64:一人にしておけない


 気がつけば、父と随分話し込んでいたようで、三子は無意識のうちにぶるりと身体を震わせた。慶史はすぐにそのことに気づき、大いに慌てる。

「寒いか? 悪かったな、気づいてやれなくて。そうだ、これ羽織るか?」

 慶史はいそいそと分厚いアウターウェアを脱いだ。父の脱ぎたてのウェアは、確かにぬくぬくとして暖かそうだが、しかし、一番寒さを防いでくれるであろうウェアを奪い取るなんて、そんな非情なこと三子にできるわけがない。

「ううん、私もう休むからいいよ。そろそろ寝ないと、明日に響きそうだし」

 ポンポンとお尻を叩き、三子は立ち上がった。たき火を囲んでいる大人達は、まだまだ話し合いに熱意を注いでいる。自分一人だけ先に休むのは忍びないが、しかし、かといって夜更かしをして明日の行程で迷惑をかけてしまっても困る。

「そうか、そうだな、それがいい」

 三子を気遣いながら、慶史も立ち上がった。
 どうやら、テントの所まで連れて行ってくれるらしい。そこまで子供じゃないんだけどな、と三子は思う一方で、なんだかむず痒くも感じられた。
 三子は、ニハとイチの記憶もろとも父の記憶もあまりないのだが、きっと、幼い頃もこんな風に優しくしてくれたんだろうと心がじんわり温かくなる思いだった。ずっと母と二人きりで三子は暮らしてきたが、その間、母の愛情を請うだけで一生懸命で、父がいないことに頓着しなかった。父が今それを聞いたら酷く嘆き悲しむことだろうが、しかし三子の方も、もう父の愛情を受ける幸せを感じた今では、彼のいない生活は寂しくなってしまうだろう。
 今回のことが終わったら、母に全てを話すと約束してくれた父。
 それが適ったとして、果たして二人は仲直りをしてくれるのだろうか。
 再婚を望むほど、三子は幼い願望を押しつけるつもりはない。しかし、せめて時折連絡を取るくらいなら、母も許してくれるのではないか。
 父のあの後悔とも悲嘆とも言える思いを聞いたら、母も何か変わるのではないか。
 三子は、そう思わずにはいられなかった。

「――これくらいはまだまだ序の口だな。深夜から朝方にかけて、これからどんどん冷えていくぞ」

 慶史は両腕で自分の身体をかき抱きながらそう発した。己の口から出た白い息が、一瞬上に立ち上って霞んでいく様を眺める。

「温かくして寝るんだぞ。風邪を引いたら困るからな」

 軽く笑うと、慶史はゴツゴツした地面を歩き始めた。

「三子?」

 だが、後ろから続くはずの足音がないことに気づき、慶史は立ち止まった。不穏な雰囲気を感じた気がして振り返ったが、そう時をおかずに安堵の息を漏らした。――三子の姿は、相変わらずすぐそこにあったのだ。

「ぐう……」

 しかし、ホッとしたのも束の間、三子は胸を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。慌てて慶史は彼女に駆け寄る。

「おい、三子? どうしたんだ?」
「くっ……けほっ!」

 三子は、顔を苦渋の色に染めながら、何度も咳を繰り返した。まるで、何かを吐き出したがっているかのように。まるで、自分の中に入ってこようとするものを拒むかのように。――その一連の仕草には、慶史も見覚えがあった。かつて、三子の祖母智恵と共に、仕事に出かけたときのことだ。
 『器』の体質である彼女は、幽霊に狙われやすい。一度、不覚をとって智恵のすぐ側まで幽霊の接近を許してしまったとき、彼女も同じ仕草をしていたのだ。自分の身体を乗っ取ろうとしている幽霊を、追い出すために。
 だが、それは単なる反射的な行為で、実際に効果があるわけではない。智恵の時も、なすすべもなく霊に身体を乗っ取られてしまったのだ。そして、今回も。

