60:七回忌


 小西は、志藤家に続く長い階段をひいひい言いながら登り、そうしてようやく志藤家にたどり着いた。十二月に入ってからというもの、めっきり寒くなったこの頃だが、それでもあまり運動しない質である小西の身体は、熱いくらいに火照っていた。この階段を毎日上り下りしているだろう志藤家の面々を、少々尊敬してしまうくらいには、もう二度とこの階段は上りたくないと思った。
 玄関に備え付けられているチャイムを鳴らし、緊張の面持ちで待つ。やがて、ゆっくりと引き戸が引かれ、中から女性が現れた。暗い面持ちで喪服を身にまとっている彼女に、小西はしどろもどろになった。

「あの、失礼ですが、どなたかお亡くなりに……?」
「いえ、違うんです。今日が子供の七回忌ですので、それで」
「そ、そうなんですか。そのような大切な日とも知らず、突然お邪魔してしまって申し訳ありません」

 小西は深々と頭を下げた。自身が受け持つ生徒――矢代三子に、今はもう亡くなった二人の兄弟がいることは知っていた。だが、命日までは調べていなかったため、自分のタイミングの悪さに思わず苦渋を浮かべた。

「いいえ、一人で少し寂しかったものですから、むしろ先生が来てくださって良かったです」
「そう言っていただけると、気が楽になります」
「どうぞ上がってください」
「すみません、では失礼いたします」

 静かでひんやりとしている廊下を、小西は理恵子の後に続いて歩いた。人っ子一人いない気配に、わずかながら戸惑いの色を浮かべる。

「こちらにどうぞ」
「はい。失礼します」

 客間に案内され、小西は座布団に腰を下ろした。理恵子もすぐにお茶を持ってきて、小西の前に湯飲みを置く。

「今日は、三子ちゃんの通知表やプリント、提出物などを持ってきたんです」
「まあ、わざわざすみません」

 鞄を漁りながら、小西はファイルを取り出した。理恵子にそれを手渡しながら、おずおずと理恵子の目を見た。

「あの、三子ちゃんが長期にかけて休んでいるの、家庭の都合とお伺いしたんですが、詳しくお聞きしても……? このままじゃ、出席日数も危うくなるかも知れませんし、いつごろ学校に来られるようになるのかだけでもお聞きしたくて」
「……三子、今は父方の実家にいるんです」
「お父様、ですか?」

 小西は目を瞬かせた。

「はい。夫とは去年離婚したんですけど、それ以前にずっと私たちは別居をしていて。そのせいで、三子は長い間父親とは会っていなかったんです。それで、寂しかったのか、先日会いに来た父親についていって……今、一緒に暮らしています」
「そ、うなんですか」
「昨日電話をしたときには、冬休み明けには帰ってくると言っていました。……すみません。私も、正直どうして学校を休んでまで、と思ったんですけど、長い間会っていなかったせいか、積もる話もあるようで、帰ってこいとは言いづらいんです。三子には今まで肩身の狭い思いをさせてきたという自覚はあるので」

 寂しげに、疲れたように語る理恵子に、小西は言葉を詰まらせた。複雑な家庭内の事情には、深く立ち入るべきではないと思いながらも、彼女と三子との間に、どうしても薄い壁があるようにしか思えなかったのだ。

「お母様、あの……三子ちゃんには黙っておいてくれって言われたんですけれど……」

 小西は、躊躇いがちに言葉を紡いだ。

「以前、三子ちゃんが体育の授業で倒れたことがありましたよね? 実は、その前にも似たようなことがあったんです」
「え?」

 ハッとして理恵子は顔を上げた。

「それは……どういうことですか?」
「は、はい。編入初日のことでした。前日に緊張で寝られなかったらしく、三子ちゃん、休み時間に倒れたんです。しばらくして目を覚ましたんですけど、心配をかけたくないからって、お母様に連絡するのを拒んだので……早退だけさせて、帰らせました」

