65:ついて行こうぜ


 あれは、誰が言い出したことだっただろうか。

 ……いや、今更ながらそのことが分かったとしても、あたし達の中で誰も、その当人を責めることはないだろう。
 仕方がなかった。本当に、仕方のないことだったのだ。誰の責任でもない、本当に、運の悪い出来事だったとしか言えない。
 でも、強いて言うならば、どうしてあのとき、野営地を抜け出すのを我慢しなかったのか、と自分を責める気も湧いてこないわけではない。本当ならば、他でもない年長者だったあたしが、二人を止めるべきではなかったのか、と。でも、今更それを口にしてももう遅い。それに、あのときのあたしは、全然悪いことをしているという自覚がなかったのだ。

 何か、楽しいことがしたかった。子供らしい遊びはいつもできなかったあたし達。朝早く起きて修行、学校が終わっても修行。霊力に差があるあたしとイチは、二人一緒に修行することもなかった。だから、夜遅く、くたくたになって家に帰ってようやく、兄弟三人が顔を合わせることができたのだ。でも、まだ幼いさんこは、もうその頃にはとうに寝る時間が訪れており、満足に遊ぶ前に、母によって寝かせられた。あたし達だって、学校の宿題をそれからやらなくてはいけないのだ。だんだん、欲求不満が溜まっていた。

 そんなとき、みんなで伊礼山に登るという話を聞いたのだ。一泊二日の登山。あたし達は、その言葉に、楽しそうな響きしか感じなかった。だからこそ、さんこが自分も行きたいとだだをこねたとき、躍起になって援護に回ったのだ。さんこも行かせて欲しいと。さんこが行かないのなら、あたしだって行かないと。
 あたしは――おそらく、イチもそうだろう――年の離れたさんこが可愛くて仕方がなかった。舌っ足らずににーに、いっちゃんと呼んでくる声、目を輝かせて修行の様子を絶賛する姿、いつも自分たちの後をとてとてとついてくる様。年の近いイチは、修行におけるライバルでもあったけど、何の力もないさんこは、あたしが守るべきか弱い妹だった。

 そんな彼女を、せめて、一日二日の間だけでも、楽しませてあげたかった。一緒にいたかった。だからこその、行動だったのだ。ほんの出来心だったし、すぐに戻ってくるつもりだった。でもそれが、甘い考えだったとは思いも寄らずに。
 野営地を抜け出すことは、ずっと前から計画していた。リュックにはお菓子とジュースを一杯詰めて、道に迷った場合の方位磁石も入れて。さんこの提案で、星座早見表も持って行った。幼稚園で星座をいくつか学んだらしく、実際に見たいとのことだった。
 さんこが望むことはなんでもしてあげるつもりだったし、その願いを叶えられるだけの自信はあった。

 伊達に修行は積んでないし、周りの大人達よりも、あたしが強いことはもうとっくの昔に証明済みだった。

 何事もなく終わるはずだった。伊礼山の幽霊なんて、手こずるほどでもないし、イチも一緒だったから、無敵だと思っていた。
 でも、それが間違いだった。あたし達はまだ経験の浅い子供に過ぎず、予想だにしない事態に、動揺もするし、選択も誤ってしまう。そのことが、全く分かっていなかったのだ。
 皆が寝静まった頃、あたし達は野営地を抜け出した。交代で見張りは立っていたが、その見張りというのも、外からやってくる幽霊達に対するものだし、中から誰かが抜け出すなんて思ってもいなかった彼らの目は、簡単にごまかすことができた。
 あたしが先頭で、さんこが真ん中、リュックを背負ったイチがしんがりで、山道を歩いた。
 クリスマスが目前に迫ったその日は、凍えるように寒かったことを覚えている。雪は降っていなかったが、冬の夜――しかも山奥――は、想像以上に寒かったのだ。だが、その分星はよく見えた。山奥の澄んだ空気は一層星を綺麗に見せていたし、ここにいるのは自分たちだけだという開放感も、より一層非日常感を際立たせていた。

 伊礼の滝まで登った頃だっただろうか。

 辺りが突然開けた場所に出たので、そろそろいいだろうと、あたし達はそこで星を見ることにした。さんこが眠そうにしていたので、早めに終わらせた方がいいという判断もあった。
 リュックからお菓子やジュース、星座早見表を取り出して、さんこの前に並べた。さんこは嬉しそうにそれらに手をつけながら、星空と早見表とを見比べていた。
 字も読めないくせに、四苦八苦して早見表を解き明かそうとしている様は、可愛かった。あたしもイチも、横からあれやこれや口を出しながら、一緒に星を眺めた。イチなんか、この日のために星座を勉強してきたのか、得意げに星座の名を次々と声に出していた。純粋なさんこがおだてるものだから、余計にイチが調子に乗って、星座のうんちくまで語る始末。あたしは斜に構えながらその話を聞いていたけど、思いのほか面白かったイチの話に、自然に聞き入っていた。

