54:覚えてないだろうが
矢代家には、一時間ほどで到着した。まだ辺りは暗くないが、時期が時期だけに、もう間もなく夕闇に紛れるのだろう。
「三子、疲れてないか? まずお前には当主に会って欲しいんだが……」
「当主って?」
ものものしい響きに、三子は表情を強ばらせた。だが、そんな三子の思いも、杞憂だと言わんばかりに慶史は笑い飛ばした。
「矢代茂隆。お前のお爺ちゃんだよ。覚えてないかも知れないが、小さい頃何度か会ったこともあるんだぞ」
「そうなんだ……」
とりあえず返答はしたものの、三子の顔は浮かなかった。
何度か会ったと言っても、覚えてないのなら意味がない。
父の慰めも、ちっとも役に立たず、三子は不満げに唇を尖らせた。
「じゃあ、私は氷室君を送っていきます」
「今日はありがとう」
慶史は一旦車の外に出たが、悠司の言葉を受け、また屈んで扉から顔を入れた。
「旧校舎の方は何も問題なかったんだよね?」
「はい。残っていた幽霊も散らばったようですし、近隣に影響はないかと。ただ……」
「ただ?」
一瞬物憂げな表情を見せる尚人に、慶史は首を傾げる。
「ただ……旧校舎の跡地が、少し奇妙に感じられました。まるで爆発でもあったかのような……」
三子は少々顔を赤くして俯いた。ニハの仕業だなんて、口が裂けても言えない。
「爆発……そうか」
慶史は言葉少なに黙り込んだ。影のあるその表情に、場は静まりかえる。
「――確か、旧校舎が崩壊したとき、仁科さんのお孫さんがその場にいらっしゃったんですよね? そのお孫さんはなんておっしゃってたんです?」
悠司は窺うように慶史を見上げた。だが、彼が答えるよりも早く、尚人が割って入った。
「先ほど、僕が直接聞きました。なんでも、旧校舎から出ようとした幽霊達が争いを始め、互いの霊力がぶつかり合ったときに爆発してしまった……と言っていました」
「……本当にそんなことが?」
いつかの尚人のように、悠司の目は疑り深い。
まるで自分が疑われているように思ったのか、尚人は不満そうに腕を組んだ。
「僕も全部が全部信じたわけじゃありませんよ。でも、彼が嘘をつく利点もありませんし。どうしたものかと」
「そうですね……」
悠司もまた宙を見つめながら顎に手を当てた。再び車内が静かになる。真実を知っている三子としては、居心地の悪い空間であることこの上ない。
「こうしていても、仕方がないからな。その話はまた今度しよう。とにかく、尚人君。今日は助かったよ」
「いえ。また何かあったら呼んでください」
「――三子」
慶史に声をかけられ、三子は慌てて我に返って車外に出た。場の雰囲気にのまれ、すっかり自分の目的を忘れていたのだ。
「あの、ここまでありがとうございました」
「いえ。今日は久しぶりにお会いできて良かったです」
悠司の微笑みと共に、ゆっくり窓が閉められていく。三子は一歩後ずさった。
「……ちょっと試しに聞いてみるだけだが」
「ん? 何?」
含みのある言い方に、三子は慶史に視線を向けた。
「尚人君のこと……どう思った?」
「尚人君って……さっきの男の子だよね?」
「ああ」
「どう思うって、どういうこと?」
あやふやな質問に、三子は再び聞き返した。
「いや……その。格好いいなあとか、優しいなあとか」
「うん?」
言われてみて、三子は初対面の時のことを思い返してみた。
……初対面は、まず良い印象を抱かなかった。自分も学校を休んでいることを棚に上げ、三子に対して口を挟んできた。それだけでなく、いきなり紐を結べだの意味の分からないことを強要してきたところも理解不能だった。
二度目の再会も……似たようなものか。
三子は考えることを放棄した。
「変わった人かなとは思うけど」
「変わった人……か。見た目はどうだ? 眼鏡が似合っていて、好印象じゃないか?」
「うん……」
確かに、眼鏡の奥の瞳は切れ長で、第一印象は賢そうに見えた。しかし話せば話すほど、あっさりしていて、聞きようによっては冷たく感じる話し方だとも思った。
――いや、そもそもなぜ真剣にこんなことを考えているのか。
ここにはいない男の子のことについて、父親に興味深そうに聞かれていることに対して、三子は急に恥ずかしくなった。同時に、なんでこんなことを聞いてくるのかという不満もある。三子は早々に切り上げた。
「確かに頭が良さそうだね。背も高いし」
「そ、そうか!」
やけに嬉しそうな顔で慶史は前を向いた。一体この一連の応答は何だったのかと三子は聞き返したかったが、それよりも気になることがあったため、三子は慶史から視線を外し、そのまま目の前の「矢代家」を見た。
