41:優柔不断の小心者
イチの姿が見えなくなった後も、三子はしばらくボーッとしていた。
……せめて、あの縁が消えるまで。イチが、成仏したと見届けるまで。
だが、三子の願いは叶わなかった。
「おい! 一体ここはどこだよ! どうして俺はこんな所にいるんだ!?」
つい今まで気を失っていた健介が目を覚ましたのだ。それとともに、一気に洞窟内が日常に戻る。
「……もうすっかり夜だな。そろそろ戻らないと」
「おい、仁科! 説明しろって!」
「うるさいな! そんなの後だ後!」
「今説明しろよ! 気になるだろ!」
ぎゃあきゃあ言い合う少年二人を尻目に、ニハは三子に近づいた。
『……さんこ。そろそろ戻らないと、お母さんたちが心配するわ』
「……うん。分かってる」
イチの縁は、まだ消えそうになかった。きっとイチは大丈夫だと、三子は袖で涙を拭った。
「帰ろう」
三子の一言で決まった。真っ暗な洞窟の中を、ニハを先頭に一行は歩き続ける。三子と修平は、ニハの案内で通るべき道が分かるのだが、健介に彼女の声は聞こえないので、彼は終始修平の服の裾を掴んで歩くこととなった。
「――っだあああ! 危ないだろ、石があるときはちゃんとそう言えよ!」
「右足にあるって言っただろ!」
「言うのが遅いんだよお前は!」
道中、騒がしいことこの上なかったが、三子はもくもくと出口を目指していた。不思議と、心は穏やかだった。……いや、何も考えたくなかったというのが正解かも知れない。
洞窟を出て、急斜面を降り。三子達は、また仁科家の神社に戻ってきた。もう夜も遅いので、子供達はどこへ行ったんだと保護は慌てているだろうが、まさか伊礼山を登ってきたとは言えないので、三人は神社の隅でコソコソ向き直った。
「じゃ、気をつけて。伊礼山に登ったことはくれぐれも内緒だぞ」
「おい。明日の朝全部話してもらうからな」
「分かった分かった。今日はもう早く家に帰ることだけを考えてくれ。神社の小道で鬼ごっこしてたら遅くなった。これでいいな?」
「はいはい。……ったく、そんなアホらしい嘘信じる奴がいるのかよ」
「うるさいな。だったら何か他に言い案があるのか?」
「知るかよ」
「何だと!?」
ついついヒートアップしてしまう二人の声に、修平の家が騒がしくなった。こんなところで三人でいるところを見られたらまずいと、二人は慌てた。
「じゃ、じゃあな。また明日。とにかく手はず通りに」
「ああ」
「矢代も気をつけろよ」
「うん。今日はありがとう」
わずかに笑みを見せて、三子はゆっくり階段を降りていった。本来なら健介も慌ててその後を追わなくてはならないのだが、なんとなく足が動かない。
「……なあ、なんで矢代、元気ないんだよ? 俺、幽霊に憑かれてるときに何かしたのか?」
「お前は何もしてないよ。気にすんな」
「しかしなあ――」
「修平! 帰ったのか?」
「ヤバっ」
修平の父、秀一の声に、健介は慌てて階段へと駆け出した。修平に無言で大きく手を振った後、勢いよく階段を駆け下り始める。
「遅くなってごめん!」
すっかり健介の姿が見えなくなってから、修平は平屋の玄関へ向かった。パッと明かりがつき、心配そうな顔つきをした両親に迎えられた。
*****
三子の方も、志藤家の神社に続く階段の下で母、理恵子に遭遇した。三子が心配で家を出たはいいものの、しかし娘が行きそうな場所など見当もつかない彼女は、行く当てもなく階段下をうろうろしていたのだ。
「三子!」
三子の姿を確認した途端、理恵子は泣きそうになったまま走り出した。そして思い切り抱きしめる。
「三子! 一体どこに行ってたの!」
「……ごめん、お母さん」
「怪我がなくて良かった……。痛いところはない?」
三子の頭を撫でながら、理恵子は上から下まで彼女を見つめた。三子は小さく首を振った。
「良かった……。さあ、もう帰りましょう。お婆ちゃんも心配してたのよ」
「うん……」
理恵子は三子の手をしっかり繋ぎながら、ゆっくり階段を上り始めた。
「お願いだから、私に黙っていなくならないでちょうだい。帰るのが遅くなるときも、電話一つで良いから、連絡が欲しいの。お婆ちゃんに伝言でも良いわ」
「うん」
そうしていつもの二倍もの時間をかけて階段を上った後は、カンカンになった智恵が待ち望んでいた。いつも以上に眉間に皺を寄せ、まるで三子を睨み付けるかのごとく見つめた。
「一体今日はどこへ行っていたんです」
底冷えのする声に、三子は反射的に背筋を伸ばした。
「あっと……友達と、遊んでて」
「こんな時間まで?」
