56:修行を始めましょう
朝食は、広い座敷で食べることになった。夕食は、それぞれの部屋で食べたのだが、せっかく三子やその祖母が来たからということで、慶史が提案したことだった。
だが、実際に朝座敷に集まったのは、三子と智恵、そして慶史だけだった。当主の茂隆は朝早くにどこかにでかけたらしく、そのほかにも幾人か矢代家で寝泊まりをしている遠縁の者はいるのだが、彼らは未だ夢の中だという。広い座敷にぽつんと三人だけでご飯を食べるというのは、なかなかに寂しいことだった。しかしそれは、慶史にとっては尚のことだろう。寂しいというよりは、恐ろしいといった方が的確か――。
「…………」
眉間に皺を寄せ、無言でご飯を口元に運ぶ智恵。慶史はその顔色を窺ってばかりいた。朝食の席は至って無言で、三子としても、何か話題がないものかと探しているのだが、この三人に共通の話題と言えば、暗黙の了解の元で口に出さないニハとイチのことくらいしかないのだ。しかしそんなことを話題に出せるわけもなく、三子は熱心に魚をつついているふりをしていた。
「そ、そういえば」
沈黙に耐えかね、慶史が三子の方を向いた。
「午後に逸見さんが到着するらしい。ほら、三子の師匠となる人だ。物知りだから、この際お前の体質のことも、能力のことも、何でも聞くといい」
「待ってください。逸見さんが三子さんの修行に当たるんですか?」
「そ、そうですけど……」
「考えられません。どうしてあの人が」
箸をお膳に置き、智恵は慶史を見据えた。彼はすぐさまその迫力に負け、視線を逸らした。
「しかし、最近は志藤さんのお力も弱まっていると伺いましたし……。お身体に触るんじゃないかと思ったら」
「そうなの? お婆ちゃん、体調が悪いの?」
割って入る三子に、智恵はわずかばかり気がかりな視線を向けた。しかしすぐに首を振った。
「身体は大丈夫です。それに、教えるだけなら私にもできます。逸見さんの出番はないかと」
「そうはいっても……現に逸見さんは今こちらに向かっていますから」
「断ればいいじゃありませんか! 私の名を出せば、向こうも納得してくださるでしょう」
「……分かりました。断りのお電話をしてきましょう」
食事の途中だが、電話は早いほうがいいと、慶史はそのまま座敷を出て行った。その頃には、熱心に食べ続けていたせいか、三子のお膳は空になっていたが、しかしこの状態の祖母と父を二人っきりにはできないと、席を立てずにいた。
「……本当にいいの? 逸見さんって人、気を悪くするんじゃ」
三子は躊躇いがちに口を開いた。せっかく自分の修行のために、わざわざこちらへ向かっているというのに、それをいきなり断るというのは、いささか後ろめたい思いだった。
「仕方ありません。私は……あの人のことが苦手で。貴方の修行には当たって欲しくありません。そのことは、逸見さんの方も重々承知しているでしょう。今度お会いしたときに一応謝罪はしますが」
「そっか……」
これ以上聞いて欲しくないとでもいう口ぶりを前に、三子も引き下がった。自分だって隠していることは山ほどあるので、それを棚に上げて追求するというのは公平じゃない気がしたのだ。
「でも、それならお婆ちゃんが私にいろいろと教えてくれるってことだよね。よろしくね。私、本当は知らない人だとちょっと不安だったから、お婆ちゃんで嬉しい」
「……私もです。やはりこちらに来て良かった。朝食を食べ終わったら、修行を始めましょう」
微かに微笑んだ後、智恵は再び食事を始めた。そのすぐ後、電話を終えた慶史が戻ってきたが、先ほどと同様、これといって会話が弾むこともなく食事は終わった。
*****
修行は、朝食を食べ終わったすぐ後に始まった。
