03:まだまだ子供だから


 三子はその日、朝から憂鬱だった。もしゃもしゃと朝食を胃袋に押し込んだ後、鞄を右手に持って、靴を履いて。三子は外に出た。

「……行ってきます」
「気を付けていってらっしゃい」

 朝早く仕事に出かけた母の代わりに、祖母がわざわざ玄関まで出て見送りに来てくれたが、それでも三子の心は晴れることは無かった。

「はあ……」
『ったく、朝から面倒な子ねえ。もっとシャキシャキできないのかしら。胸躍る初登校じゃない』
『どんな友達ができるか、どんな面白いことが待ってるのか。ワクワクし放題だぜ』

 三子の周りには、終始このようなポジティブ思考な幽霊二人がいるのだから、気が滅入ってくるというもの。せめて、愚痴くらいは自由に言わせてくれ、というのが三子の切なる主張である。

『さんこ、初登校なんだから道に迷わないようにね』
『さんこ、信号赤だぞ。ちゃんと止まれ』
『さんこ、信号青よ。ちゃんと手あげなさい』

 ……本当、うっとおしくなるというもの。

「あのさー」

 ついに耐えきれなくなった三子が口を開いた。やっと反応してくれた、とニハとイチは目をキラキラさせる。

「私のこと、何歳だと思ってるの? 道に迷うような歳でもないし、信号の色を見極められない程歳でもないんだけど」
『…………』

 二人は顔を見合わせて、しばらく黙り込んだ。ようやく三子の方を向いたと思ったら、今度は照れくさそうな笑みを浮かべていた。

『あたしたちにとったら、あんたはまだまだ子供だからね』
『ついつい心配しちゃうよな。転んで泣き出すんじゃないかって』
「……本当、私のこと何歳だと……」

 三子はついつい呆れたような目になる。まさか、私が小学生の時も似たようなことを考えていたのだろうか。

『ほらほら、こんな所で立ち止まってたら遅刻するよー。さっさと行く行く』
「はいはい」

 適当に返事を返して三子は歩き出した。田舎の道のりはあまり人とすれ違うことはないが、万が一ニハたちと話している所を見られたら、三子だって嫌だ。その後はただひたすらにもくもくと歩き続けた。
 三子が新しく通う小学校は、二階建ての木造校舎だった。靴箱で靴をはきかえると、キョロキョロ辺りを見回しながら職員室へ向かう。その途中、何人かの生徒とすれ違ったが、みんな見慣れない三子のことに興味津々なようで、彼女は少しだけ居心地が悪かった。

「失礼します」

 緊張しながら三子は職員室の扉を開けた。

「あの、今日……転校してきた……」
「ああ、矢代さんね」

 応対してくれたのは、入り口のすぐ側にいた若い女性だった。といっても、職員室は一瞬で見渡すことができるほどのこぢんまりとした大きさで、教師も数えるほどしかいなかったが。

「初めまして。私はあなたの担任の小西です。よろしくね、さんこちゃん!」
「…………」

 三子は笑顔のまま固まった。

「……先生、あの……」
「ん?」

 嬉しそうに小西は首をかしげる。彼女に――初日に、こんなことを言うのは申し訳なかった。いやしかし、初日だからこそ言わなければ――。

「私の名前……みつこです」
「あっ……あっ、あらごめんなさい! 何てこと……本当に!」

 小西は見るからに慌てだした。

「……ごめんね。先生じっくり資料見てなくって。改めて、これからよろしくね、三子ちゃん」
「はい。よろしくお願いします」
『先生にも間違えられるんだねー。ちょっと気の毒になって来たかも』

 三子の周りをうろうろしながら、ニハがニヤリと笑った。
 ――ニハに言われたら、それこそ立つ瀬がなくなる。
 というより、ニハは私の本名ちゃんと知ってたんだ……。
 あまりにもナチュラルにさんこ呼びをするので、三子は絶対に勘違いをしていると踏んでいた。しかしその読みが外れ、何とも微妙に寂しくなった三子だった。

「じゃあそろそろ授業始まるから、教室にいこっか」
「はい」
「ここの子達は、みんなのんびりとしているから、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。きっかけさえあれば、きっと仲良くなれると思うから」
「――はい」

