46:大きくなったわね


 ニハとイチは、随分遅くまで仁科家にいたようで、二人が帰ってきたのは、三子が寝る準備をして、部屋の電気を消した瞬間だった。

「遅かったね!」

 暗くてよく見えなかったが、いつもの気配で分かった。三子は暗闇に向かって声をかける。

『あー疲れた疲れた』
「なに話して――」
『てかさんこ、もう寝るの? まだ九時じゃない』

 三子の声を遮って、ニハは呆れたような声を出した。子供ねえとばかり言いたげな彼女の口調に、三子は膨れた。

「最近疲れが溜まってるの。いいじゃない、何時に寝たって」
『あんたがそんなに早くに寝たらつまらないじゃない。ほら、この前買ってきた新刊読みましょうよ』
「ええ? 私もう寝たいのに」
『イチも読みたいわよね?』
『読みたい読みたい!』
『二対一』
「…………」

 この部屋の主の意見は聞き入れてもらえないらしい。
 三子は仕方なしに布団から起き上がって電気を点けた。

「……そもそも、この漫画はニハの好みじゃないって言ってたじゃない」

 漫画をペラペラめくりつつ、三子は文句を垂れた。この前、書店でこの漫画を買おうとしたとき、センスがないだの、あたしはあっちの方が読みたいだの、すごくすごくうるさかったのだ。それが、今頃一体どういう風の吹き回しなのか。

『いいじゃない。さっ、早く読みましょ』
『早くページめくれー』
「…………」

 いい加減マイペースで自己主張の激しい幽霊達に、三子も堪忍袋の緒が切れそうだ。だが、それでもついつい甘やかしてしまうのが、果たして三子の良いところなのか、悪いところなのか――。

『飽きた』

 だが、いよいよその温厚な三子もキレる瞬間がやってきた。開始五分ほどで、早くもニハとイチが根を上げたのだ。

「んなっ! まだ五分も経ってないじゃない!」
『飽きたものは飽きたの。別のことして遊びましょうよ』
「明日私学校なんだけど!」
『いいじゃんか、たまには』

 自分勝手な幽霊達に、三子はふるふる震えた。そうしてついに、手元にあった枕を幽霊達に向かって思い切り投げつけた。もちろんその枕は霊体をすり抜けるが、三子の初めての反抗と思えば、立派なものだ。

「もういい加減にして! 私、もう寝るから!」

 ふんっと鼻を鳴らし、三子は布団に横になった。電気を消すのを忘れたが、今更ながら起き上がるのも面倒だ。布団を頭から被り、あかりを追いやる。

『あっ、やったわねー、この子』
『俺たちに向かってものを投げるなんて良い度胸じゃないか』

 だが、二人の幽霊は、どうやら三子の立派な反抗は痛くもかゆくもないらしい。もちろん、物理的に当たってはいないので、痛くないのは当然のことだが。

「…………」

 それでも三子が無視していると、ポスンと布団に衝撃が来た。何事か、と一瞬三子は疑問符を浮かべるものの、すぐに無視だ無視、と目をつむった。だが、再び訪れる小さな衝撃。
 それは、定期的に訪れた。ポスン、ポスンと、音だけ聞いていれば可愛い衝撃。だが、今まさに寝ようとしている三子からしてみれば、うざいことこの上なかった。

「もう! 一体何なの!」
『あっ、やべ、さんこが怒った』
『あたし達に枕なんかぶつけるからいけないのよー』

 ニハはにんまり笑った。そんな彼女の隣には、つい先ほど三子が投げた枕がふよふよと浮かんでいた。

『ほうら』
「うっ」

 反射神経のない三子は、飛んできた枕を受け止めることができず、もろに身体に衝撃を受けた。一つ、三子のこめかみに青筋が立つ。

『なー、俺たち暇なんだよ。何かして遊ぼうぜ』

 イチの声と共に、またもやお腹に衝撃が来た。ポトリと地面に落ちたのは、三子が唯一持っている豚のぬいぐるみである。幼い頃よく一緒に遊んだぬいぐるみがぞんざいに扱われて、また一つ三子のこめかみに青筋が。

『ねえ、聞いてるのー?』
『おーい、さんこちゃーん』
「――もうっ! うるさーい!」

 三つ目の青筋が立つ前に、三子は爆発した。分厚い布団を両手に持つと、ニハ達に向かってそれをバタバタと攻撃し始めた。幽体だから物理攻撃はきかないということは、すっかり彼女の頭から抜け落ちていた。とにかく、感情の赴くまま、上へ下へ、右へ左へと布団を振り回した。

「もう、逃げんなー!」
『ちょっ……なによ急に!』
『危ないだろ!』

 暴れる三子に対し、ニハ達は右往左往した。幽体だから大丈夫というのは重々承知済みだが、ついつい反射的に避けてしまうのだ。だが、可愛らしく逃げ惑ったのもほんのちょっとの間だけだ。すぐに、「あ、そういえばあたし達、今幽霊じゃん」と端と我に返り、反撃を開始したのだ。無防備な三子に対し、枕やぬいぐるみをぶつけたりする。それほど痛みはないものの、三子は思わず高らかに声を上げた。