 どれだけ時間が経っただろうか。

 三人で毛布にくるまって星座を眺めていたわけだけど、芯から身体も冷えてしまって、そろそろ帰ろうかという頃になった。――そんなとき、事件が起きたのだ。
 あたしとイチは、帰る準備をしていた。さんこに頭から毛布をかぶせたまま、リュックにお菓子とジュースを詰めていた。眠気と疲労とで、油断していたのだと思う。いや、でも実際はそれだけじゃなかった。完璧に、気がつかなかったのだ。いつもならすぐに気づくはずの霊力の気配に。
 気がつけば、さんこがうなり声を上げていた。まるで、獣のようだった。知性もなく、ただ生きるために命を食らう獣のように。
 うなり声は、やがて甲高い笑い声に変わった。そして「さんこ」が身を翻したかと思うと、とんでもない速さで走り出した。あたし達は一瞬ひるみ、すぐに追いかけようとした。

『――にーに、いっちゃん!』

 でも、同時に怯えたような声が空から振ってきた。聞き覚えるある声、文句に、ハッとして顔を上げれば、遙か彼方に、さんこの魂があった。
 微かにさんこの姿を形取った霊体――。
 瞬時に、祖母からの教えが頭をよぎった。志藤家の体質、性質のこと、それを、さんこが色濃く受け継いでいるのだと言うこと――。

「イチ! さんこの身体、あんたに頼んだわよ!」

 自分の意志に反して天へと昇っていくさんこの魂。このままだと、さんこが強制的に成仏してしまうと思った。

「分かってる!」

 すぐに返ってきたイチの頼もしい返事。足の速いイチは、すぐにさんこに追いつくだろうし、彼の力も信頼していたあたしは、完璧にまだ状況を甘く見ていた。
 抵抗のないさんこの身体を乗っ取るだけなら、力のない幽霊にだって簡単なことだ。だが、その身体を使いこなせるかどうかは全くの別問題なのだ。今まで幽体だった身分で、実際に生身の身体で霊力を使うことは、事実難しい――。
 あたしは、慌ててリュックから水晶玉を取り出した。縁を引きつけることのできる玉で、除霊したばかりで縁の千切れた霊や、不安定な霊を中に閉じ込めることができるものだ。今回、『器』であり、誰かに身体を乗っ取られる心配のあるさんこのために、あたし達は余計目にたくさん持ってきていたのだ。
 まだそう使ったことのない水晶玉を使うのは、ひどく不安だった。でも、このままじゃさんこが成仏してしまう。

「さんこ! こっちへおいで!」

 あたしはぎゅっと水晶玉を握りしめると、大きく天に掲げた。 ――細心の注意が必要だ。中に閉じ込められる霊体はたった一体。さんこと共に、余計な霊を引き込んでしまえば、水晶玉が壊れ、さんこの魂もろとも砕け散ってしまう。

『いやああああっ!』

 さんこは盛大に叫び声を上げて水晶玉に向かってきた。彼女に後ろには、うようよと伊礼山をうろつく霊体たちもいる。
 ――大丈夫、できる。
 あたしの妹だもの。他の幽霊なんかと見分けがつかなくっちゃ、姉失格よ!
 水晶玉を使って、これだと思った縁を強く引っ張った。周りの幽体たちよりも、一際ぐんと前に出たさんこの身体を掴み、水晶玉の中に閉じ込める。気配を感じてあたしがハッと顔を上げれば、行き場を失った霊体達が、勢い余ってそのままあたしの方へ向かってくるところだった。
 何体もの霊体が自分の身体にぶつかって、通り抜けていく。その感覚は、いつ味わっても心地いいとは言えないものだったが、あたしはギュッと身体を縮こまらせ、そのときが過ぎるのをただ待った。両手に水晶玉を閉じ込め、身体の中心で守るようにじっとして。
 ようやく霊達がちりぢりになると、あたしは両手を開いて、透明な水晶玉を見つめた。見た目にはあまり分からないが、確かに手の中にずしりとさんこの分だけの魂の重みが感じられた。