 ガチガチになりながらも三子は頷いた。切っ掛け――とは、そもそもどうやって作るものだろうか。三子が考え付かないうちに、二人は早々に教室に辿り着いてしまった。
 学年はもちろん三学年であるが、クラスは一クラスしかないらしく、三子は一年一組だった。緊張のあまり、一年一組と掲げられたプレートを睨み付けてしまう。

「じゃあ三子ちゃん、いこっか」
「はい」

 若干顔を俯けながら、三子は小西の後に続いて教室の中へ入った。皆の視線が自分に集まるのを感じた。

「今日は新しいクラスメイトを紹介します。ほら、そんなにジロジロ見ないの」

 小西はシッシと手で払う仕草をしたのち、安心させるように三子の肩に手を置いた。

「名前はー、えっと、自分で言ってもらった方がいいかな? 先生は黒板に書くから」

 小西はにこにこ笑ってチョークを手に取った。沈黙が痛い。三子は勇気を振り絞って、前を向いた。

「え……っと、西尾市から転校してきました、矢代三子です……。よろしくお願いします……」

 声が尻すぼみに消えていく。ここまではいい。問題は字だろう。
 みつこ、は確かに少し古臭い印象を受けるかもしれない。でも、名前としては一般的である。問題は――。
 チョークの音が止む。
 書き終わったんだ、と三子は覚悟を決めて目を開けた。目の前の子供たちは、どこかぼうっとした表情で黒板を見ていた。

「さんこ……?」

 誰かが不思議そうに言う。
 でも、その先は無かったことに、三子はホッと胸を撫で下ろした。さすがにもう自分たちは中学生だ。小学生じゃあるまいし、うんこなんてあだ名を思いつく輩なんて――。

「うんこ?」

 自分の頬に、一気に熱が集まるのを感じた。動揺を隠そうと下を向くが、今日に限っておさげにしているので、それは適わない。

「こら、そこ! そんなこと言わないの!」
「い、いや……つい」

 声を発した生徒が慌てたように手を振るが、小西は許さない。

「ついじゃないでしょう! 中学生なんだから、言っていいことと悪いことの区別くらいできなさい!」

 ぴしゃりと小西は言い放った。
 三子にして見たら、初めてのしっかりとした叱責だった。小学生の頃は、教師は見て見ぬ振りで、うんこうんこと追いかけ回されても、誰も彼も素知らぬふりだった。
 三子は胸が熱くなるのを感じた。だがそれは、感激か羞恥か。
 教室は、今まで以上に気まずい空気だった。生徒の気持ちも分かる、叱責してくれた教師の気持ちも分かる。だからこそ、三子も非常に居心地が悪かった。
 まるで通夜のような雰囲気に、三子は思わず絶望の表情を浮かべそうになった。けれども彼女はそれを必死に堪えながら、何とか一番後ろの席に着く。

『さーんこ』

 すぐ後ろで見守っていたニハが、三子の目の前にやってきた。彼女の机の上に頬杖をつき、三子を見上げる。

『折角なんだから、こういう時に便乗すればいいのに。うんこはうんこだけど、私はさんこ……じゃなかった、三子ですから! みたいな』
『よく間違われるんですよー。でも次にうんこって言ったら、私もあなたのことをうんこって呼びますからね、とかもな』

 イチもやってきて、隣の机に腰かけた。

「私は……そんなに器用じゃないから」

 ボソリと三子は呟いた。
 事実だった。そんな風に機転をきかせることができたなら、こんな性格にはなっていなかっただろう。いや、逆なのか。こんな性格だから、機転をきかせることもできないのだろうか。

「じゃあ授業を始めます。教科書の四十二ページからね」

 三子の暗い気持ちは置いてけぼりに、数学の授業が始まった。三子はノロノロとした動作で教科書とノート、筆箱を取り出した。

「この式に、aを代入して――」

 授業自体は、三子はついていくことができた。この学校よりも、三子がかつて通っていた学校の方が多少、先をいっていたらしい。
 ぼんやりと授業を受けながら、三子はどこかへ消えてしまいたいような気持を持て余していた。
 どこかへ……行ってしまいたい。誰もいないところにいって、しばらく一人で考え事をしたい。山に登るのもいいかもしれない。誰もいない山へ登って、雄大な景色にに見惚れるのも――。
 唐突にガラガラッと扉が開く音がした。再び一斉に教室の入り口に視線が集まる。中から入って来たのは、一人の男子生徒だった。

