63:行かないと
自分が何者かも分からなかった。
うまく働かない頭を抱え、何も映さない瞳で、ただ宙を漂っていた。
自分には大切な者がいた気がした。かつては生きているという実感があった気がした。でも、今はそれが全くない。自分が自分であるという証拠が何もないのだ。何もかもがどうでもいいという無気力――むしろ、このまま楽になりたいという思いすらある。
だが、何かがそれを阻んでいた。それさえなければ、このまま天へ昇っていき、いつかは楽になれるというのに、何かがそれを拒む。
それは、自分が生きていた頃の意志か、それとも何者かによる傲慢な行動か、それすらも分からないまま、ただ永遠とも思える時が過ぎるのを待つ。
一人の時間は、長かった。誰かを眺めている時間は、誰かと共にいる時間は、ひどく早く流れた気がするのに、今はどうしてこんなにも長く感じられるのか。
その途方もなく長いときの流れに、時折誰かがやってくることがあった。ぼんやりとその場の空気を動かすもの。こちらの領域に入ってくることなく、ただその向こう側にいて、何やらぼそぼそ独り言を言っていた。
何を言っているのか、始めはよく分からなかった。抑揚もない意味不明な言語の羅列のように聞こえたし、そもそも興味もなかった。だが、その者は根気よく度々現れた。しまいには、いつの間にかその者の足音や声だけで識別できるほどに――別に嬉しくもなんともないのだが――なっていた。
相変わらず「彼」が何を言っているかまでは分からない。でも、時折彼が発する言葉で、聞き覚えのある単語が出てくるのだ。それを聞く度、いつもむず痒い思いに捕らわれる。何か大切なことを忘れているような、そんな焦燥が胸をよぎるのだ。でも、それが何なのかが分からない。
しばらくして、辺りが一際騒がしくなった。いつもやってくる彼だけではなく、もう一人増えたのだ。彼らは騒がしく会話をした後、再び一人が去って行った。残った一人――「彼」が、再びいつものように話し始める。殊勝に言葉を紡いでいく彼だが、何を言っているかまでは、まだ分からない。前までは、それでいいと思っていた。何者でもない自分には、言語を理解しても意味がないのだ。でも今は。なぜ、こんなにも意志疎通がしたいと思っているのだろう。
再び騒がしくなった。いつの間にか人数は三人にまで増えていたし、「少年」は電話越しに何者かと話していた。興奮した「声」は、電話越しからでも充分よく聞こえた。
『私、絶対にニハとイチを見つけてくるから!』
懐かしい「名」だと思った。だが、それ以上に強く気を引かれたのが。
「身体」――いや、「魂」全体がじんわりと温かくなるのを感じた。
その声は、自分たちが一番よく知っている者のそれだった。自分たちの姿が見えなくても、話しかけることができなくても、自分たちはいつも側にいた。
自分は何者なんだろう。
改めてそう思った。
自分「たち」とは? もう一人はどこにいるの?
途切れることなく、疑問は続いていく。
きっと自分は今死んでいるんだろう。それは、疑いようもない事実だった。
じゃあ、死んでもなお、どうしてこんな所にいるんだろう。早く自由になればいいのに。早く楽になればいいのに、どうしてこんな窮屈な場所にいるのか。
胸を締め付けるような、この感覚が答えなのだろうか。この苦しい思いがあるからこそ、自分はここにいるのだろうか。
「二葉、一也……」
誰かが、自分たちのことを呼ぶ声が聞こえた。
自分たちの、もう一つの名前。――いや、何を言っているんだろう。これが本当の名前なんだ。もう一つの名前は――何だっただろうか。
ふと、自分の中の何かが反応したような気がした。身体の奥底から湧き上がってくる何か。
これは……記憶の欠片だ。「除霊」されてから、もう消え去ってしまったと思っていた、自分の縁。
その縁が、まるで生きているかのようにピンピン反応していた。何かに強く引かれるように、何かに強く向かって行っているように。
懐かしい感覚だった。以前も同じようなことがあった気がした。同じく、自分が何者であるか分からなかったあのとき。あのときは、どうやって疑問を解決したんだろうか。
深く思考するように、そのほかの感覚を遮断した。生きている者のように思考する能力がまだ自分にはあるのだと、ぼんやりそう思った。
――あのときは、そうだ。自分の力ではなかった。あのときも今と同じく、何かに強く引かれたのだ。何者かが自分を呼ぶような、大切なものが底にあるような気がしてたどり着いたそこには――。
薄らぼんやり、「二人」は目を開けた。一人だと思っていたそこには、「相棒」がいた。あのときも同じタイミングだったなと、二人は同時に微笑む。
ガタリと大きな物音がした。感覚で分かった。大切な何かが行ってしまうんだと。
その頃には、もうその名前は分かっていた。目の前の彼の名はイチで、自分たちを強く呼んでいるこの力の欠片の主は――さんこなんだと。
行ってしまう。
同時に焦燥に駆られた。
さんこが行ってしまう。またどこか、あたし達の手の届かないところに行ってしまう――!