「おいっ、三子!」

 だらん、と急に三子の四肢が力を失った。背中は丸まり、顔は俯けられて、表情は見えない。

「み、三子……?」

 一縷の望みと共に、慶史は三子に近寄った。そしてその肩に手を乗せようとした瞬間――。

『お、お父さん! 私ここにいるよ!』

 すぐ耳元できこえてきた覚えのある声に、ハッとしてそちらを見やれば、予想通り、そこには己が娘三子がいた。だが、その身体は薄く透け、宙に浮いている。間違いなく、彼女は「幽体」となっていた。

「三子、お前――」
「くふっ」

 この場にそぐわない笑い声に、二人の視線は集まった。顔を下に向けたまま、甲高い笑い声を漏らす「三子」に――。

「ふふふふふ」

 突然パッと顔を上げると、「三子」は突然走り出した。一瞬呆気にとられた慶史と三子だが、やがてハッと我に返った。

「おっ、追え!」
『分かってるよ!』

 慌てて走り出しす三子と慶史。だが、慶史はまたすぐにたたらを踏んで立ち止まった。

「こっちに来てくれ! 三子の身体が乗っ取られた! 幽霊の仕業だ!」

 彼が声をかけるは、話になって真剣に話していた仲間達の方だ。幽霊に関して敏感になっていた彼らは、慶史の大声にすぐに気がついた。

「何だって!」
「三子が大変なんだ! 手助けに来てくれ!」

 それだけ言うと、慶史は慌てて二人の三子を追いかけていった。援護はこれで何とかなる。問題は、三子の身体だった。

「三子! どこに行った!」
『お父さん、こっち! こっちに行った!』

 小さく聞こえてくる三子の声を頼りに、慶史は必死に走る。
 ――まさか、二十人もの霊能者がいる中で、堂々とその野営地に侵入してくる幽霊がいるだなんて。
 そう思う一方で、どうしてそのことを予想していなかったのかとかつての自分を殴りたい気分でもあった。
 野営地には、もちろん見張りも立てている。四方に一人ずつ配置し、数時間ごとに交代する予定だった。彼らが、役目を放棄していたとは考えられない。とすると、彼らの目をかいくぐって侵入してきたのか。
 ――見張りの目をかいくぐって侵入。
 たどり着いた結論に、慶史は嫌な予感を抱かずにはいられなかった。大抵の霊は、霊力の有無で察知することができるのだ。詳しい位置までは分からずとも、近くににじり寄ってきたら、すぐに気づくことができる。
 あれほどまでに――三子の側には俺がいたのに気づけなかったとは。
 どうしてという疑問と共に、後悔の念が押し寄せてきた慶史だったが、すぐに頭を振って邪念を追いやる。今はそんなことを考えている暇はない!
「三子、三子!」

 娘の名を呼びながら、慶史は辺りをぐいっと見渡した。頂上へと続く道は一本道だが、しかし、途中には伊礼の滝へ続く道や休憩所、途中で切れている道など、横道がたくさんある。そのどれを進んだのか分からず、慶史はもどかしくもその場で立ち往生してしまった。

『お父さん、こっち!』

 慶史の声に数秒遅れて、三子の声が返ってきた。伊礼の滝へと続く道である。慶史は顔を引き締めてその方向へ進んだ。後ろからの助太刀はまだない。
 茂みに身を隠すようにして三子はしゃがんでいた。自分の身体が盗られたというのに、彼女に焦りは見られない。慶史は一瞬疑問を抱いたが、やがてそれを頭から追いやった。今はなんとしてでも、娘の身体を取り返す方が先決なのだ。

『あそこ』

 三子が小声で指し示す方向に、『三子』はいた。まるで慶史たちを待ち構えているように、開けた場所に佇んでいる。彼女の後ろには、ごうごうと伊礼の滝が遙か下に向けて流れ落ちている。

