40:さんこを頼む
塊から何かが腐ったような腐敗臭が漂った。修平は思わず鼻を押さえるが、霊体である三子はイチの側から離れようとしなかった。
「さんこ、早くここから逃げて!」
慣れない人間の身体で、ニハは三子の元へかけていった。力尽くでも羽化しようとしているイチから三子を遠ざけたいものだが、現在霊体である三子の身体は、どうしても触れられない。
「さんこ!」
『ニハ……』
「んもう! 交代するわよ!」
呼びかけても、いちいち反応が薄い三子に苛立ち、ニハは幽体の三子を抱え込み、交代した。
『仁科、無理矢理にでもさんこを連れて行ってよ!』
実体のある人間であれば、修平でも三子を連れて行くことができる。ニハはこの場から早く三子を連れ出したい一心だった。だが、三子の方はそんな彼女の心境を無碍にするばかりだ。
「私……ここにいる。イチの側にいるよ」
三子は両腕を広げ、塊をかき抱いた。気を抜けば、その腕はすぐにでも塊をすり抜ける。触れることは決してできないはずなのに、不思議なことに、その接触している部分から、なにかが感じ取れるような気がした。
『な、何言ってるの……! それはもうイチじゃないのよ!? 怨霊にイチの意識なんてないんだから! 人間も幽霊も手当たり次第に攻撃されて……。あたし達みんな……』
顔をグシャグシャにして、ニハはそのまま崩れ落ちた。
『ど、どうしてそんなこと言うのよお……!』
まるで幼い子供のように、天に向かって叫ぶ。
『あたしが……あたしが、どんな思いで今まで――』
声に鳴らない思いが、ニハの身体を駆け抜けた。
『みんな自分勝手すぎるのよ……。イチだって、なんであたしに相談してくれなかったのよ。なんで一人でこんな所まで来てんのよ。なんであんな奴にこんな姿にされて……』
「……ニハ」
『あたしだって相談に乗ってあげられたのに。どうにもできなくたって、聞くぐらいはできたのに……』
「私、自分のことしか考えてなかったね。二人が何考えてるのか、考えようともしなかった」
三子は穏やかに笑って、ニハを振り返った。彼女の腕の中の塊からは、もう半分以上『中身』が姿を現していた。もうイチですらない、何か。きっと声をかけても、それからは反応は返ってこないだろう。ただ行き場のない強い憎しみだけが、溢れ出ていた。
『仁科、もう行って』
ニハは力なく呟いた。修平はわずかに身じろぎをする。
「お前らを残していけるわけ――」
『もう、いいわよ。あたしたちは、ここで……』
「なに、諦めて……! おい、矢代! 行くぞ!」
修平は三子の腕を取り、力強く引っ張るが、三子は頑として頑として動こうとしなかった。
「イチ」
ついに塊から半身が出てきた。悲鳴ともうなり声とも分からない何かが『それ』の口から出る。目は落ちくぼみ、頬は痩せこけ、ただただ彼の周りには悪しき気配が漂っている。
徐に開いた口からは、彼の叫びが轟き、洞窟中が振動した。叫びと共に、彼の霊力が反応し、それが漏れ出しているのだ。そのとてつもない霊力の大きさに、思わず修平はたじろいだ。
「おい……このままここにいたら、本当にヤバいぞ」
修平は失神している健介を抱え、再度ニハにも三子にも言うが、彼らは見向きもしなかった。
『い、イチ。あたしのこと、分かる?』
震える声でニハは『それ』に手を伸ばした。ニハの声に反応するかのように、『それ』も手らしきものを伸ばす。指先が触れあった、そう思った途端、ニハの口からは、堪えようもない悲鳴が上がった。
『あああああっ!』
――萎れていく。
まさにそれだった。まるで花が水分を失うかのように、ニハの身体から霊力が吸い取られ、小さく、補足、彼女の身体は萎れていく。
「ニハ!」
三子は思わず二人の前に飛び出した。といっても、ニハもイチの身体も通り抜けているが。
「私の中に、入って」