「さんこ、良かった……」

 思わずあたしは微笑んだが、すぐにまた立ち上がった。すぐにイチの援護に行くつもりだったのだ。

「イチ!」

 どこまで行ったのか、イチの姿は見当たらなかった。息を切らして走り回りながら、弟の姿を探す。
 だが、「それ」を見たとき、あたしの呼吸は止まった。信じられない思いで茂みに分け入る。
 やがて全貌が明らかになり、あたしは嫌な予感が当たったことを悟った。
 ――茂みからわずかに飛び出した靴は、イチのものだった。イチはうつ伏せに力なく倒れ込んでおり、びくりともしない。
 しゃがみ込み、あたしは思わずイチに触れようとしたが、その時、くつくつと押し殺したような笑い声が耳に飛び込んできた。顔を上げれば、大きく顔を歪めた「さんこ」がいた。

「――っ、このクソ野郎!」

 一瞬で頭に血が上り、あたしは強く地面を蹴った。
 こんな奴にイチが負けたことが信じられなかった。何より、こんな事態を想定していなかった自分自身に腹が立った。
 だが、薄く笑う「さんこ」に到達する前に、どこからともなく、辺りからぶわっと幽霊達が現れた。霊力の少ない、低レベルな幽霊達だ。――だからこそ、気づかなかった。
 伊礼山には、ほんの少しだが、霊力が漏れ出している。その霊力が霧となって、常時伊礼山を覆っているのだ。霊力が少ない幽霊だと、その分気配に気がつけない。これほどまでに大量の幽霊達が忍び寄ってきていても、全く気がつかないのだ。

「邪魔ね!」

 だが、それでも彼らが弱いことには変わりない。いくら大勢集まったからと言って、一人一人が微々たる霊力ならば、あたし達の敵ではない!
 周囲の霊を一掃し、あたしは「さんこ」の前に立った。彼女もまた、ほんのわずかな霊力しかない。顔を歪め、あたしに対して霊力を放ってきたが、あたしはそれを交わしもせず自分の霊力で応戦した。ぶつかり合った霊力は、強靱なあたしの力に全て吸い込まれ、地面に激突した。

「さんこから出て行け!!」

 あたしが詰め寄れば、「さんこ」が怯えて一歩下がり、足下の石に躓いて尻餅をついた。

「いたっ……」

 思わずと言った様子で「さんこ」の口から漏れ出たのは、当たり前のようにさんこの声だった。それに気をとられたのは、一瞬――いや、結構な時間だった。怯えたようにあたしを見上げる「さんこ」に、怯んでしまったのだ。
 力尽くでも、この霊に対して勝つのは容易だ。だが、その身体は紛れもなくさんこのもの。中身は倒すべき幽霊でも、身体はさんこなのだ。

 さんこを傷つけてしまったらどうしよう。力の加減を誤って、死なせてしまったら?

 その一瞬の戸惑いが命取りになってしまったのだろう。
 きっと、イチもそう思って油断してしまったのではないか。
 そのことにようやく思い至ったとき、もう時すでに遅かった。素早い動きで「さんこ」にタックルされ、あたしは地面に背中をしたたか打ち付けた。一瞬呼吸ができなくなった隙に、「さんこ」に馬乗りになられる。

「お前も器か? こいつほどではないが、その片鱗を感じる」
「ぐっ……!」

 細い、小さな「さんこ」の指が、あたしの首にかけられる。躊躇いを振り切り、彼女に霊力を放とうとあたしは右手を掲げたが、周りの霊がそれを許さない。個々は微々たるものでも、集まった霊力は強力なものだ。縫い付けられたように右手は動かなくなり、すぐに焼け付くような感覚が広がった。
 ろくに抵抗もできないまま、幽霊達があたしにのしかかってきた。ずぶりと異物感が侵入してくるような、そんな不快感が押し寄せる。反射的に何度もえずき、しかしそのたびに押し戻される。
 苦しそうな声に、顔を横に向ければ、同じように幽霊に取り囲まれているイチの姿が目に入った。彼もまた、『器』の見込みありと、その身体を求められているに違いない。
 あたし達は、抵抗の術を知らなかった。今の今まで、自分たちに『器』の体質が受け継がれていることを知らなかったし、自分の中に侵入しようとしてくる霊達を、どうやって押し返せばいいのか分からなかった。

 ただ、なすすべもなく異物を迎え入れるしかなかった。

 あたしの身体なのに。どうして奪い取られないといけないのか。
 悔しくて堪らなかった。油断さえしなければ、こんな奴らには負けなかったのに。
 ぼうっと意識が遠のいていくのを感じた。ヴェール越しに見ているかのように、うっすらと周囲の景色がぼやけていく。自分の身体から、魂が離れてしまったのだとあたしはそのときになってようやく理解した。
 幽体となった者の中で、幽霊として現世に留まる者の数は少ない。強い精神力か、よっぽどの未練がなくては、そのまま成仏してしまうのだ。
 だからこそ、そのとき咄嗟にそんな行動が取れたのは、ただの余韻だったのだろう。魂が身体から離れたばかりのあの瞬間、あたしたちの強いさんこへの思いが、そのまま意志となって返ってきた。

