55:憎しみが先立つ


 当主の部屋から出ると、まるで待ち構えていたように久代が駆け寄ってきた。手には電話の子機を持っていた。

「慶史様、志藤智恵様からお電話でございます」
「うっ」

 にっこり差し出される子機を、慶史は震えながら手にした。これから言われるであろう罵詈雑言の数々が容易に想像できるのだろう。

「こ、こんにちは、志藤さん……」
『私が今何に怒っているのが、あなたはお分かりですか』

 子機からは、静かに怒り狂う智恵の声がありありと漏れてきた。三子も彼女の怒りは想像できたため、申し訳なさそうに久代に顔を向けた。

「お婆ちゃん、やっぱり何も言わずにこっちへ来たことに怒ってるんだよね? 私、つい連絡忘れちゃって……」
「三子様が申し訳なく思われることはありませんよ」

 久代は三子の背中に手を当てた。

「あの電話も、私が志藤様におかけしたんです。配慮の足りない慶史様のことですから、志藤様に連絡なさっていないことは想像にたやすかったものですから」

 そうして険しく慶史を見つめる久代。彼女の声が聞こえたわけでもあるまいに、慶史は愛想笑いを浮かべた。

「すみません、すぐに連絡をしようと思っていたんですが、ちょっとゴタゴタがありまして……。志藤さんには、本当に申し訳なく思って――」
『私に? 今私に申し訳なく思うとおっしゃいましたか? ……呆れた。貴方は本当に何も分かっておられないんですね。もしかして、三子さんのこともまるで騙すかのように連れてきたわけじゃ――』
「お、お婆ちゃん!」

 三子は慌てて慶史の右腕を掴み、子機を自分の所まで引き寄せた。これ以上祖母の怒りが爆発しないようとの配慮だった。

「私は大丈夫だよ! 自分からお父さんについてきたの。いろいろ聞きたいこともあったから」
「三子さん……」
「志藤さん」

 慶史は大きく息を吸った。

「僕だって、三子を危険な目に遭わせたくはないんです、大切な娘ですから。……ですが、今回は三子の力を借りないわけにはいかない。今回で、ようやく全てが終わるんです。長かった、この六年間は、本当に長かったんです」

 子機を持つ慶史の手が震えた。違和感に三子が顔を上げたが、すぐに彼は気を取り戻した。

「全部片がついたら、理恵子に会いに行くと誓います。全てをありのままに理恵子に話します。三子のことも、今度こそ僕が責任を持って守ります。絶対に死なせはしません。お約束します」
『…………』

 しばらく、智恵は黙ったままだった。ようやく口を開いたと思えば、その声はひどく冷たいものだった。

『今からそちらに向かいます』
「えっ」
『あなたのことは信用なりませんから、三子さんを任せるわけにはいきません。構いませんよね?』
「は、はあ……。でも理恵子は」
『あなたが心配なさることではありません。あなたに三子さんを任せるよりは、私が一緒にいる方がよっぽど安心でしょう』
「そ、そうですね」

 機嫌をとるかのように、慶史はうんうん頷く。智恵は更に続けた。

『今、理恵子はまだ仕事で帰ってきていないんです。一応置き手紙は置いて、理恵子の方にも直接電話をするよう書いておきますから、あなたたちもいつでも理恵子からの電話を取れるようにしていてください』
「はい。ご迷惑をおかけします」

 電話越しだが、慶史は深く頭を下げた。その気配が伝わったのか、智恵はわずかに溜飲を下げたようで、声の調子は落ち着いた。

『もういいです。今回のことで、全て終わらせましょう。ただ、理恵子も心配すると思うので、三子さんが伊礼山に登るということはくれぐれも内密にお願いします。私がそちらに伺うのも、あなたの監視ということに――まあ、これについてはあながち間違いではありませんが――しておきます。三子さんは、あなたに会いたくなってそちらに向かったと、そういうことです』
「はい、分かりました。三子にもそのように伝えます」
『ではこれで。今からすぐに窺いますから』
「はい。お待ちしています」

 そうして電話が切れた。慶史はしばらく切れた子機を見つめていたが、やがてそれを久代に返した。

「次は理恵子様ですよ。理恵子様にも、きちんと御自分の口からご説明しなければ」
「はい、分かっています」

 沈痛な面持ちだった。父と祖母、そして母との間にある軋轢を、三子は未だ理解することができなかった。どうして父の実家に来ただけで、ここまで痛々しい空気が流れるのか。――全ては三子自身の意志であったが、その意志から来る行動の責任は、父親である慶史に来ることを、三子は分かっていなかった。分かり得なかった。

