51:力は確認しました


 ――もう、なにも考えられなかった。

 朝、なかなか起きない三子を心配して見に来た理恵子は、けだるそうにしている娘を見て、学校を休むよう提案した。三子も、今日はもう学校に行く元気はなかったため、力なく頷いた。
 仕事を休むことはできないので、理恵子はそのまま出勤し、家には三子と智恵だけが残った。病気な訳ではないのだが、三子の元気がない理由を知っている智恵は気がかりに思ったのか、そのまま食べたいものを尋ねて買い物に行ってしまった。
 三子は、部屋からも出ず、暗い中、ただぼうっと宙を見つめていた。

 不思議な心地だった。悲しいわけではない。ただ……むなしかった。もっと早くに二人のことが実の兄弟だということが分かっていれば、何か変わっていたのだろうかと。ずっと一人っ子だと思っていたのだから、もちろん驚きもあるだろうし、でもそれ以上に喜びの方が大きかったはずだ。他でもないニハとイチが、自分と家族だなんて、と。

 でも……なぜ、あの二人は自分たちが兄弟だと教えてくれなかったのだろうか。

 三子は浮かない顔で膝に顔を埋めた。

 しかし、思い返してみれば、違和感は至る所にあったのだ。

 ――あたしたち、こう見えてもう随分長い間あんたの傍にいたんだからね?
 ――だからお前のことなら何でも知ってるぜ、なあ?

 私しか知らないはずのこと――転んだことも、犬に追いかけられたことも、授業参観の時も、皆勤賞で表彰されたことも、二人はみんな知っていた。それは、幽霊の時からずっと側にいるからだと思っていた。でも、今思うと、言外にメッセージが含まれているような気がした。さんこが生まれたときからずっと一緒だったんだから、何でも知ってて当然だ、と。

 ――もう少しでひかれるところだったんだぞ!?
 ――あたしたちは、あんたに触れることができない――あんたを助けることもできないの! 自分で自分の身を守れるようになりなさい!

 思えば、二人はいつも私のことを心配していた。赤の他人なのに、どうしてこんなに私のためを思って言ってくれるのか、考えたことがないわけではなかった。でも、その理由が、まさか実の妹だからだなんて、誰が考えるだろうか。

 ――さんこは、これからもあたしがずっと見守っていく。だから、イチはこの子のこと、あたしに任せて行っていいのよ。
 ――さんこを頼む。……さんこ、ごめんな。

 どんな思いで、あの二人はこの台詞を口にしたんだろう。兄弟だからって、姉と兄だからって、自分の身を挺してまで妹の身を守る義務なんかどこにもないのに。私のせいで現世に留まるのか辛かったのなら、私のことなんか放っておけば良かったのに。

 ――あたし、さんことこうして話せるようになって良かったあ。
 ――だよな。今までは、俺たちの姿も声も、さんこには届かなかったわけだし。
 ――大きくなったわね――。

「う……」

 そしてあのとき、もうすでに二人は三子の側から離れることを決めていたのだ。決めたからこそ、柄にもなく殊勝なことを口にして。そして、旅だって行ってしまった。お別れの言葉もなしに。
 ひとりでに流れ出る涙をそのままに、三子は項垂れたままだった。

 ――分かっている、ずっとこうしていてもなにも変わらないことは。

 自分から動かなければ、あの二人を見つけることすらできないのだ。

 ……でも、考えずにはいられなかった。

 もし、あの二人が生きていたら、世界はどう変わっていたのだろうと。
 一緒に遊んで、時々喧嘩して。仲直りだってできる。それどころか、触れあうことすらも。寂しくなったら、抱きしめてもらうことだってできる。お婆ちゃんと一緒に遊園地だって行けた。
 もしかしたら、お父さんとお母さんだって離婚しなかったのかも知れない。

 ……お母さん。

 ふとその存在が頭に浮かんで、三子は一層表情を歪めた。
 分かってしまった。なぜ、彼女が時折悲しそうな顔をするのか。三子の帰りが遅いと、なぜ極度に心配するのか。

 ――二人も子供を失ってしまったのだから、それも当然だ。今でもなお、悲しみが癒えないのも仕方のないこと。私のことを、見てくれないのも――。

 唐突に、チャイムの音が鳴り響いた。三子はピクリと肩を揺らして固まる。
 応答がないまま、再びチャイムが鳴った。三子はのそりと立ち上がった。寝間着姿ではあるが、もう着替えるのも億劫だった。

「――はい」

 訪問者は、三子が泣きはらした顔をしているのを見て、面食らったようだった。しかし、すぐに空咳をして気を取り直す。

「ここは志藤家だな?」
「はい」

 相手は、制服を着た少年だった。三子よりはいくらか年上の、高校生くらいだろうか。見かけたことがない制服なので、もしかしたらこの近くの高校ではないのかも知れない。

「となると、お前は矢代三子か?」
「……はい。そうですけど」

 品定めでもするかのように、上から下まで見下ろされ、三子はいささか気分を害した。

「まだ小学生じゃなかったか? 学校は? 休んだのか?」

 詰問するかのような口調に、三子はわずかながら気色ばんだ。

「もう中学生です! 学校は……休みましたけど」
「休んだ? とんだ不良児童じゃないか、その年で。親は納得したのか?」
「――っ、そういうあなたは? あなたも高校生でしょ?」
「僕はやむを得ない事情があったんでな。サボった」