 ――生身の身体と幽体では、霊力の使い方に大きな差異が生じる。

 それでも、あたしは無意識のうちに霊力を放っていた。今はもう乗っ取られてしまったあたしの身体に向かって遠慮なく霊力をぶつけると、不意打ちを食らった「彼女」は、大きくよろめいた。転んだ拍子に手から水晶玉が転げ落ち、あたしはそれを霊力で飛ばし、一気に「さんこ」の口の中に押し込んだ。
 ぐえっと盛大に「さんこ」はえずいた。吐き出そうと彼女はもがくが、もう遅い。身体の本来の持ち主の魂と、盗人でしかない魂が同時に身体の中に存在しているとき――どちらが勝つのかはもう目に見えている。
 水晶玉の浄化効果も相まって、さんこの身体の中に入っていた幽霊は苦しそうに出てきた。髪の毛を逆立てて、あたしを睨み付ける。

『そんな姿になっても抵抗するか!! 所詮お前ももう幽霊でしかないくせに……!』
『そんなの関係ないわよ! 力が続く限り、抵抗するだけ!』

 そう叫びながら、あたしはフラフラと空を飛んだ。重力のない身体が動かしにくいだけでなく、それ以上に、大切な何かが少しずつ奪われているような感覚だった。

『ニハ……』

 同じように苦しそうなイチが、隣に並んだ。見なくても分かった。彼もまた、抵抗する暇もなく霊達に身体を乗っ取られてしまったのだと。
 怒りのあまり、あたしは振り返って霊力をぶっ放した。爆弾のような霊力は、霊達の塊に当たって爆発する。だが、その霊力にいつものような力はなく、すぐに霊達は立ち上がる。イチも援護するよう応戦したが、戦況は五分五分だ。

『……さんこは?」
『少しの間だけなら、さんこは大丈夫。でも長く持つかは分からない。あたし達が引きつけないと』
『分かってる……』

 あたし以上にイチは辛そうだった。幽霊にとっての生命力である霊力を、少しずつ消費しているからだ。
 あたし達はのろのろと、伊礼の滝の脇から続く洞窟へ入っていった。その洞窟は下へ下へと続いていた。あたし達にとってはその方が好都合だった。無理にでも下へ行かなければ、そのまま昇天してしまいそうなくらい疲弊していたのだ。だが、それと共に、あたし達の後を追う霊達の数も少なくなっていく。あたし達の霊力によって倒れてしまったか、恐れをなしたか、それともただの幽霊であるあたし達を追う価値無しと判断したのか。
 ついには霊力も底をつき、頭の中が真っ白になる中、あたしは一つのことしか考えることができなかった。

 願わくば、誰かがこの騒動に気づき、あそこで倒れているさんこを助けてくれますように、と。

 ――あたし達は、もう駄目だから。

 洞窟を抜けた。その頃には、もうあたし達に意志の力はなかった。自分が何者であるかも分からず、ただ天へと召されていった。だんだんと身体が上昇し、成仏への道が目の前に開けているのを感じる。

 未練は、ないはずだった。

 自分が誰かも分からないのに、大切なもののために現世に残るという判断ができるわけがない。
 現世に留まって、辛い思いをするくらいなら、このまま天へ昇って、成仏した方がよっぽど楽なのに。そのことは、充分によく分かっていたのに。

 ――なんで、あたしはその流れに抗っているの? なぜ、あえて辛い方に行こうとするの?

 分からない。でも、この方向に、何かがあると思った。この方向へ行けば、こんなにも強く胸を締め付ける「何か」にたどり着けると思った。
 痛いほどに切なく、懐かしく、愛おしいこの思い。

『あったかい……』

 「何か」にたどり着いた。それと共に、反射的に言葉が漏れ出した。
 これが声というものか。
 あたしはぼんやりそう思った。
 懐かしい何かは、石の中に閉じ込められているようだった。膝ほどの大きさのものだ。
 あたしは両手を大きく広げ、その石をかき抱いた。と同時に、何かをすり抜けるような奇妙な感覚を抱いた。それが何かは分からない。でも、この石と同じように、なんだか懐かしい気配だった。

 時間の感覚は、全く分からなかった。たゆたうように、ただそこに存在している。
 この石に閉じ込められている「何か」は、あたしをあたしたらしめていた。
 ――おかしなことだ。あたしは自分が誰かも分からないのに。
 でも何故だか感じるのだ。この石が、あたしの存在を認めてくれていると。

