62:分かりません
理恵子は、昼過ぎに家を出た。背中には大きなリュックを背負い、しっかり戸締まりもして。
しかし、一歩外に出たとき、理恵子はようやく登山用のアウターを用意していなかったことに気がついたが、だからといって、出発を諦めるようなことはしなかった。真冬で、しかも山奥ということで、寒いことは寒いのだろうが、今の彼女には、寒さなど気にしている余裕はなかった。
理恵子の足は、真っ直ぐ仁科家へと向かっていた。詳しくは、伊礼山ではあるのだが。
季節柄か、道中、理恵子は誰ともすれ違わなかった。彼女にとっては、有り難いことだった。日南市の人たちは、皆鷹揚で心根の優しい人ばかりだ。だが、だからこそ時に他人の事情に深く首を突っ込む嫌いがある。母の智恵に似て、誰かに頼ることを苦手としている理恵子は、世話好きとも言える日南市の人たちのことが、時折苦手に感じることもあった。
理恵子も、分かってはいるのだ。自分の殻にばかり閉じこもらずに、もっと心を開くことができれば、どんなに楽になれるだろうと。
しかし、四十年あまり生きてきて、結局一度もそれは適わなかった。いや、むしろもっと酷くなっていた。二葉と一也が死んで、理恵子は、まるで自分が罰を受けるかのように、一層心を閉ざしたのだ。まるで、自分が幸せになったらいけないと自身を戒めるかのように。
一歩一歩と足を踏みしめながら、理恵子は神社の石段を上った。重たいリュックを背負った状態では、すぐに息が上がった。時折休憩を挟みつつ、理恵子は仁科家にたどり着いた。
幸いなことに、参拝客の姿はなかった。伊礼山へ歩いて行く姿を誰かに見られても困るので、これには理恵子も安堵のため息をついた。そしてそのまま伊礼山へ続く小道に進もうとして――止まった。何か、後ろ髪引かれる思いだったのだ。このまま伊礼山へ行ってもいいものか。もしかしたら、無事に帰ってこられないかも知れないのに。
不安に騒ぐ心を持て余し、理恵子は一旦戻ると、手水舎で手を清めた。そして参道を進み、拝殿の前で再び立ち止まる。
こう見えて理恵子も神社の娘であるので、参拝方法はお手の物だ。この場に誰もいないという気の緩みもあってか、理恵子はいつもよりも大分時間をかけて参拝した。念入りにお願い事をしたかったわけではない。無心だった。だが、その心の奥底には、隠しきれない期待と不安、心残りがあった。
「お参りですか?」
ザクッと砂利を踏みしめる音と共に、男性の穏やかな声が理恵子の耳に飛び込んできた。ハッとして彼女は振り返った。
「こんにちは、志藤さん。図書館以外で会うのは久しぶりですね」
「……そうですね」
「今日は、わざわざお参りしにここに来られたんですか?」
この神社の一人息子―仁科秀一が、物珍しそうに理恵子のことを見つめていた。彼の視線は、自然と理恵子の背のリュックに止まる。
「これは大層な荷物ですね。どこかに出かけるんですか?」
「……ええ、まあ」
「一体どちらに? 手伝いましょうか」
悪気はないのだろうが――むしろ心からの親切心だろう――今の理恵子にとっては、お節介だとしか考えられなかった。
仁科秀一とは、理恵子が幼稚園の頃からの付き合いだ。家が近く、日南市の人口も少ないとなれば、自然と同じ幼稚園、小学校、中学校、高校と、腐れ縁が続いていくのだ。だが、それでも二人の仲がいいというわけではなかった。言うまでもなく、親同士の仲が悪いので、自然、会話を交わすことも少なかったのだ。別段、目の敵にしているというわけではないのだが、かといって若い頃は気の強かった理恵子と、大人しかった秀一とでは、あまり接点もなく、会えば挨拶を交わすくらいの仲のまま、高校を卒業したのだ。
今だって、図書館で時たま会うくらいで、腐れ縁から友人に発展したわけでもない。にもかかわらず、どうしてこうも親しげに話しかけてくるのか。
「結構です。もう家に帰るところですから」
彼の前で、まさか伊礼山へ行くわけにもいかない。
理恵子は、一旦石段へ戻るそぶりを見せた。そのまま、秀一がどこかへ行ってくれないかと願いながら。
「あ、それなら少し寄っていきませんか? 見てほしいものがあって」
「はい?」
「ほんの少しの間でいいんです。お願いします」
「…………」
ニコニコと微笑む秀一に、理恵子は毒気を抜かれる思いだった。肩をすくめた後、仕方なしに首を縦に振る。
「……少しだけなら」
「ありがとうございます!」
バッと勢いよく頭を下げた後、秀一はすぐにきびすを返して歩き始めた。理恵子も渋々その後を追う。
「今日、奥様は?」
「家にいますよ。後で会いますか?」
「いえ、遠慮しておきます」