本当のところ、今日は学校があるのだが、大切な修行があるため、しばらく休むことになるだろう。制服も、修行でヨレヨレになってはいけないので、矢代家にあった女性用の和服を身にまとって三子は外にでだ。
正面に広がる庭園を横目に、三子達は平屋の裏手に回った。見事だった庭園とは裏腹に、裏手には簡素な芝生が広がるのみである。ところどころ、まるで爆発した跡地のような焦げ後が残っているのは、歴代の修行の賜物だろうか。……一瞬ニハの得意げな顔が頭に浮かび挙がったため、三子は瞬時にそれを追い払った。
智恵の足は更に奥へと進んだ。平屋とは随分離れた場所にある納屋にたどり着くと、三子を一旦入り口で待たせ、彼女はそのまま中へ入っていった。そうしてしばらくして彼女が手に持っていたのは、小さな箱だった。
「あ、それ見たことある。この前あの男の子が持ってたものだよね?」
「そうです。これは少し特殊な造りになっています。氷室家は、ものに霊力を込めるのが得意ですから、これも作ってもらったんです。以前あなたに渡したお守りもそうですよ」
「そうなの? てっきりお婆ちゃんが作ってるのかと……」
「外のお守り袋は私の手製ですよ。しかし中に入っている護符は氷室家で作られたものです」
「へえ……」
智恵と三子は、そのまま離れへ向かった。母屋は時折名前も知らない人とすれ違うことがあったのだが、離れにはとんと人の気配はない。その上、とことん殺風景だ。隅に寄せられた座布団がむしろその寂しさを浮き彫りにしていた。智恵は、座布団を二つ床に敷くと、そのま腰を下ろした。三子も座布団に正座をするが、本当のところ、こんな大きな部屋に二人だけというのは、少々居心地が悪い心地だった。
智恵と三子は、座ったまま正面に向かい合った。
「まず……縁について説明しましょうか」
「うん」
縁については、ニハや仁科家当主からも聞いていたのだが、三子は大人しく頷いた。なんとなく分かってはいるものの、自分の言葉で説明できるほど、まだ完全な理解には至っていないのだ。
智恵は小さく咳払いをすると、三子と視線を合わせた。
「人間でも幽霊であっても、一度この世に生を受けた者は、縁と呼ばれるものを持っています。記憶の欠片……とでも言いましょうか、それらが寄り集まったものが縁です。生者に対しては、縁はなんの効力も発生しません。しかし、もしも死者が成仏できずに幽霊になったとき、縁はその霊が本当に大切だと思うものや未練となるものに結びつくんです。紐のようなものだと想像してもらえれば結構です。ここまでは分かりますか?」
「……うん」
以前聞いていた内容に、更に新しい情報が加えられたような気がしたが、またしても三子は首を縦に振った。祖母の話を遮るのが申し訳なかったのだ。
「まるで糸や紐のような細長い縁――これを結ぶことのできる力を、『封じ』と言います。そして『封じ』を使うことで、除霊、浄霊しきれない強い霊を、ものや場所に閉じ込めるのです」
「閉じ込める……」
三子は物憂げに呟いた。その言葉の響きが、意外にものものしく感じられたのだ。
「本当にずっと閉じ込めるの? 強い幽霊だって、成仏したがってるんじゃないの?」
「それは……そうですね」
戸惑ったように智恵は言葉に詰まったが、またすぐに調子を取り戻す。
「しかし、現世に留まれば留まるほど、縁は淀むんです。縁は、もともと生きていたときの記憶の欠片。死者になってしまった途端、流れが止まり、ただの細い塊となってしまう。流れの止まった縁のまま、いつまでも正気を保っていられる者などほとんどいません。除霊もできず、そういった者たちが怨霊となってしまうことを考えれば、封じで閉じ込めることは、やむを得ないことなんです。もちろん、数十年経って霊力が次第に薄れてきたところで、今度こそきちんと浄霊はしますが」
「そう、なんだ」
辛くは、ないのだろうか。
三子はそう思わずにはいられなかった。