「ちょっ、これずるくない!? なんで私ばっかり! 二人ともずるいー!」

 ニハとイチ、どちらも一度も被害を被っていないにもかかわらず、二人は容赦なかった。
 しかし、三子が再び暴れだそうとしたとき、その声は響いた。

「三子さん! こんな時間になに騒いでるんですか!」

 ピシャリと襖が開く。三子は固まった。まさに、布団を抱えたままニハに飛びつこうとしたところだった。
 智恵は部屋の惨状を見渡すと、眉間に指を当て、重いため息をついた。

「一体何なんですか、この有様は……」
「うう……」

 三子は思わず項垂れる。布団を抱えて暴れ回ったせいで、埃は宙を舞っているし、敷き布団はぐちゃぐぢゃだし、枕もぬいぐるみも散乱しているしで、目も当てられない惨状であった。

「また虫でも出たんですか?」
「ええと……はい」
「仕方ないですね。もう退治はしましたか?」
「た、たぶん」

 目をそらして三子は答えた。智恵は一瞬逡巡したように部屋を見渡すが、やがてまた顔を引き締めた。

「とにかく、もう夜も遅いんです。早めに寝てください」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみ、お婆ちゃん」

 スッと襖が閉じられる。そのまま静かに去って行く智恵の足音を聞き、それが聞こえなくなったところで、三子はもうやく人心地ついたように息を吐き出した。

『なんか、修学旅行の夜みたいだな。枕投げしてた所、先生に怒られるって言う』

 ニシシッと笑うイチに、三子はもはや毒気を抜かれていた。怒る気力もないまま、布団を整えた。

「怒られたのは私一人だけどね」

 ぶすっとした顔で三子は言う。

「お婆ちゃんに嫌われちゃったかな……。いつもちょっと怖いし」
『なーに言ってんのよ。お婆ちゃんはあんたのこと大切にしてるわよ?』
『そうだそうだ。仁科の爺ちゃんも言ってただろ? 孫の話になると嬉しそうな顔してたって』
「それは……たまたまじゃない?」

 何かの拍子に、笑っただけだ。それがたまたま、孫についての話だっただけで。

『あんたが思ってる以上にね、みんなあんたのこと大切にしてんのよ』

 電気を消し、三子が布団に横になると、ニハもその隣に寝そべった。

「そう、なのかなあ」
『当たり前だろ』

 イチも疲れたように横になった。こうして川の字に並んでいると、本当に修学旅行の夜みたいだ、と三子はぼんやり思った。

『でも、正直さんこも楽しかっただろ? 枕投げ』

 イチは再び先の話に戻した。

「うーん、別にそんなこと……」
『素直になれって。念願だった炉? 小学校の修学旅行の時、みんなが枕投げやってる中、一人で布団被って寝たふりしてたじゃん。本当は自分だってやりたかったのに』
「な、なんでそれを!?」

 三子は思わず身を起こした。

『あんたが小さい頃からずっと側にいたって言ってるでしょ? なーんでもお見通しなのよ』
「だ、だからって……!」
『あのとき側で見てるだけなのは辛かったわあ。この子も仲間に入れてあげてー! ってどんなに言いたかったか』
『班別行動の時も、一人ハグれかけたことあったよなあ。お喋り好きのお爺さんに捕まってる場合じゃないぞ! お前の班の奴どんどん先行ってるぞ! って言いたくてしょうがなかったし』
「も、もう止めてよそんな昔のことは……」

 三子は限界まで顔を赤くすると、布団を頭まで被った。なぜそんな細かいところまで覚えているのか。三子は情けなくてしようがなかった。

『でもさ、中学校の修学旅行ではそんなことにならないでしょ』

 三子を差し置いて、二人の話はどんどん進む。

『由香里ちゃんと美樹ちゃんと仁科、それに馬場。みんなで楽しくいろんな所に行けるでしょ?』
「でも修学旅行は二年生だよ……。クラス別れちゃうかも」
『一学年たった二つしかないのよ!? よっぽど運が悪くない限り大丈夫よ』
「その前に喧嘩しちゃうかも。もう遊びたくないって思われるかも」
『心配性だなー、さんこは。喧嘩したら仲直りすればいいんだよ』
「そんな簡単に言うけど……」

 三子は唇を噛んだ。
 この年になるまで、ちゃんとした友達がいなかったのだ。仲直りの仕方なんて分かる訳もない。

『それに、新しい友達だって増えるかも知れないんだぜ。まだまだお前は小さいんだから』
「もう中学生だよ」
『そういう所が子供なんだよ』
「…………」

 したり顔で言い返され、三子は口を閉じた。どうせああいってもこう言われるだけ。この二人の幽霊に、口で勝てる者などおるまいと思ってのことだ。
 本格的にもう寝ようと思って、三子はギュッと目を閉じるが、傍らの声はそれでも止まない。

『あたし、さんことこうして話せるようになって良かったあ』

 間延びした声が耳に飛び込んでくる。

『だよな。今までは、俺たちの姿も声も、さんこには届かなかったわけだし』
「…………」
『――大きくなったわね』

 不意にニハの手が伸び、三子の頭に触れた。当然、その手はすり抜ける。

『あんなに小さかったさんこが、こんなに大きくなるなんてね』
『同時に生意気にも育ったけどな』
「どっちが生意気なの……」

 三子は思わず呟いた。傍らの二人がクスクス笑う声が漏れてきた。しかし、それ以降、彼らが話しかけてくることはなかった。