そう時間もないのだ。理恵子は黙々と秀一の後に続いた。
しかし、てっきり自宅へ向かうのだと思っていた理恵子は、彼が平屋を通り過ぎたのを見て、声を上げずにはいられなかった。
「一体どこへ向かってるんですか?」
「離れです。すぐにつきますから」
彼の言ったとおり、離れにはすぐにたどり着いた。しかし気になるのは、なぜ離れなのかということだ。
秀一は引き戸を引き、中に理恵子を引き入れた。
離れの中は、思った以上に広い部屋だった。だが、特に何があるというわけでもなく、家具も装飾もない、至って寂しい部屋だった。
理恵子が戸惑いにキョロキョロしていると、秀一が彼女の名を呼んだ。見ると、大部屋から繋がる小部屋の入り口に彼は立っていた。
「こっちです」
「はい」
戸を押さえて立っている秀一の前を通り過ぎ、理恵子はその小部屋に入る。その小さな部屋自体、先ほどと同様、何の変哲もない場所だった。床は冷たい板材でできていて、格子窓から入ってくる日差しはほんのわずかだ。家具も何もなく、がらんとした部屋が広がっている。ただ、入り口から歩いて二メートルほどのところで、床が砂利に切り替わっていることだけは気にかかった。まるで、板材と砂利、底の境目には、何かがあることを主張しているような、そんな印象を抱いた。
「何か、感じませんか?」
少しだけ期待を込めた瞳で理恵子を見る秀一。だが、理恵子は戸惑いを浮かべるばかりだ。
「いえ、特には」
「そ、そうですか……」
気落ちしたように秀一は視線を外す。その様に、居たたまれないというよりは、若干不服を抱いた。
「何かあるんですか?」
「…………」
声を尖らせる理恵子に、秀一は目を見開いたが、すぐには答えない。まるで告げることを躊躇っているような、いや、そもそも言うつもりのないような彼の態度に、理恵子は諦念を抱かずにはいられなかった。
「もしかして、幽霊関係のものですか?」
自分には見えて、彼には見えるもの。
そんなの、たった一つしかない。
「私には霊力がないので、よく分かりません」
理恵子は切り捨てるように言った。
自分に霊力がないことは、彼だってよく分かっているはずなのに。この期に及んで、何を見せたいというのか。
今日に限って、今更こんなことをしてくる彼に、理恵子は怒りと共に空しさを実感した。どうせ、自分は当事者にはなれないのだと。安全なところから、子供達が危険な目に遭っているのをただ黙って見ていることしかできないのだと。
もし……もしも、ここにあるものを見ることができたのなら、未来は変わっていたのだろうか。
「あ、あの、お身体冷えたでしょう。お茶飲みませんか? 今、持ってきますから」
沈黙に耐えきれなかった秀一が、慌てて離れから出て行った。理恵子にはもう、それすら反応ができない。
「二葉、一也……」
もう戻っては来ない二人の子供の名を呼ぶ。
自分がしっかりしていないから奪われてしまった二人。
死に目を見ることも適わなかった二人。
今ではもう、写真でしか、二人の笑った顔を思い出せないのだ。
ぐっと唇を噛みしめると、理恵子は離れを抜け出した。まだ秀一が帰ってこない隙に、人目を憚って伊礼山へ続く小道へ急ぐ。
小道には、白く太いロープが張ってある。これを境に、一般人には目に見えない結界が張ってあるのだ。通常、許可を受けた者か、生体反応のない幽霊しか入れないように。それ以外の者が無理に入ろうとすると、静電気に触れたような反応が起こり、すぐさま仁科家の者が飛んでくるのだろう。
「…………」
理恵子は、緊張の面持ちで辺りを注意深く観察する。――と、ロープが結んである大木の側面に、護符が張ってあることに気がついた。分かりづらく、足下に貼り付けてある。
理恵子はしゃがむと、リュックの中から同じような札を取り出した。知り合いからもらったもので、結界のことも、その知り合いから聞き出した情報だ。結界をなしている護符の上から札を貼れば、結界は効力を失う、と。
両側の護符共に札を貼り終えると、理恵子はリュックを背負い、思い切ってロープをくぐった。そして一歩二歩と道を歩き、別段異常もないことが分かると、ホッと息を漏らす。
ひとまず、ここまでは行けた。後は、頂上を目指して登るだけ。
不思議と、恐怖はなかった。
長年ずっと心の奥底でくすぶっていた思いが、今実行に移せるからだろうか。
――二葉と一也が死んだ場所に行きたい。
その思いに、深い理由もないし、行ったからと言って成果も望んでいない。ただ、行きたかったのだ。部外者として事が終わった後に話を全て聞かされるのではなく、当事者の一人として、母として、子供達に触れていたかったのだ。