「三子! もう行くわよ!」

 あるとき、女性の声が辺りに響いた。どこか疲れてそうな、落ち着いた女性の声。

「――うん」

 ついで、幼い声も発せられる。本当に小さな声だった。でも、あたしの耳は、確かにその声を捉えた。

『さんこ……』

 誰かの声とあたしの声が重なった。
 あたしが顔を上げると、「誰か」の顔が目に入った。今なら分かった。その「誰か」は、あたしの弟だった。

『――イチ』
『ニハ……』

 感動の再会ではなかった。
 彼がここにいるのは、当たり前のことなのだから。それでこそ、あたしの弟だと。

『俺たち、死んじゃったんだな』

 イチの寂しそうな声に、あたしは小さく頷いた。

『……でも、さんこは生きてる』
『ああ』
『聞いた? さんこの声、元気そうだった』
『相変わらずおどおどした声だったけどな』

 まるであの頃のように、ポンポンと声が出てきた。随分長く話していなかったのに、不思議とそんなブランクは感じられない。

「お婆ちゃん、またね!」

 再びさんこの声が響いた。それを最後に、遠ざかっていくような足音も聞こえた。

『……帰るのね』
『あいつの家はここじゃないからな』
『また二人だけになるのね』
『そうだな』

 短い肯定。あたしは下を向く。
 胸の中に、戸惑いと希望とがあった。でもそれを口にするには、多大な勇気が必要で――。

『ついて行こうぜ』
『――っ』

 あたしの躊躇いを、イチが言葉にしてくれた。
 あたしは縋るようにイチを見た。

『でもっ』
『あれからどれくらい経ったのかは分からないけど、でもさんこの成長ぶりは気になるだろ?』
『……側にいても、あたし達の姿は見えないし、声も届かないのよ。そんなの、空しいだけじゃない』
『ずっとここにいるのとどっちが空しいと思う? 俺たちが幽霊になって現世に留まっているのには、何か理由があるんじゃないか?』

 イチらしくない言葉に、あたしは混乱して押し黙った。理由なんて、そんなことを言われても、思いつくわけがなかった。
 イチもやがて、困ったように視線を下に向け、頭をかいた。

『……いや、正直、そんな理由なんてなくていい。ただ、俺はさんこを見ていたい。さんこの成長を、側で見届けたいんだ。お前だってそうだろ?』
『……うん』

 除霊する側が、幽霊になってしまった。
 そのことが、プライドの高いあたしの心を、いつまでもチクチク刺激し続けていた。現世に止まり続ければ、やがていつか怨霊と化し、生きている者たちに迷惑をかけることとなるのだろう。――そんなことは分かっている、それでも!
『行きましょう』

 その言葉と共に、あたしは空を飛んでいた。ずっとあたし達のことを守っていた石から離れ、大きく空を飛ぶ。

『置いていくなよ! ったく、こうと決めたら人の話も聞かないんだから』
『駅ってどっちだっけ。まださんこに追いつくわよね?』
『そんなに急がなくたってすぐ追いつくさ。さんこがそんなに早く歩けるわけないだろ?』
『それもそうね』

 さんこの姿は、そう間をおくことなく見つけることができた。どこか怪我をした様子もなく、元気に自分の足で歩いている様。最後に目にした時よりも、わずかながら成長しているようにも見えた。

『――良かった』

 あの後、無事に助けられたのね。
 怪我もないみたいね。
 ちょっとだけ背も伸びた?
 その髪型、似合ってるじゃない。
 お母さんの荷物も持ってあげて、成長したわね――。
 毎日目にしていたはずなのに、ちょっと見なかっただけで、こんなにもさんこは成長している。
 嬉しそうに隣の母と話しているさんこを見て、あたしは心の中で誓った。

 もう二度と、さんこを危険な目には遭わせない、と。

 自分が幽霊だなんていうのは関係ない。人間でも幽霊でも、さんこを守りたい意志に違いはないのだ。

『イチ! ちゃんとついてこれてる!?』
『当たり前だろ! ったく、なんでよりにもよって伊礼山なんかに――!』

 イチが怒鳴るようにして叫んだ。あたしもそれについては同感だった。でも、それ以上に気がかりなのは。

『――さんこ……無事でいて』

 伊礼山への道のりは遠く、もどかしかった。それでも、全速力でイチと共に向かう。
 もう、あんな油断はしない。
 かつての後悔を胸に、あたし達は伊礼山に向けて、真っ直ぐに飛び続けた。