*****
「――志藤さん?」
引き戸を引き、修平の母――早百合は、盆を手に困惑した。ついで、後ろを振り返って夫を見る。
「志藤さん見なかった? こちらにはいらっしゃらないみたいだけど」
「いないんですか?」
秀一も目を丸くして離れの中に入った。そんなに大きくはない部屋の中をすぐに見渡すと、再び外へ顔だけ出してみる。
「その辺りを散歩しているわけでもないでしょうに……」
「やっぱり、何か用事でもあったんじゃないの? 急に引き留めたんでしょ? いくらこの子達のことがあるからって、いきなり連れてきたのはまずかったんじゃないかしら」
早百合は浮かない顔で結界の向こう側を見る。
除霊され、まるで抜け殻のようになってしまった二葉と一也。縁ある者――母親の理恵子が目の前に来れば、何か変わるのではないかと思って秀一は理恵子を連れて来たのだが。
「しかし、まだ傷心の彼女に、事実を伝えるのは憚られますし……。直接二人のことを見られれば何か変わったのかも知れませんが――」
だが、霊感のない彼女に、幽霊となった二人をどう見せろというのだろうか。
表情を曇らせて秀一は歩き回った。早百合も、盆を地面に置くと、結界に近づいた。こちらに背を向ける形で四肢をだらけさせている二人の幽霊を見て、思わず結界に手を伸ばす。
「私たちの話し声、ちゃんと聞こえてるのかしら。志藤さんの声でも反応しなかったのなら、もうどうすればいいのか――熱っ!」
指先に結界が触れた瞬間、早百合は咄嗟に腕を引っ込める。左手で庇うように右手を覆った。
「大丈夫ですか!?」
「ええ……。この結界、とっても熱くて」
「熱い?」
秀一は険しい目で結界を見つめた。一見して見た目には何も変化はない――。そう判断を下そうとして、気がついた。結界をなしている四方の護符が、チリチリと次第に焼け縮れていく様に。
「伏せて!」
咄嗟に秀一は早百合に覆い被さった。「何か」が来ると、そう肌で感じ取ったのだ。
秀一の勘は当たった。秀一がその場に伏せたと同時に、まるで爆風のような風圧が二人を襲った。辺りの埃が一気に舞い上がり、風圧と相まって目も開けられない。
だが、それも一瞬だった。次の瞬間、二人が目を開けると、初めに目についたのは、ゆっくりと宙を舞う護符と、日に輝く埃、そして――こちらに顔を向けているニハとイチの姿だった。わずかに地面から浮いているその姿は、一見すると、結界に閉じ込められていたときと何ら変わりない。だが、その両手両足、表示言う、そしてその瞳には、紛れもない「意志」が宿っているように見えた。
「信じられない、結界を破るなんて……」
秀一は呆気にとられる思いで二人のことを見つめた。老いたとは言え、それでも仁科家当主が直々に結界を張ったのだ。二人がかりだとしても、それを破るとなると、相当の霊力が必要なはずだ――。
「しょ、正気に戻ったのね!? 二人とも、大丈夫? 気分は悪くない?」
「駄目です、近づかないで」
ニハ達に近寄ろうとする早百合を、秀一は手で押しとどめた。
「まだどうなるか分かりません。このまま怨霊となってしまう可能性も――」
果たして、この強固な結界を破ったのはどちらなのか。強靱な意志の元、正気に返った元の二人なのか、それとも縁が淀み、怨霊化してしまった二人なのか――。
『行かないと……』
イチがボソリと呟いた。
話すことが出来るのか、と秀一はわずかに警戒を解いた。
怨霊は、大抵は自分の意志とは関係無しに暴走してしまうことが多い。話せると言うことは、それだけ意志がしっかりしていると言うこと。だがそれにも例外はあるわけで。
秀一は二人から目を離さなかった。
「どちらに行くと言うんです? そんな状態で行ったら、怨霊化してしまいますよ!」
『あそこは……駄目なの。さんこだけは、行っちゃ駄目なの』
「あそことは? 何があるんです?」
秀一の問いには答えず、どこかぼんやりとした様子で、二人は壊れかけの結界から一歩出た。そのまま目の前の壁をすり抜けて外へ出る。
「待ってください! 外は危険です!」