 ぐっと表情を引き締めると、小西は勢いよく頭を下げた。

「ご報告が遅れ、本当に申し訳ありません! 本来ならば、すぐにご連絡差し上げるところを……」
「そ、そうですか……」
「実は、まだあるんです」

 過去の自分をひっぱたきたい思いで、小西は項垂れる。

「丁度林間学校の一週間ほど経った頃でしょうか……。ある騒動に巻き込まれて、三子ちゃんが腕に怪我をしてしまって。お母様を呼ぼうとしたんですけれど、この時も心配をかけたくないからと。……本当に今更なご報告で申し訳ありませんでした!」

 情けなさに小西は顔を上げられない。
 あまりに切に、お母さんには心配をかけたくないからと訴えかけてくるので、ついついそれに甘んじてしまったのだ。きっと、心のどこかで家族に連絡を取る面倒くささもあったからだろう。それが今、芯に悔やまれた。
 訴えかけてくる生徒の思いも知らず、表面だけしか見ていなかった。あそこまで極度に親に心配をかけたくないというのは、少なからず家庭内に込み入った事情があるゆえのことだろうに。
 中学生というのは、多感な年頃だ。小学生ほど無責任ではいられないし、人の顔色を見るということも覚えてくる。だが、あそこまで極度に心配するのは、正直異常だと思った。

「あの……」

 小西はもどかしい思いで理恵子を見つめた。
 優しすぎるあまり、矢代三子が必要以上に母親のことを心配するのは分かる。だが、問題はそうなった経緯だ。日頃から、積もり積もった何かがあって、そうなってしまったのではないか。その何かに、この母親は本当に気づいているのだろうか、自分の娘が自分を心配していると理解しているのだろうか。もうそうでなければ、娘だけが気苦労を重ねることになるだろう。本来ならば、互いに支え合って心配事を解消していくはずなのに。
 だが、小西はその懸念について、口に出すことができなかった。あまりにも、家庭的なことに首を突っ込みすぎても行けないと思ったからだ。それ以上に、今理恵子は明らかに心労がたたっている。これ以上自分が何か言えば、壊れてしまうのではないかと思うほどに。

「……冬休み明け、楽しみですね。冬休みが明けても、すぐに土日がやってきますから、三子ちゃんとどこかお出かけもいいんじゃないですか? きっと喜びますよ」
「そうですね。三子とはあまり出かけたことがなかったので、久しぶりにどこか……検討してみます」

 わずかにだが笑みを見せる理恵子に、小西は自分の役目は終わったと感じた。鞄の中をまとめると、立ち上がって頭を下げる。

「では、今日の所はこれで。お忙しいときに申し訳ありませんでした」
「いえ。こちらこそわざわざご足労頂きありがとうございました」

 理恵子は玄関まで見送りに出た。引き戸を開けると、小西は振り返り、再度小さく頭を下げた。

「失礼します」
「はい、ありがとうございました」

 右手に鞄を持ち、小西が歩いて行く。鳥居の向こうで彼女が階段を降りていく様を、理恵子は見つめていた。
 そうして完全にその姿が見えなくなると、小さく息を漏らし、引き戸を閉めた。足取り重く、居間に戻る。
 居間には、こぢんまりとだが遺影と線香、そして子供達が好きだったお菓子が並べられていた。理恵子は遺影の前に座り込むと、黙ってそれらを眺める。

 ……みんな、きっと忘れてるんだ。

 理恵子はぼんやりそんなことを思った。
 今日は、二葉と一也の七回忌である。いつもは一緒に準備をしている母親がいなかったため、理恵子は一人で遺影も線香も準備した。

 ――空しかった。自分一人で準備をすることが。

 まるで、自分しか知らないみたいに。

 今日が二人の子供の七回忌であることを、一体何人が覚えているのだろうか? 夫は、母は、葬式に出てくれた人たちは。
 このまま、いつか私も忘れていくんだろうか。
 そう考えると、理恵子は苦しくて堪らなかった。嗚咽を飲み込み、胸をかき抱く。
 あんなに大切だった二人の子供を、いつか、まるでなかったことのように忘れてしまう日が来るのかも知れない。六年経った今でも、心はまるで焼け野原のように枯れきっている。でも十年後は? 二十年後は? 私は、一人でも本当に覚えていられるのだろうか。一人、また一人と焼け野原から未来へ旅立っても、自分一人が焼け野原に取り残されることになっても、自分は未だ、彷徨い続けることができるだろうか?