「あいつらの目的はなんだ?」

 慶史は険しい表情で『三子』を見つけた。今すぐにでも彼女の前に出て行って、娘の身体を奪い返したい気持ちは山々だが、しかし、彼女がああしてあそこに留まる理由が見当たらないのだ。身体を奪ったのなら、さっさと逃げ続ければいいものを。
 ――待ち構えている。
 そう、思わずにはいられなかった。そして実際そうなのだろう。
 慶史は険しい表情で辺りを見回した。
 ――辺りに、『三子』以外に霊はいない。それが逆に怪しかった。わざわざあいつがここまでおびき寄せた理由は? なぜここで待ち構えるようにして立っている?
 仲間達がこの場所に駆けつけてくれるまでもう少しかかりそうだ。彼らの到着を待ってから、一斉攻撃を仕掛けるのも一つの手である。しかし、万が一その間にあの霊に逃げられたら。三子の身体に傷をつけられたら――。
 慶史は立ち上がると、一歩踏み出した。『三子』の顔が少しだけ上を向く。同時にその口角が、わずかに上がったような気がした。

「何が目的だ?」

 意志疎通ができるとも思えなかったが、慶史は『三子』に話しかけた。

「大人しくその身体から出ていけば、俺も追うようなことはしない。どうだ?」
「…………」

 『三子』は微動だにしない。それは間違いなかった。
 しかし、周りの状況は一変した。ふっと気配が揺らいだと思ったら、ぞくぞくと身を震わせるほどの霊力を身体が捉えた。信じられない思いで、視線だけを周りに走らせる。三、五、十――。ざっとそのくらいはいるかもしれない。

「どうやって――」

 これほどまでの霊が隠れてたんだ?
 思わず疑問を口にしようとした慶史だったが、それを待たずに、周囲の霊達は慶史に霊力を放ってきた。途端に砂埃が舞い上がる。
 一方的な攻撃だった。

『やっ、やめ――』
「三子、来るな!」
『――っ』

 器である三子は、今までに何度も霊達の奇襲を受けてきた。が、そのどれも、三子の「身体」目的であり、決して三子自身を殺めようとの目的はなかった。
 しかし、これは違う。
 器以外の人間は全て排除するとでも言いたげなその非道な行い。
 三子は青ざめて震えたが、どこからか怒号が聞こえてきて、咄嗟にその方へ飛んでいった。

『こっち! こっちでお父さんが!』

 枝分かれしている広場の真ん中で、智恵達が立ち往生していた。それぞれ手分けして探そうと話し合っていた矢先に現れた幽体の三子を見て、彼らは血相を変えた。
 仲間達を引き連れて、慌てて戻る三子だが、その顔に安心などというものはない。父が無事な姿をこの目で確かめるまでは、そんなもの、一欠片も胸に抱いてはいけないのだ。
 一瞬の油断が命取りになる。一瞬の気の緩みが、誰かの命を奪ってしまう。
 それは、三子がもうずっと前に経験していたこと。

『お父さん!』

 シンと静まりかえっていた。そこに相も変わらずいたのはわらわらと漂う霊達の方で、彼らが取り囲む砂埃の中央――そこに、父が蹲っているのが見えた。

『お、父さん――』

 目の前が真っ白になった三子の頭に、かつての出来事が蘇った。
 無力なまま、ただ見ていることしかできなかったかつての自分。
 また、何もできないのだ。力なく自分は見ていることしかできない。私のせいだったのに。私が言い出したことだったのに。私が無力なせいで、起こった出来事だったのに。

『嫌だよ、こんなの……』

 ひねり出した声に、応えてくれる者は誰もいない。
 三子は目の前が絶望に染まるのを感じ――。

『ほんっと、世話の焼ける子ね』

 突然耳に飛び込んできた声に、三子の呼吸は止まった。

『俺たちがいない隙にこんなことに来やがって。挙げ句身体を乗っ取られただ? これだからさんこは一人にしておけないな』
『ニハ……イチ……?』

 大きく目を見開いたまま、信じられない思いで三子はその名を口にする。
 そんな、あり得ない。どうしてここに。
 やがて砂埃が霧散していく。そこから現れたのは、見まごうことないニハとイチ――。

『ふ、たりとも、どうして』
『どうして? こっちが聞きたいわよ』

 ニハは忌々しげに口元を歪めた。

『でも今はやることがあるでしょ?』

 イチと共に、彼女は前を向く。わずかに怯んだ様子を見せる『三子』。

『リンチのお返しよ』

 不敵な笑みで、ニハが右手を掲げた。