「三子、疲れただろう。今から部屋に案内するよ」
「うん」

 そう語りかける当人の方が、よっぽど疲れたような顔をしている。
 だが、三子はそのことについて指摘はせず、黙って慶史と共に廊下を歩いた。

「昔、三子が遊びに来たとき泊まっていた部屋だ。定期的に相似してあるから綺麗だぞ。それに広いし」

 歩きながら、慶史は嬉しそうに話し出した。

「あっ、そうだ。まだ夕ご飯を食べてなかったな。お腹空いたか?」
「ううん、後でいいよ。お母さんからの電話もあるし」
「そ、そうか」

 そうこうしている間に、二人は部屋にたどり着いた。壁を伝って電気をつけると、すぐに部屋は一望できた。衣装ダンスやテーブル、座椅子など一通りの家具が揃っている。三子は座椅子に腰を下ろすと、もの言いたげに慶史を見上げた。彼もまた、覚悟を決めたように、三子の前に腰を下ろす。視線を落とし、髪を掻き上げた。

「二葉と一也のことについて、だったな」
「うん」
「何が聞きたいんだ?」

 静かに問う慶史に、三子は一瞬言葉を詰まらせた。何を聞こう、とは具体的に考えていなかったのだ。しかし、ふっと頭に浮かぶものがあった。

「……お父さんは、二人がいなくなって、寂しかった?」
「え?」
「お婆ちゃん、お父さんは、二人が死んでからも仕事人間だったって言ってたから。お母さんのことをずっと独りぼっちにしてたって……」

 祖母は、そう簡単に悪口を口にするような人には思えなかった。だから、彼女の言葉がずっと心に引っかかっていたのだ。いや、それだけではない。離婚してからというものの、ずっと会いに来ない父親に、寂しさとともに、小さく諦めを抱いていたことも確か。
 三子は、父からの愛情を感じていないわけではなかった。だが、同時に納得しかけていた。父は、確かに自分たちのことを愛しているのだろう。しかし、それ以上に、幽霊に関する仕事の方が大切な位置を占めているのではないか、と。

「憎かった」

 しかし、父からの返答は、予想外のものだった。

「寂しい、悲しいという感情よりも先に、二人を殺めた霊を憎む感情の方が大きくなってしまった。同時に油断した自分が許せなかった。あのときどうして目を離したのか。そもそもどうしてお前達まで伊礼山に連れて行ってしまったのか。……そう考えると、どんどん憎しみが堪えきれなくなってきて、なんとしてでも、あいつらをこの手で葬り去ってやりたいと思うようになった」

 力を入れすぎて、慶史の腕には血管が浮き立っていた。見ていられず、三子は思わずその腕に触れた。

「そのこと、お母さんには?」
「……言えるわけがない。理恵子には、きっと俺のことは理解できない。悲しみよりも、憎しみが先立つだなんて。きっと、俺がただ言い訳してるようにしか思えないだろう」
「そんなこと……」
「いや、そうだ。理恵子とは、きっと一生わかり合えないんだ。たぶん、俺はどこかおかしいんだ。悲しい、確かに悲しく思うのに、それを表に出すことができない。それ以上に悔しいんだ。憎らしいんだ。あいつら……あいつらはいつも俺たちを苦しめて!」
「お父さん……」

 宙を睨み付ける慶史に、三子はなんと声をかければいいか分からなかった。慰めるように彼の腕を掴んだが、それで慶史の心が癒やされることはない。

「理恵子、お前の前で二葉と一也のことについて話題に挙げたこと一度もないだろ?」

 顔を片手で拭うと、慶史は鼻をすすった。

「う、うん」
「それはそうだ。お前があの伊礼山での出来事を境に、記憶を失っているということに気づいてからは、あいつ、お前には二人のことを内緒にしておこうって言い出したんだ。自分に兄弟がいて、その二人がもう亡くなってるなんてことを、まだ幼いお前に聞かせたくなかったから」
「…………」
「自分だって悲しいくせに、その感情を押し殺して、お前の前では明るく振る舞って。……馬鹿みたいだ。俺には全く考えられなかった。悲しかったら泣けばいいのに。そんな風にされたら、ただでさえ俺は鈍感なのに、もう立ち直ってるんじゃないかと、幽霊の方に専念してもいいんじゃないかと思ってしまう」

 もう一度鼻をすすると、慶史はそっぽを向いた。顔には自嘲の笑みが浮かんでいた。

「……馬鹿は俺の方だな。あいつのせいにして、責任逃れをしようだなんて。本当は分かってる。俺が一番あいつの側にいてやればよかっただけだって。でも、そんな器用なことできなかったんだ。幽霊と理恵子。見据えなきゃいけないのは未来だって分かってた。でも、俺にはどうしても過去にしか目が向かないんだよ……!」