秀一と早百合は慌てて後を追ったが、その頃にはもうニハとイチは空を飛んでいた。始めはゆっくりだったが、次第に慣れてきたのか、どんどんそのスピードは上がっていく。
「ど、どうしましょう!? もしかして、二人は三子ちゃんのところへ?」
「おそらくそうでしょう」
苦虫を噛み潰したような顔で、秀一は言い切った。早百合も慌てて頷く。
「とりあえず、お義父様に連絡を! 向こうで一旦二人を引き留めてもらってから……」
「駄目です、今頃伊礼山に登ってるでしょうから、電話が繋がらない!」
「じゃあどうすれば!」
「矢代家に連絡を取りましょう。急いで人員を派遣してもらうようお願いして」
「――っ、電話、かけてくる!」
早百合が大慌てで家の中へ駆けていった。だが、秀一は、その後を追おうともせず、ただニハとイチが飛んでいった空を見上げるばかりだ。
事態が、急展開を迎えていることは分かっていた。伊礼山に向けた決着、同行することになった三子、後を追う仁科家に、正気に戻ったニハとイチ。
……だが、秀一は、何か大切なことを忘れているような気がしてならなかった。
本当に、当事者はこれだけなのだろうか、と。
伊礼山へ向かっているのは、確かに彼らだけだ。だが、だからといって、見逃している何かが、突然動き出しそうな嫌な胸騒ぎがする――。
「秀一さん!」
電話をかけてきたには短い時間で早百合が戻ってきた。ハッとして秀一はそちらを見やる。
「もう電話を――」
「そうじゃなくて! なんだか山が騒がしいから様子を見に行ったんだけど、結界が壊れていたの!」
「はい!?」
思わず秀一は聞き返した。伊礼山を保護し、かつ封じるための結界が壊れるなど、前代未聞である。
「こんな時に限って! もしかして、父さんの力が弱まって――」
「違う、そうじゃないの! このお札が護符の上から貼り付けてあって!」
早百合が掲げるお札を、秀一は震える手で掴んだ。
「一体誰がこんなことを――」
困惑したように呟く早百合の声が、遠く感じられた。
――これだったのかと、秀一はようやく思い至った。自分が感じていた胸騒ぎは、これだったのかと。
「志藤さんです。志藤さんがやったんですよ」
「志藤さんって――理恵子さん!? どうしてそんなことを……」
「このことも含めて、急いで矢代家に連絡をしてください。私は今から彼女を連れ戻す準備をします」
「伊礼山に登るの!?」
険しい表情で離れを出て行こうとする秀一を、早百合は強く引き留めた。
「私、詳しいことは分からないけど、危険だって……あなた」
「大丈夫ですよ」
秀一は目を細めると、早百合の肩を優しく抱いた。
秀一は、仁科家の嫡男として生まれたが、自身の父孝雄ほど霊力を持って生まれなかった。息子の修平は孝雄に勝るとも劣らない実力を持ってはいるが、自分は――。
「確かに、私じゃ行っても力にならないかも知れません。でも、矢代さんに頼まれましたから。一人にしておく訳にはいきません」
――こんなこと、突然お願いするのはどうかと思ったんですが。
――俺は、志藤さんに嫌われてるから。だから、時々でいいので、もし良かったら、理恵子の様子を見てくれませんか?
――心配なんです。一人で思い詰めてるんじゃないかって。
理恵子と三子がこちらに引っ越したばかりの頃、慶史は突然秀一に会いに来た。慣れない土地で知り合いもいなかった彼は、結婚式で一度会っただけの秀一に頼むしかなかったのだろう。秀一の方も、腐れ縁である理恵子のことは心配していたので、迷うことなく承諾したが、そのときのことはよく覚えていた。気落ちした様子で、どこか自信がなさそうに下を向く慶史の顔は。
人ごとではないとは思っていたのだ。自分も年頃の息子を持つ身。自分以上に除霊に身を粉にしている息子もまた、いつ危険な目に遭ってもおかしくない。それを思うと、逃れられない定めだとは分かっていても、やりきれない思いに囚われるのだ。
「電話、お願いしますね」
妻の肩を強く叩くと、秀一は決意を固めた表情で離れを出た。
親の子を思う気持ちは、十分に実感していたはずなのに。
未然に防げなかったことが、今の秀一には、何よりも腹立たしいことだった。