 でも、そんなとき母が私に言った。もうあなたも幸せにならなくちゃいけないと。いつまでも二人にしがみついて、アルバムばかりに見てるんじゃないと。あなたにはあなたの人生があるし、あなたにはまだ三子がいるでしょう、と。
 理恵子にとって、三子は未来そのものだった。成長していく身体に、大人びていく言動。彼女を見る度、理恵子は長い時間が過ぎたのだと理解せずにはいられなかった。それは、同時に二人の子供のことがどんどん過去になっていくという事実でもある。
 ――私は不安なのだ。いつか、自分が二葉と一也のことを忘れてしまうんじゃないかと。残った一人の娘と共に、楽しい思い出を作れば作るほど、今は亡き二人の子供のことを忘れてしまうんじゃないかと。

 ――あ、お母さん?

 元気な三子の声を聞く度、娘は未来を歩いているのだと実感した。

 ――やっぱり会えて良かったなって思うよ。いろんな所にも連れて行ってくれるし。

 自責の念と、激しい憤りに、自分は長年会えずにいた夫。彼に、娘はいとも簡単に会ってしまった。
 そのこと自体は、別に悪いことではないし、むしろ、娘にとっては良かったんだとすら思う。しかし、理恵子にしてみれば、到底信じられない思いだった。
 なぜあの人の元になんか行くのか。娘が何も知らないのは分かっているが、それでも、子供を失った親としての責任を果たせないまま、自ら家を出て行った父親なんかの元に、どうして。
 夫に対しても、怒りはあった。なぜ突然――まるで奪い取るかのように三子を連れて行ったのか。もし……もしも、事前に一言あれば、心づもりはちゃんとしていたのに。無碍に断るなんてことしなかったのに。……仕事から帰ってきて、誰もいない家を見たとき、私がどんなに動揺したか分かっているのだろうか? まるで、過去の再現をしているのかと思った。家族五人で暮らしていた家で、二葉と一也が死んだばかりで、三子は病院で、夫は家に帰ってこないで、自分一人で暗い部屋に帰宅して。
 だが、本当は、理恵子だって分かってはいた。いつまでも自分の側にいれば、三子は幸せにはなれないだろうと。 娘が怪我をしていたことすら気づかなかった母親の側にいても、三子はきっと幸せにはなれない。
 いつまでも過去に囚われてばかりの自分と、着実に未来へ進んでいく三子。
 それだけではない。物理的にも、理恵子は娘のことを幸せにしてやれる自信がなかった。正規職員ではあるものの、その給料は微々たるものだし、きちんとした教育を受けさせてやれるかも不安だ。それどころか、理恵子は娘をお出かけに連れて行ったこともほとんどなかった。仕事で忙しく、平日は遠出なんて無理だし、休日だって、家の仕事をするか、図書館に籠もりきりのことが多い。

 三子は、そのことに対し、今まで一度も文句を言わなかった。甘えていたのだ、大人びた娘に。
 ――手のかからない、なんてできた娘なんだろう。
 そう思う一方で、同時に記憶が呼び起こされるのだ。家族五人で暮らしていたときのことを。働きには出ず、家のことをしっかりやっていたあのとき。学校から帰ってくる二葉と一也に、幼稚園のバスから戻ってくる三子。父親含む矢代家に、朝や放課後や休日、問答無用に二葉と一也が修行だ修行だと連れて行かれるのは気に入らなかったが、しかしそれでも、幸せな日々だったあの日々。