 慶史はドンと拳でテーブルを叩いた。まるで、いつかの祖母の姿を見ているようで、三子は胸が苦しくなった。考えていることは一緒なのに、どうしてみんな歯車がかみ合わないのか、と。

「ごめんな。こんな情けないこと話すつもりじゃなかったのに」

 慶史は片手で顔を覆うと、薄く笑った。

「三子が相手だと、どうも油断してしまうな」

 まるで冗談でも言うような口調だったが、涙声では、ちっとも笑えない。

「ねえ、お父さん」

 これ以上何か言わせたくなくて、三子は真剣な表情で口を開いた。

「なんだ?」
「今回のことが終わったら、今日話してくれたこと、全部お母さんに話して。もし心配だったら、私もその場にいるから」
「でも……」
「本当にわかり合えないと思う? お父さんのことが分からなくても、お父さんの思いは分かる。二人とも心の底では同じことを考えてるのに、そのことを知らずに別々に過ごしてる方が私は悲しい」

 三子は、掴んでいた父の腕に力を入れた。

「私じゃ、多分お母さんの愚痴相手にはなれないと思うから、せめてお父さんにそうなって欲しいの。お母さん、今も一人で抱え込んでると思うから」

 いつも、母は寂しそうだった。でも、決して私にその悩みを打ち明けてはくれなかった。――今なら分かる。きっと、ニハとイチの記憶もない私に、心配をかけたくなかったのだと。……でも、同時に寂しくも思った。私は、そんなに弱くはないのにと。

「ああ、分かった。ちゃんと話すよ、今までのこと全て」

 慶史は三子の手をポンと叩いた。表情が明るくなった父に、三子も同じく頬を緩めた。

「ありがとう」
「いや、こちらこそ。……それより、三子はもういいのか? 何か他に聞きたいことはないのか?」
「そうだね」

 三子は柔らかく頷いた。

「私、ずっとお父さんに聞いてみたいことがあって」
「なんだ?」
「ニハとイチは――」
「……っ」

 小さく息をのむ音が聞こえ、三子は咄嗟に言葉を切った。

「どうしたの?」
「いや……。懐かしいなと思って。お前達、よくそんな風に自分たちだけのあだ名で呼んでた。なんでその呼び名を?」
「あ……えっと、お婆ちゃんから聞いたの。私も、この呼び方の方がしっくりくるなって」
「……そうか」

 騙していることに、若干の罪悪感がわく三子。だが、祖母同様、ここまで憔悴している父に、あの二人と過ごした時のことは言い出せなかった。その代わり。

「ニハとイチが死んじゃったとき、私はどうして助かったの? 私もその場にいたんだよね?」
「それは……」

 慶史は言いよどんだ。

「俺も、よく分からないんだ。普通、霊は霊力を持つ人間を狙う。霊力が目印となって、襲いやすいからだ。お前は幽霊に狙われやすい体質だが、それでも霊力を持っていないから、霊にその存在を認識されにくい。だから、伊礼山でも無事だったのかも知れない」
「…………」
「でもな、俺には二葉や一也が、ただ幽霊達に襲われたとは考えられないんだ。ああ見えて、二人とも厳しい修行を積んだ身だ。歳に似合わない実力を兼ね備えてもいる。そんな二人が、そうむざむざと殺されるとも考えにくい。……とすると、何か想定外の出来事が起こったのか、それとも二人以上の霊力を持った霊が襲ってきたかのどちらかだ」

 慶史は両手を組み合わせ、眉間の皺を深くした。

「側で見ていないから、俺にはあのときあの場所で何が起こったかは分からない。でも、なんとなく、あの二人がお前のことを守ってくれたんじゃないかって思うんだ」
「……っ」
「いくら霊力がないからと言って、お前の体質は、そうそう霊達から逃れられるようなものじゃない。きっと、強い力を持つ霊ならば、お前の存在に気づいていたはずだ。それでもお前は無事だった。……となると、あの二人が守ってくれたとしか考えられない」
「本当に?」

 三子は小さく声を絞り出した。

「本当にそう思う?」
「ああ」

 父からの肯定に、三子は相好を崩した。その表情は、どこか泣きそうにすら見える。

「……私もね、お婆ちゃんからその話を聞いたとき、ちょっとそうかなって思ったの。ニハとイチが守ってくれたんじゃないかって。だって、いつもそうだったもん。いつも自分たちのことは二の次で、私のことばかり心配して。妹だからって、そこまでしなくていいのにね……」
「思い出したのか?」

