47:均衡は崩された


 三子が朝起きたとき、ニハもイチも、側にはいなかった。違和感は感じていた。今まで、二人のうちどちらも側にいない状況なんて、なかったからだ。嫌な予感が胸を占める中、朝食を口に押し込んだ。
 通学路も静かだった。いつもならば、車に気をつけろだの、もっと速く歩けだのうるさいのに、どうして今日は。
 学校についてからもそうだった。授業が始まっても、昼ご飯を食べても、掃除が終わっても、二人は現れない。
 一種の予感めいたものだった。いや、予感というよりは、胸騒ぎといった方が近いのかもししれない。
 掃除が終わり、いそいそと帰り支度をしている修平に三子は近づいた。

「に、しな君……」
「――っ」

 あからさまに修平はびくついた。だが、三子は顔を下に向けているため、そのことに気づかない。

「に、ニハ達がいなくなっちゃった……」
「…………」
「二人のこと、知らない?」
「い、いや……」

 修平はぎこちなく視線を逸らした。いつもの堂々とした態度とは大違いだ。だが、三子はその違和感に気づかず、顔をうつむけた。

「そ、そっか……。てっきり、仁科君なら何か知ってると思ったんだけど。ほら、昨日特訓してたでしょ? だから仁科君の家でこっそり修行してるのかと思って。だって、なにも言わずに急にいなくなったから、私もよく分からなくって。一体どこに行ったのかなって……」

 不安な気持ちとは裏腹に、三子の口は際限なく話し始めた。途中からは、自分でもなにを言っているのかよく分からなかった。

「お、落ち着けって……」

 慣れない手つきで修平はポンと三子の肩に手を乗せるが、三子からは明るい反応は返ってこない。

「案外、ちょっとそこらへんうろついてるだけかもしれないし。すぐ戻ってくるって」

 修平はぎこちなく慰めの言葉を口にするが、三子の耳には届かない。
 今までずっと側にいたのに、突然いなくなってしまった。それも、三子に対して一言もなく。
 ――二人が側にいないだけで、こんなにも不安になるなんて。たったの一日すら、離れていられないなんて。
 でも、だってそうだ、いつも一緒だったのだ。
 そして同時に、三子達が二人のことを認識するずっと前から、二人は側にいてくれたのだ。先生から当てられて答えられなかったことも、転んでべそかいたことも、犬に追いかけられて泣いたことも、二人は全部側で見て、そして覚えていてくれたのだ。授業参観の時も、皆勤賞で表彰された時も、母の代わりに見ていてくれたのだ。
 いつも一緒だったのに。側にいてくれたのに。どうして急に。
 胸騒ぎを感じないわけがなかった。嫌な想像ばかりが胸をよぎる。
 この前みたいに嫌な幽霊に捕まったんじゃないかとか、どこかの結界から出られなくなったんじゃないかとか、もしかして、もう成仏してしまったんじゃないかとか――。

「矢代……」

 考えられるとしたら、昨日のことしか思い浮かばなかった。
 昨日、三子だけ帰され、そのままニハとイチだけが仁科家当主と話をしていた。それまでは至って普通だったのに。
 考えてみれば、昨夜だっておかしかったのだ。
 いつもなら、子供は早く寝なさいと口を酸っぱくして言う側なのに、昨日は三子が早くに寝ようとすると、つまらなさそうにしていた。構って欲しいかのように、まるで子供のように、枕を投げたりぬいぐるみを投げたり。
 ……兆候は、あったのに。

「本当に知らないの?」

 三子は窺うように修平を見た。彼はしばらく逡巡しているようだったが、やがて観念して口を開いた。

「……俺の家に来てくれ」

 それだけ言うと、修平は学生鞄を持って教室を出て行った。三子は、わずかに不安そうに眉を寄せた後、黙って彼の後を追った。


*****


「来ると思っていた」

 三子が通されたのは、仁科家当主――孝雄の部屋だった。ものはほとんどなにもない。ただ座布団だけが、孝雄の前に一枚敷かれていた。目でその座布団を示されたため、三子はそこに腰を下ろした。
 広々とした部屋に二人きりだ。いつもならば戸惑う三子だが、今はニハ達のことだけが気がかりだった。背筋を伸ばして孝雄の言葉を待つ。
 傾く日が差し込む一室にて、しばらく孝雄は目を閉じたまま、黙り込んでいた。言うべきか否か、迷っているような印象だ。が、小さく目を開けると、彼は観念したように口火を切った。

「……あの二人は、もうこの世におらんと思った方が良い」
「――どういう意味ですか」

 さしたる動揺もなく三子は聞き返した。孝雄は一層厳しい顔つきになる。

「あの二人は、わしが除霊した」

 除霊。
 その言葉には、不穏な響きしかなかった。三子の唇は震えた。

「じょ、れいって……じゃあ、もう」
「除霊――すなわち、縁を断ち切る行為のことを言う」

 混乱する三子のために、孝雄は言葉を砕いて説明する。

「縁とは、幽霊の未練で、霊と現世とを繋ぐものじゃ。あの二人の未練はお主――あの二人はお主と縁で繋がっておった。だからわしがそれを断ち切った」
「ふ、二人は今どこに――」
「もう戻ってはこん」