 開き直るどころか、むしろ堂々と言ってのけて、三子はもう呆れてものも言えなかった。小さく息を吐き出すと、引き戸に手をかけた。

「ご用がないなら、もういいですか? さようなら」
「待て。ないとは言っていない」

 閉まりかけた引き戸を、少年は慌てて押しとどめた。三子はため息をつきたくなるのを堪え、仕方なしに彼を見上げた。

「なんですか? お婆ちゃんなら出かけてます」
「なんだ、そうなのか? ……いや、まあそれはそれで都合は良いが」
「はい?」

 少年は、背負っていた斜めかけのバッグを下ろした。地面には置かずに、宙に浮かせたまま、中から箱のようなものを取り出した。

「結べ」
「……は?」
「この紐を結べ」

 三子はまじまじとその箱を観察した。丁度両手に乗るくらいのサイズだ。正面や側面に何やら文様が彫り込まれている。そして、蓋を閉じるためのものなのか、蓋部分の正面からは、二本の長い紐が伸びていた。
 少年の思惑がさっぱり分からず、三子は困惑して彼を見上げた。

「な、なんで」
「なんでもだ。結べ」
「…………」

 三子とて、言いたいことは山ほどある。だが、この面倒くさそうな少年相手に言い合うのも骨が折れそうだ。ひとまずここは自分が大人になるかと、三子は腹をくくって、少年が差し出す箱に手をかけた。
 結ぶ、といわれて頭に思い浮かぶのはもちろん蝶々結びだ。三子ももちろんそう結ぼうとしたが、険しい表情ですぐに少年に横やりを入れられた。

「何してるんだ。固結びに決まってるだろう! そんなことも分からないのか?」
「かっ、固結び? そんなことしたら開かなくなるかも――」
「それでいいんだ。ほら、早く」
「…………」

 三子はムッと唇を尖らせながらも、少年が言うままに固結びをして見せた。そして白い目で彼を見る。
 一体、紐を結ばせてなんだというのか。たかが紐を結ぶだけでああも偉そうに言われて、腹が立たないわけがない。そもそも、それくらい自分の手でやればいいだけなのに。

「…………」

 三子が箱から手を離すと、そのまま少年はまじまじと箱を見た。そして片手で紐を手に取り、軽く引っ張った。……当然、固結びをしているわけだから、その結び目が解けるはずもない。だが、少年は唖然としたように目を見開いた。そして鋭い目で三子のことを射貫く。

「お前……力が――」
「な、なに……」
「そこで何をしているんです!」

 突然智恵の険しい声が響き渡り、三子は肝を冷やした。なにも悪いことはしていないのに、なぜだか無性に申し訳ない気分だった。

「この家に何の用です。あなた方とは縁を切ったはずでしょう」

 足早に三子と少年の間に割って入ると、智恵は三子に目配せをした。

「三子さんは中に入っていなさい」
「え……」
「入っていてください」

 有無を言わせぬ口調に、三子はそれ以上食い下がることもできず、後ろ髪引かれる思いで家の中に入った。だが、もちろん引き戸を背にその場に陣取った。何故だか、無性に心惹かれたのだ。この二人の間には、何かがあると。自分が求める答えがあるのではないかと。

「そんなに警戒しないでくださいよ。僕だって喧嘩を売りに来たんじゃないですから」
「もう一度問います。ここへは一体何用で?」

 軽口にも聞こえる少年の文言を、智恵は一周した。少年はわずかに面食らったような顔をするが、すぐに立ち直った。

「あなたに、助力を請うようにと言われてきました」
「助力? では、いよいよ今年、伊礼山に登ると……?」
「はい。そのときが来たと、茂隆様がおっしゃっています」
「…………」

 しばらく、智恵は微動だにしなかった。考え込むように、口を真一文字に結んでいる。見かねた少年の方が、先にしびれを切らした。

「気が進まないのなら、お孫さんの三子さんの方でも良いんですよ? 先ほど力は確認しましたから」
「なっ……!」

 飄々とした様子で少年は先ほどの箱を持ち上げた。しっかりと結ばれた紐を見て、智恵は血相を変えた。わなわなと震える唇を、ギリッと噛みしめる。

「どうして……!」
「茂隆様もずっと釈然としなかったようですよ。赤子の時は微々たるものでも、確かに力を感じ取れたのに、どうして急にぱったりとその力がなくなってしまったのか。そこで、茂隆様も一つの仮説を立てていました。もし万が一、霊だけでなく、力も封じることができるのなら、と」
「…………」
「もしそんなことができるのであれば、あなたはきっと『封じ』を使うと、そう断言されましたから」

 口元をピクピクさせたまま、智恵は何も言わない。それを肯定と受け取ったのか、少年は薄く笑った。

「そうですか。やはりあなたが『封じ』をされていたんですね。そんな力の使い方もあったとは思いも寄りませんでした。見事に僕ら、一杯食わされたようですね」

 まるで自分を責めるかのように、組んだ両手に力を入れる智恵に、少年は同情するかのような視線を向けた。

「ご老体の身ではさぞ厳しいでしょうに。それに、力も落ちてきていると聞きます。それじゃあ思うように役目を果たしきれない。それは何よりもあなたがご存じのはずです。もしお身体の方が辛いのなら、お孫さんで――」
「もう結構です」

 少年の声を遮って、智恵は冷ややかに言い放った。

「私が行きます。呼ばれたら私が行きますから」
「……そうおっしゃっていただけると思っていました」

 少年は小さく息をつくと、鞄の中に箱をしまった。

「日取りはいつ?」
「陰の気が集まる頃――12月に、という話です。また詳しい日は追ってお知らせします」

 少年は鞄を肩にかけると、智恵に向かって一礼した。

「一応、お孫さんのことは報告しますから」
「…………」
「ではまた」

 短く言って、少年はきびすを返して階段を降りていった。木枯らしが吹き付ける中、智恵は青ざめたまま、いつまでもその場から動こうとしなかった。