 慶史は勢い込んで尋ねた。だが、三子は応えない。

「私、行くよ、伊礼山に。何ができるのかは分からないけど、絶対に行く」

 三子の意志のこもった言葉に、慶史の視界はにじんだ。思わず言葉を詰まらせながら、下を向く。

「ああ。……もうすぐ、二人の七回忌なんだ。当主も、俺の意を汲んで、二人の命日――十二月二十三日に日取りを決めてくれた。必ず、俺はこの日で決着をつけるつもりだ。そのためには三子、お前の力がどうしても必要だ。俺は決してお前を危険な目には遭わせない。だから、ついてきてくれるか?」
「当たり前でしょ」

 三子は即答した。

「私、いつもあの二人に助けられてばっかりだったから、私も二人に何かしてあげたいの。私が行ったからって、何が変わるわけでもないかもしれないけど」
「三子、やっぱりお前、記憶が戻ったんじゃ……」

 まるでよく知る人物のように語る娘に、慶史は唖然とした。驚きと、そして喜び、どちらともない交ぜになったような顔だ。しかし、三子は陰りのある顔で笑うのみだ。

「伊礼山に登ったら、記憶、ちゃんと戻ってくれるかな」
「……三子?」

 どういうことなのか、更に慶史が問いただそうとしたとき、部屋の外から呼びかける声があった。ハッとして二人はそちらに顔を向ける。

「理恵子様からお電話です。まず慶史様に変わって欲しいと」
「……分かりました」

 慶史は一瞬で顔を引き締めると、立ち上がって襖を開けた。子機を手に佇む久代に、右手を差し出す。

「理恵子か?」

 慶史は穏やかな声で電話の向こうに語りかけた。祖母の時とは違って、母は落ち着いていたのか、子機から彼女の声が漏れることはなかった。

「――ああ。それについては本当に申し訳なく思う。悪かった。ただ、今回のことが終われば、三子を連れて必ずそっちに戻る。今まで俺は逃げていたが、全て話すよ、今までのこと全部」

 まるで目の前に母がいるかのように、父は背を真っ直ぐにして話していた。三子はそんな彼を、誇らしくも思った。

「――うん、分かった。……三子? お母さんが変わって欲しいって」

 慶史が振り返る。三子は笑って駆け寄った。

「うん。……お母さん?」

 電話越しに母と話すなんて久しぶりだ。母の心配を余所に、三子はそんな呑気なことを考えていた。自然、声の調子が明るくなるのも仕方がなかった。

『三子、元気そうね。久しぶりにお父さんに会えて良かった?』
「うん、たくさん話したから。会えて良かったよ」
『そう……」

 わずかに理恵子の声の調子が下がる。どうしたのかと三子は尋ねようとしたが、それよりも早く理恵子は口を開く。

『どうして、お父さんについていったの? あっ、別に責めてるわけじゃないのよ。ただ不思議に思って』
「……お父さんに、聞きたいことがあったの。いろいろと。ごめんね、心配かけて。せめてお母さんに話してきてから来れば良かったね」
『ううん、三子が無事なら、私はそれでいいのよ』

 そうは言いながらも、子機からの理恵子の声は元気がない。

「お母さん、私は大丈夫だから。私――私」

 一瞬、三子はニハ達のことについて話そうかと思った。ニハとイチ、二人の存在を知ってしまったこと。二人のために、必ず伊礼山でやるべきことをやってくること。

「ちゃんと帰ってくるね。すぐに帰ってくるから」

 ……しかし、結局三子は言い出せなかった。どちらにせよ、全部終わったら、話せばいいことだ。今はまだ、話す時期ではないんじゃないかと、三子はそう思ってしまった。

『……分かった。待ってるわね。三子のこと、私、信じてるから』

 三子の思いは、子機の向こうの母ではなく、伊礼山に残されたままのニハとイチの思い出に向かっていた。必ず幽霊達と決着をつけて、二人の無念を晴らしたいと。

『お婆ちゃんの言うことをよく聞くのよ。一人で危ないことはやっちゃ駄目』

 だからなのか、母の様子がいつもよりおかしいことに気がつかなかった。それどころか、微かにその声が震えていることにすら。

『不安に思ったら、いつでも周りの大人に頼りなさい。いつだってあなたを助けてくれるから』
「うん」
『おやすみなさい、身体を温かくして寝るのよ』
「うん、お母さんも。おやすみなさい……」

 三子は、そっと電話を切ると、久代にお礼を述べて、子機を返した。そうして振り返って、父と微笑む。――遠く離れた志藤家で、母が一人、暗い部屋で顔を覆っているとは、三子には知り得ないことだった。