を置かれる感触がした。
「み、三子……?」
信じられない思いで理恵子は顔を上げたが、そのときにはもう三子は理恵子の方を向いていなかった。キッと目の前を睨み付けると、右手を大きく掲げる。
「大勢で一人をよってたかっていじめるなんて卑怯よ! 見てなさい、思い知らせてあげるから!」
いつもの三子にしては、似つかわしくない口調。
なぜか突然爆風が吹き荒れ、目の前が荒れ地に変わる。なにが何だか分からなかった。
「ったくもー、どうして数だけはこう多いのかな!」
三子は腕を組んで困ったようにため息をついた。彼女のそのなんてことない仕草に、もう一人の面影が重なったのは偶然か。
「……二葉?」
理恵子の声に、三子の肩がピクリと震えた。
「二葉? 戻ってきてくれたの?」
自分でも何を言っているか分からない。ただ、言葉が出てくるのだ。
三子の後ろ姿に、なおも声をかけようと口を開きかけたが、それよりも早く、三子は宙に向かって話し出した。
「ちょっとイチ、あたしそろそろ疲れてきたんだけど。交代してくんない?」
――どうして、三子の口からその名が出てくるの。
目の前にいるのは、確かに三子なはずなのに。
「よっしゃー、久しぶりの身体! 大暴れしてやるよ!」
突然また口調が変わった。まるで男の子みたいな口調。
ドカンドカンと吹きすさぶ砂埃に、理恵子は生理的な涙を浮かべた。涙と砂煙で前がよく見えない。
「一也……よね?」
恐る恐る呼びかけた理恵子。後ろ姿でしか分からなかったが、砂煙の中のシルエットが盛大に動揺するのが見えた。
「え? あっ……や、違うけど?」
おどおどと上や下に顔を向ける三子。しかし、仕草までは隠せていなかった。困ったときは、いつも首に手を当てて話すあの子の癖。
「ふ、たば……かずや……?」
馬鹿だと思われても仕方がない。頭が狂ったのかと言われても言い訳のしようもない。
三子が、二葉と一也に見えるなんて、そんな頓狂なこと、誰が信じるというのか。
「私……私がおかしいのかしら……」
目の前にいるのは三子なのに。それは変わらない事実なのに。
もう一人の娘と息子が重なって見えるのは、どうして。
「お母さん」
三子が目の前に立っていた。彼女はしゃがみ込むと、理恵子の肩に手を置く。
「大丈夫?」
これは――誰だろう。本当に三子なのだろうか。もしかして、この三子事態が幻なのでは。
「三子、どうして泣いてるの……?」
理恵子は震える手を伸ばし、三子の頬を触れた。えっと三子は戸惑いの声を漏らし、己の涙に触れた。まるで、今初めて気づいたとでも言うかのように。
「これは私の涙じゃないよ」
確信を持った言い方で、三子は言い切る。困惑する理恵子に、三子は微笑んで見せた。名残で今もなお流れ出る涙を、三子は拭おうともしない。
――だってこれは、大切な証だ。
私とニハ、イチの三人が兄弟で、お母さんとニハ、イチが親子だっていう、大切な証。
――正真正銘この涙は、ニハとイチ、二人の想いだから。