 力なく、三子は再びその場にへたり込んだ。どこかで、まだ希望を抱いていたのかも知れない。きっと戻ってきてくれると。

「幽霊がこの世に留まる理由はただ一つ。未練があるからじゃ。その未練との縁を強制的に切られれば、幽霊は自分が何者であるかも分からなくなってしまう。この世に留まっている意義がなくなるからの。そのまま天へ召される者もおれば、強靭な意志の力で、自分を保ち続ける者もいる。そのどちらにも当てはまらない者は……理由なくして悪感情に捕らわれ、最悪、怨霊化してしまう。――わしがあの二人を除霊したんじゃ」

 三子と孝雄、二人の視線が交錯した。三子は見る間にぐしゃぐしゃの顔になっていく。

「ど、うして、あの二人はなにも悪いことなんてしてないのに……」
「確かに、普通の霊とあの二人は違う。普通の霊ならば、現世に留まるにつれ縁が淀み、怨霊化してしまう可能性が出てくる。あの二人はその心配もなかった。それだけ意志がしっかりしてたからの」
「じゃあ、なんで」
「お主の身が危険だったからじゃ」
「――っ」

 三子は小さく息をのんだ。
 うまく言葉を返せない三子に対し、孝雄は改めて居住まいを正した。

「お主は矢代家と志藤家の娘じゃな」
「はい」

 嗚咽を飲み込んで、三子は小さく頷く。

「矢代はともかく、志藤家は厄介な血筋でな。代々、器という体質を持って生まれることが多い」

 器。
 これも、いつだったかニハから聞いた言葉だ。
 そのときの記憶が蘇ってきて、三子は拳を握りしめた。

「器は、霊からすれば絶好の獲物じゃ。普通の人間とは違って簡単に操れるからのう。しかし、それでも志藤家は代々生き延びてきた。霊に狙われる体質でありながら、どうやってしのいできたのか。それは簡単なことじゃ。霊にとって目印となる霊力が皆無じゃからな。単純に、霊達は器を見つけることができないんじゃよ」

 一旦言葉を止め、孝雄は一息ついた。三子が話しについてきているか、確認するためでもあった。

「代々、志藤家の者は霊力を持って生まれてはこん。それは、器を体質に持つ者を守るためじゃ。霊は、霊力を持つ人間を、普通の人間とは別個の存在として認識しておる。だからこそ、霊力を持たない器は、その他大勢の人間として、霊から探し当てられることなど不可能に近いんじゃよ」
「…………」
「お主も、本来なら霊からも見つからず、平穏に暮らせるはずじゃった。じゃが、強い霊力を持つあの二人とお主が縁で繋がることで、均衡は崩された。あの二人の存在が、お主の『器』という体質を浮き彫りにしていたんじゃ」
「そっ……!」

 三子は絶句した。

「そんな、言い方って……」

 三子は、言葉にならない思いを、強く強く拳に握った。
 きっと、あの二人を前にしても、こんな風に丁寧に説明したののだろう。先の言葉も、きっとわかりやすく伝えたはずだ。それを、あの心優しい二人はどんな風に受け止めただろうか。
 そのことを思うと、三子は胸が苦しくて仕方がなかった。
 あんなにも私のことを大切に思ってくれている二人のことだ、選択肢なんて、最初からないに決まってる……!
「すまなかった……」

 もうなにも言えなくなった三子を前にして、孝雄は苦しそうに頭を下げた。

「わしには……こんな老いぼれになっても、お主らにしてやれることはそれくらいしかなかった。本当にすまなかった!」

 膝の上で握られた孝雄の拳は震えていた。
 彼が謝ることはないのに。
 それは分かっていたが、言葉にはならなかった。

「でも、希望はあるんですよね? 強い意志があれば、またあの二人は戻ってくるんですよね?」

 せめてもと三子は切に孝雄を見上げるが、彼の表情は暗いままだった。

「……難しいじゃろうな。強制的に縁を絶ちきられて、意志を保つ者は数少ない。ほとんどの霊はそのまま成仏していくし、成仏できなかった霊も、怨霊になる可能性は高い。苦しまないためにも静かに……逝ってくれればと思うんじゃが」
「…………」

 ――静かに、逝ってくれれば。
 残った選択肢を思えば、それが一番だ。成仏してくれることが一番最適なのだろう。でも。
 せめて……せめて、お別れくらい、したかったのに。
 どうしてなにも言わずにいってしまったのか。
 日が傾き、やがて夕焼けに変わり、そして完全に日が沈むまで、三子は立ち上がることができなかった。