――矢代家は、途方もなく大きい家だった。高く、重厚感のある塀がどこまでも続いており、一見するだけでは果ては見えない。きっと、塀の中にある家もまた、同じく広い造りになっているのだろう。立派な門のすぐ側には、大きく「矢代」の表札が掲げられているため、三子の父方の生家であることは間違いない。緊張に真っ白になる頭で、何坪あるんだろう、と三子はぼんやり考えた。
「行くぞ」
「うん」
慣れた動作で慶史が矢代家の門をくぐるので、三子も慌ててその後に続いた。
門の先は、砂利と石畳の道が真っ直ぐ続いていた。道を挟むようにして広がる左右の庭には、それぞれ大きな池や庭石、草木が配されていた。古き良き和風庭園といった印象を受け、三子はますます背筋を伸ばす。
「覚えてるかー、三子。小さい頃はしばらくここで暮らしてた時期もあったんだぞ」
「そうなの?」
家の中に入るだけでも、結構な距離がある。その間、慶史は三子に話しかけてきた。
「ああ。……やっぱり、覚えてないか」
どことなく寂しそうに言う父親に、三子は何も言葉を返せなかった。
「まあ、それも仕方がないな」
ようやく玄関にたどり着いた。慶史がチャイムを鳴らすと、すぐにお手伝いとみられる老齢の女性が中から姿を現した。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。三子を連れてきたんです。当主は今部屋に?」
「はい。部屋で休んでおられます」
「そうですか。ありがとうございます」
手早く靴を脱ぐと、慶史は三子に促すような視線を向けた。慌てて三子も屈んで靴を脱ぐ。
「お、お邪魔します……」
老婦人にぺこっと頭を下げると、彼女は目尻を下げて三子を見返した。
「本当にお久しゅうございます、三子様。久代です。覚えておいでですか?」
うっすらと涙すら浮かんで見える久代の瞳に、三子は盛大にたじろいだ。急いで記憶を反芻してみるが、曖昧な自身の記憶に、彼女の姿はない。
三子の助けを求める視線に、慶史は困ったように頬を掻いた。
「三子が久代さんと会ったのは本当に小さい頃でしたしね。三子が覚えていないのも仕方がないのかも知れません」
「そ、そうですよね……。仕方ないですよね」
目に見えてしゅんとする彼女に、三子は内心たじたじだっだ。だが、すぐに久代は元気を取り戻して顔を上げた。
「でも! またこうしてお会いすることができて嬉しゅうございます。ご立派に成長なされて……。なんだか目元が慶史様に似てらっしゃるような気もいたします」
「本当ですか!? そんなこと初めて言われた!」
「ええ、本当でございますとも。成長なさるごとに変化が著しくなっておられるのですね」
うふふと綺麗に笑ってみせる久代に、慶史は一層前のめりになった。
「他にはどこか似てませんか?」
「そうですねえ。眉の形も、少し似てらっしゃるような気が。……ですが、性格は慶史様に似ない方がよろしいかと思いますね。気が弱い所が似てしまったら、将来他人の言いなりにばかりなってしまいますし」
「うん! ……うん?」
聞き間違いか、と思わず慶史は聞き返した。そのことに、久代は慌てたように口元に手を当てた。
「あっ、大変失礼いたしました! 三子様なら大丈夫ですよね。御自分の意志を強く持って、嫌なことは嫌とはっきりおっしゃるんですよ? ――もしかして、ここにも無理矢理に連れてこられたんですか?」
「あ……いえ、その」
「駄目ですよ! たとえ父親であっても、嫌なことはハッキリ断るんです! そうでもしないと、父親そっくりの性格になってしまいますよ!」
「あ、えっと」
「違うよな!? 三子、自分の意志でここに来てくれたんだよな!?」
あんまりな言いように、慶史は泣きそうになって三子に同意を求める。なんだか父親が可哀想に思えて、三子は首を縦に振った。慶史は安堵のあまり、大きく脱力した。
「ほら、久代さん。三子もこう言ってるじゃ――」
「ならいいんですが。三子さん、今後も似たようなことが多々あるかと思いますが、場に流されてはいけませんよ? 自分できちんと物事を考えるんです」
「は、はい」
強く抱き締められ、三子はただただ頷いた。ゴホン、と慶史が大きく咳払いをしてようやく、その時間に終わりが来た。
「もういいですか? そろそろ当主に会わなければ」
「……そうですね。大変失礼いたしました」
すんと鼻を鳴らすと、久代は立ち上がって深く頭を下げた。三子も釣られて小さく頭を下げる。
「では行ってらっしゃいませ」
「はい」
久代に見送られながら、三子と慶史は廊下を進んだ。まだそこまで歩かないうちに、慶史は思いため息をついた。
「俺……あの人苦手なんだよなあ」
「そうなの?」
「なんだか嫌われてるみたいだし。俺にだけ当たりが強いし」
「うーん……」