なまじ、ニハやイチ、大切な二人が幽霊であるばかりに、三子がつい幽霊に偏った意見を持ってしまうのも仕方がなかった。
「除霊……除霊をすることは、縁を断ち切ることだって聞いた」
三子の疑問は、まるで湯水のごとく出てきた。
「縁を切られた霊は、成仏するか、正気を失うかどうかだってことも。……でも、成仏できなかった霊はどうすればいいの? 本当にずっとそのままなの? 成仏できないの?」
「……基本的に、霊力の強い霊は、祓いにくいんです。浄霊であれば、なおさらのこと。その霊よりも、遙かに強い霊力を持つ人物ならば、あるいは浄霊もできるかもしれません」
「お婆ちゃんの知っている人で、一番霊力の強い人って……?」
三子は、固唾をのんでその問いを押し出した。智恵は少し考えるようなそぶりを見せたが、やがて目を閉じる。
「……矢代二葉。あなたの姉です」
「――っ」
小さく息をのみ、三子は黙り込んだ。
……それでは、もうどうしようもないじゃないか。
一番霊力の強い人物がニハならば、もちろん彼女は自分自身を浄霊なんてできないだろうし、イチにしてもそうだろう。
「もう、話を進めても構いませんか?」
「……うん」
三子は力なく頷いた。
二人の居場所は、未だ分からない。それならば、今の自分にできることをやるしかないのだ。
「これを見てください」
智恵は小箱を胸元まで持ち上げた。
「箱に繋がれているこの紐には、霊力が込められています。少し作りは違いますが、縁と同じような効果を持っています。ですから、志藤家の者がこの紐を結ぶと、誰もこの箱を開けることができない。一方で、力のないものがこの紐を固く結んだとしても、不思議と紐は緩んで、簡単に開けることができてしまうんです」
言いながら、智恵は箱を一旦膝に置き、固結びをした。そして箱を三子に差し出し、促すように三子を見た。三子の方も、ゆっくり手を出して、紐を引っ張ってみた。……確かに、開かない。
「そういえば、あの男の子、蝶々結びは駄目っていってたけど、それも関係あるの?」
「そうですね……。本当に駄目、というわけではありません。要は、意識の問題なんです。蝶々結びは、引っ張れば簡単に緩んでしまうという固定観念が私たちの中にありますよね? 封じたい霊の縁を、すぐに緩んでしまうという意識のある結び方にしてしまうと、残念ながらそれは事実になってしまいます。きちんと自分の中で制御できる人であれば問題ありませんが、なかなかそうはいかないので」
だから、あの人はあれほど結び方にこだわっていたのか。
三子は今更ながらに納得したが、しかし、あの人ももうちょっと言い方というものがあるのではないかと思わずにはいられなかったが。
「もちろん、自分が結んだ縁が、すぐに緩んでしまうんじゃないかと思ってしまうのも厳禁です。油断は禁物。そう思ってしまったら、すぐにその思いは事実となるでしょう。自分の意志を強く持つことが大切です。ですが、縁は、この紐のように、確かな形があるわけではないので、実際に結ぶとなると、慣れないうちは難しいでしょう。まず、今日はこの箱を使って練習しましょうか」
そういって、智恵は三子に箱を差し出した。三子も恐る恐るその箱を受け取る。
一見何の変哲もないこの箱に霊力が込められているなど、見かけだけではなんとも想像することはできなかった。それに、霊を閉じ込める、という言葉の響きもなんだか物々しい。
……でも、それが今の自分にできることならば。
三子は、今までニハ達や修平が霊相手に奮闘している姿を、側で見ていることしかできなかった。それが歯がゆかった。しかし、もしこの修行で変わることができるのなら? もし、この力で何かニハとイチを助けられることができるのなら?
三子は、一層表情を引き締め、居住まいを正した。