 最低な母親だという自覚はあった。目の前の娘を通して、過去を懐かしんでいる母親なんて、と。でも、思わずにはいられないのだ。もし二人が死んでいなかったら、今も生きていたら、どんなに幸せな日々を送っていただろうと。
 理恵子は、二つの遺影を手に取ると、目を細めた。
 ――遺影で明るく笑っている顔が、眩しくて堪らなかった。今の自分では、眩しすぎて目も開けていられないくらいに。
 一回忌、二回忌と、二葉と一也の命日が来る度に理恵子は実家に帰り、線香を上げていた。二人のことを覚えていない三子に配慮してのことだ。
 だが、きちんとしたお墓すら作ってあげられないことに、理恵子は強く自責の念を抱いていた。――いや、実際にはあるのだ、矢代家が作ったお墓なら。だが、理恵子はどうしても矢代家には行きたくなかった。二人もの子供が命を落としたというのに、その母親に対し、曖昧な情報しかくれない矢代家には、死んでも出向きたくなかった。

 子供達が亡くなったとき、理恵子は、口頭で夫から伝えられた情報のみで我慢するほかなかった。伊礼山で子供達がこっそり遊びに出かけ、そして幽霊達に出会い、命を奪われてしまったと。三子は無事だったが、二葉と一也は見つからないと。後に、霊力の気配を感じられる者が辺りを探索したが、気配はどこにもなかったと。状況から考えて、二人はもう死んでいると。亡骸すら見つかっていないが、葬式はこちらであげ、墓もこちらで建てると。
 正直、理恵子はなにが何だか分からなかった。
 昔から自分には霊力がなかったし、幽霊なんて見たことがなかった。ただ、母親がその関係で仕事をしているということは分かっていたため、一応認識はしているつもりだった。だが、いきなり二人の娘息子が、幽霊に殺されたと。亡骸すら見つからず、思うように線香を上げることもできないと。それどころか、伊礼山は危険だからと、子供達が亡くなったとされる場所に行くことすらできない。

 理恵子は、今未だ曖昧な環境に取り残されていた。本当に二人は死んでしまったのだろうか、もしかしたらどこかで今も生きているんじゃないかとすら錯覚してしまっていた。
 だってそうだろう。いきなり訃報だけ聞かされて、しかし亡骸は見つかっていないのだ。まだ生きているんじゃないかと、頼りない細い希望の糸に、六年間ずっとしがみついていても仕方のないことだった。

 遺影を元に戻し、理恵子は立ち上がった。居間を出て、自室へと戻る。

 理恵子の部屋には、様々な書籍が散らばっていた。そのどれも、霊に関するものだ。

 二葉と一也の訃報を受け取ってから、理恵子は、彼女なりに霊のことを調べていた。本当は、本職である母に聞くのが一番であることは分かっていたが、いつまでも過去に縋り付いて、と言われてしまいそうで、聞くに聞けなかった。
 始めは、図書館で本を借りるだけだった。しかし、本職が書いたのかすら怪しいその書籍達は、明らかにでたらめだと分かることが書かれていることも多く、やがて、理恵子は直接霊能者関係に当たるようにもなっていた。矢代家には、決して知られたくないことだったから、矢代家に嫁いだときに、仕事関係で彼らがよく連絡を取り合っていた人たちは避け、できるだけ遠い場所の人に約束を取り付け、直接会って話を聞いた。
 頼めば、霊のことに詳しい書籍を紹介してもらえたし、口頭でいろいろな話をしてくれることもあった。その中で、理恵子は一般人ながら、様々な情報を知り得ることができた。除霊、浄霊の違い、縁のこと、成仏のこと。伊礼山が、幽霊を引きつけることも聞いた。もし幽霊になっていれば、死んだ場所に戻ることがあるということも。幼い子供が幽霊になることがあるということも。
 気がつけば、理恵子はもはや、たった一つのことしか考えられなくなっていた。

 危険な場所だということは分かっていた。しかし、自分がいなくても、という思いもわずかにあるのだ。三子には母と夫がいるし、母も、三子がいれば希望を失わずに生きていくことができるだろう。……私には、それが無理だったというだけで。
 二葉と一也。生きていても、死んでいても、全部素直に受け止めようと思った。何も収穫がなくても、それで全部諦める。そうしなければ、きっともう一生前には進めないから。