「すいません、遅れました」
「ようやくー? 本当、修平君は遅刻が多いんだから」
「俺が悪いんじゃないですよ。爺ちゃんに説教されてて――」
「される方が悪いんです。ほら、さっさと席につきなさい」

 小西はビシッと空いている席を指さした。丁度三子の斜め前の席だ。

「あっ、そういえば新しいクラスメイトが来たのよ。前々から言ってたと思うけど。矢代三子ちゃんって言ってね――」

 自席まで歩いてきた少年と目が合う。三子は目を丸くした。着ているものは違うが、それはついこの間三子を誘拐したしかけた男の子だった。

「お前っ!」

 突然声を上げて少年は飛びのいた。大袈裟な動きだ。周りの生徒たちも不思議そうだった。

「なに、実はもう知り合いでしたって? そういうのは後にしてくれるかなー。今は授業中。特に修平君は遅刻してきたばかりだよね? そんな身分で授業を更に遅らせるつもりかな?」

 小西の言葉には取り付く島もなかった。修平は静かに頭を下げた。

「……すいませんでした」
「よろしい。では授業を再開します」

 朗らかではあるが、時折厳しくなるらしい小西の声によって、授業は再開された。未だ興味深そうにキョロキョロ三子たちの方を向く視線はあったものの、時間が経つにつれ、それもなくなっていった。

『なになにー? さんこ、あの先生が言ってたこと本当なの? あの子に会ったことあるの?』

 ニハがウロチョロと三子の周りを飛び交った。三子としては、授業に集中したいので彼女の存在が酷くうっとおしかった。それに、幽霊である彼女と話すわけにはいかない。ただでさえ、先ほどのことで少し浮いているというのに。

『一次方程式……何だそりゃ?』

 イチの間抜けな声も耳に入ってきた。イチは、三子やニハとそう見た目は変わらないので、中学一年生の初期の数学くらいなら、解けるだろうはずなのだが。

『ねえねえ、聞いてるの?』

 ニハの声もうっとおしいが、三子は無視した。

『ねえさんこー、返事してってばー』
『やっべー、これ数学……だよな? 俺もうすっかり内容忘れてるわー』
『ねえねえねえねえ!』
「じゃあここを――」
『つーかこの教室臭くね? 誰かうんこしてるんじゃね?』
「修平君、やってくれる?」

 助かった。
 三子は思わず胸を撫で下ろした。ニハやイチの声がうるさすぎて、全く聞いていなかった。黒板を見てみても、数式は書かれていない。教科書の問題を解けと言っているのだろうか。
 なかなかあの少年の返答が無いので、三子はそっとそちらへ顔を向けた。彼は、一応立ち上がってはいるものの、ダラダラと冷や汗を流していた。

「……すいません、分かりません」
「……仕方ないわね。もう一度説明するから、その後で答えてくれる?」
「はい」

 疲れたように少年は席に着いた。真面目に前を向いているようだが、問題児であるニハは、三子とその少年の間を行ったり来たり飛び交った。その顔は……すごくゲスい。

『うっぷっぷ、あの子、分かりませーんだって、笑える。クールな顔しておきながら、分かりませーんだって、何あれ』
『仕方ねえよ……。俺も分からねえもん。そういう時ってあるよな』

 三子は今度こそ授業に集中しようと、キリッと前を向いた。その時視界の隅に、チラッと少年が映った。彼はこちらを振り返りながら、三子の方を鋭い目で睨みつけていた。
 三子は戦慄した。
 もしかして……この前私が逃げたことを怒っているのだろうか。いや、でもあの状況なら誰だって逃げるはずだし……。
 三子は何が何だか分からなくなってきて、結局数学に本腰を入れることはできなかった。