確かに、鈍感な三子でも、さすがに違和感は感じていた。だが、自分を抱き締める腕は優しかったし、基本的にはいい人ではないのか、と三子は思っていた。
その後も、長い廊下を歩いていると、様々な人とすれ違った。数人で話しながら歩いている人たちや、平屋であるこの家には似つかわしくないスーツを着込んだ男性もいた。すれ違う度に、三子達は、頭を下げたり下げられたりしながら、そのまま廊下を突き進む。
しばらくして、慶史は大きな部屋の前で立ち止まった。時が経つのは早いもので、その頃にはもう廊下に面している中庭から、夕日が差し込んでいた。
自分の影が襖に浮かび上がっているのをぼんやり見つめながら、三子は慶史の隣に立った。
「慶史です。三子が到着しました」
「――入りなさい」
かすれてはいるが、力のある声が響いてきた。威厳のある声に、三子はまたも表情を強ばらせる。
「行くぞ」
「う、うん……」
慶史の後に続き、三子も部屋の中に身を滑り込ませた。下を向きながら、まるで時間稼ぎのようにゆっくり襖を閉める。
「…………」
慶史は、黙したまま部屋の中央まで進んだ。三子も歩きながらこっそり部屋の中を見回した。
当主の部屋ということで、だいたいの想像はついていたが、その部屋は本当に大きかった。ちょっとした宴会でも開けそうな広さである。だが、だからこそ、余計に孤独が感じられた。部屋の中に、ほとんど調度品がないのも一つの理由だろう。部屋の片隅に座布団が積み重ねられ、その側に小さな文机がある以外は、何もない。
理由は分からないが、三子は何故だかもの寂しい気持ちになった。
部屋の奥には、座椅子にもたれたまま三子達に顔を向けている老人がいた。あの人がお爺ちゃんなのか、と三子は緊張と高揚で胸がドキドキした。
茂隆の前には、二つの座布団が敷かれていた。三子達はそこに座ろうと腰を下ろしかけたが、その前に、茂隆が話しかけてきた。
「もっと近くに寄りなさい」
「…………」
三子と慶史は顔を見合わせた。と、慶史は顎で前を示して見せた。まるで、お前一人で行ってこいと言わんばかりの仕草に、三子は唖然と彼を見返した。――なんだか見捨てられた気分だった。ただでさえ緊張しているというのに!
三子はちょっと躊躇ったが、そのまま仕方なしに歩みを進めた。彼の一メートルほど手前で立ち止まり、おどおどとしていたが、更に茂隆は「もっとだ」と声をかけてきた。やけくそになって、彼のすぐ直前まで歩いてきたとき、三子はようやく気がついた。茂隆は、ずっと目をつむっていたのだ。三子が近づいてもなお、それは変わらない。
もしかして、目が――。
「屈みなさい」
声をかけられ、三子はスッと茂隆の目の前に正座した。茂隆は目をつむったまま両手を伸ばし、三子の顔に触れた。こそばゆい気持ちだったが、三子はされるがままになっていた。
「もう中学生だったか?」
「はい。今中学一年生です」
「そうか。学校は楽しいか?」
「あっ、はい。友達もできました」
「そうか……」
やがて茂隆の手が止まり、彼の膝元まで戻された。三子は手持ち無沙汰なまま彼を見つめるのみだ。
「――わしらは、十二月二十三日に、伊礼山に登るつもりだ。そこで霊達との長年の因縁の決着をつける。厳しい戦いになるが、お前も力を貸してくれるな?」
「う、うん。私で力になれるのなら……」
三子は、訳も分からずに承諾していた。力になれるのなら、それは嬉しいことだが、しかし実際に自分がどんなことをするとは、まだとんと理解していない。にもかかわらず、とりあえず頷いてしまったのは、やはり気の弱い父の慶史に似てしまったせいか。
「明日からは逸見英樹という者がお前の修行に当たる。心してとりかかるように」
「はい」
明日から、という言葉に、学校はどうなるのだろうと三子は咄嗟に不安に思ったが、しかしこの雰囲気の中で、そんなことを口にできるわけもなく、三子は従順に首を縦に振るのみだ。
「では、もう今日は休みなさい。部屋を用意させた」
「はい」
「じゃあ三子、行こう」
背後の慶史からのかけ声に、三子は立ち上がった。ようやくこの緊張感から解放されると思った瞬間でもある。
しかし、部屋から出る一歩手前のところで、三子は再度茂隆を振り返った。
――少しだけ、物足りないような気がしたのである。小さい頃に何度か会ったのかも知れないが、今の三子からすれば、彼は初めて会った存在でもある。
――もう少し、話していたかったな。
近況報告だけではなく、もっと深いところまで、たくさん。
三子は話すのは苦手だったが、それでもそう思うくらいには、自分の祖父に、親近感を覚えていた。電気もつけずにこの大きな部屋でぽつんと座っている彼を見ていると、どうしても人ごとのようには思えないのだ。