「夢中になってたら、気づかなくて……」
いつもと違って、悲しそうに俯く三子に、智恵は片眉を上げた。しばらく押し黙り考え込むが、やがて思いため息をついた。
「……分かりました。今日のところは、もういいです。これからはちゃんと気をつけるように」
「はい」
「三子、手を洗っておいで。ご飯はもう作ってあるわ」
「うん」
――いつもの日常が帰ってきた。
三人で食卓を囲んで、お風呂に入って、歯磨きをして、布団にくるまって。
でもそこにイチはいない。三子だけが分かっていた。幽霊でも、身体が透けていても、大切な友人が、一人いないのだ。
家の中が寝静まった頃、三子はむくりと起き上がった。
そういえば、思い当たることがあったのだ。ニハもイチも、落ち込んだときは必ずそこへ行く傾向があったな、と。
どうして彼らがそこに行くのかは分からない。でも、そこへ行けば、このもやもやも収まるだろうかと、三子は半ば縋る思いでもあった。
静まりかえった廊下を、三子はそろそろと歩いた。祖母の下駄を履き、外へ出る。もう随分秋も深まってきた夜の空気は、三子を芯に凍えさせるには十分の温度だった。
『…………』
三子の後ろからは、ニハが黙ってついてきていた。振り返らずとも三子はそのことが分かった。長年の勘だとでも言うのだろうか。そして今、こんな夜更けに自分をここへ駆り立てる思いは、同じく勘なのか、それとも――。
「うっ……」
三子は口元を手で押さえ、立ち止まった。
「な、なんで……」
最後まで言えず、三子の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。もう泣くことはないと思っていたのに。
『ごめんな』
神社の裏手の石――三子達が初めて出会った場所に、イチは立っていた。
『やっぱ俺、優柔不断だわ。楽になりたいけど、お前達のことも忘れられないんだよ』
だが、そう言うイチの顔は、晴れ晴れとしていた。こっちの気も知らないで、と思わずニハは駆け出す。
『〜〜っ、馬鹿! じゃあなんですぐに出てこなかったのよ!』
『あ、会わせる顔がないだろ……。あんな感じで別れたのに』
『バカバカバカ! あんたほんっとにバカ! 優柔不断の小心者!』
『んなっ、そこまで言わなくても良いだろ!』
あまりのバカバカ連呼に、イチも目を剥く。だが、すぐに正気に返ると、気まずそうに頭をかいた。
『やっぱ、俺にはさんこ置いてくことなんかできねーなーって思ってな。……それに、さんこだけじゃなくて、ニハも独りぼっちにもできねーし』
『な、何言って――』
『俺がいなくなったら、お前、寂しがるだろ? なんだかんだ、今まで幽霊二人でやってきたわけだし。俺一人、天国でのうのうと暮らすなんてできないだろ?』
ニシシッと歯を見せて笑うイチに、ニハは殴るふりをして見せた。
『馬鹿ね、あんたは地獄よ』
『ひっでー! 洒落になんないこと言うなよ!』
反射的に頭をかばうイチに対し、ニハは真面目な顔で仁王立ちになった。
『それにね! あんな馬鹿みたいな奴にむざむざとやられてんじゃないわよ! なっさけなー! それでもあんた、あたしの子分なの!?』
『おいっ! いつから俺はお前の子分になったんだよ!』
『あんたが生まれたときからに決まってるでしょ!』
『何の権限があってお前がそんなこと決めるんだよ!』
くだらないことでニハとイチは口げんかしていた。それが、どうしようもなく懐かしい。
「〜〜イチっ!」
思わず三子は駆け出した。そして高ぶる感情の向くままにイチの胸に飛び込む。――が、当然すり抜けた。支えを失った三子は、無様に地面にぶつかる。受け身も取れなかった三子は、手のひらと両膝、一度に怪我することとなった。あまりの痛みに、反射的に三子の目に涙が浮かぶ。
『っとに、この子は鈍くさいんだから……』
『俺たちには触れないってのは、もう十分分かってたはずだろ?』
「イチ〜〜っ!」
『はいはい』
嬉しいやら痛いやらで、思わず泣き出した三子の前に、イチは跪く。その身体はすり抜けてしまうことは分かっていたが、それでも両腕を広げ、その中に三子を閉じ込める。
――こんなの、子供だましだ。
イチはふっと自嘲気味に笑った。
その手は、肩は、頬は、決して触れることはできない。そんなことは分かってる。でも、ぬくもりは感じられるような気がした。自分に向けられている、温かなこの感情のぬくもりは。
幽体だから、涙は流れない。でもきっと今、自分が生きていたとしたら、涙が流れているのだろうと、イチはそう思った。