思わず三子はそう口走っていた。彼女自身、なぜそんなことを言ったのかも分からない。だが、それを口にした途端、三子はなぜか唐突に腑に落ちたような気がした。ああ、これが正解だったのだと。
「矢代!」
『さんこ! 駄目よ、もうイチは駄目――!』
遠くから二人の声が聞こえてきた。だが、三子は振り返りもせず、イチの前に身体を預けた。
――自分の前に、餌が舞い込んできた。
怨霊となったイチの感覚としては、そうだろう。怨霊のままでは大して力もふるえないが、人間の姿では全くもって違う。体力の問題やや地面しか歩けないという制約はあるものの、生命力に関係なく霊力を放つことができ、かつ錯乱する思考を制御することができる。
イチは迷いなく三子の中に飛び込んだ。いつものように、三子はイチが入ってきた途端、自身の魂が外に押し出されるような感覚を味わった。だが、どうしてか三子はすんでの所で踏みとどまった。必死になって自分の身体にしがみつく。そうすることが、正解のような気がしたのだ。
『三子』の身体の中に、イチと三子、二つの魂が入り交じっていた。どちらにも制御することのできない『三子』の身体は、体内で暴れる二つの魂にもがき苦しんだ。何度もえずき、身体を丸める。
三子は、遠く感じる意識の中で、イチらしきものを見つめた。それは、長くて太い、蔓のようなもので周りを覆われていた。その蔓は、腐り果て、見ている今にも朽ち果てそうな惨状だった。三子は意識を伸ばして、その蔓に触れる。
『あ……』
その瞬間、三子の中に、様々なものが流れてきた。
走る、遊ぶ、家族、修行、辛い、思い出、楽しい、山、痛い、怖い、滝、石――。
これは……記憶? 私のじゃない。これは――イチの?
記憶の欠片か、それとも思念か。曖昧な境界線上を、三子はたゆたっていた。
まどろみの中で、三子は一つ一つの記憶を紐解いていった。ただの言語や感情でしかなかった彼の記憶が、色鮮やかに目の前に映し出される。
――鬼ごっこは楽しかった。いつも俺は逃げ切ってたし、気持ちが良かった。
修行は厳しかった。痛いし、怖い。劣等感もあった。あいつには才能があって、俺にはない。
でも楽しかった、みんなでいるときは。修行のときは厳しいのに、みんなでいるときは、お父さんも優しかった。よくお母さんに怒られてた。
非日常にワクワクしていた。ちょっとだけ、抜け出すだけのつもりだった。すぐ帰るつもりだった。でも、気づいたときにはもう遅かった。
痛かった。怖かった。でも、守りたかった。俺はもう無理だった。でも、こいつだけは守りたかった。
「浄霊、か……?」
『三子』の耳が、修平の声をとられた。
「信じられない……。あいつ、浄霊ができるのか?」
除霊も浄霊も、霊力がなければできない。矢代は、霊力がないはずなのに――。
呆気にとられる修平を余所に、『三子』の身体はまばゆいばかりの光を放っていた。ゆっくりと、『三子』の身体から、イチの身体が出てくる。もうその身体に、どす黒い縁はなかった。三子同様発光する彼の縁は、天へ向かって真っ直ぐに伸びた。
『う……』
『三子』の身体からイチが完全に離れかけたとき、再度、一度だけ三子とイチの思念が繋がる。
『守りたかったんだ』
うすらぼんやりした意識の中、イチは口と思念、両方で三子に語りかけた。
だってお前は、俺の大切な……。
分かってる、分かってるの。
三子も思わず頷く。
だってあなたは、私の大切な……。
自分の声が遠い。
温かい思念が、ヴェールのように三子の思考を覆った。三子が、『三子』として目を開いたとき、全ては終わっていた。目の前には、力を無くした人形のように、四肢を投げ出したイチが倒れていた。
「何か、大切なことを思い出したような……」
三子は思わず呟くと、糸が切れたようにその場にへたり込んだ。思わず修平が駆け寄るが、三子はボーッとしたままだ。まるでもやがかかったような自分の頭に、手を当てる。
「おかしいな。私、別に忘れてることなんかないのに……」
『馬鹿ね』
イチの側に座り込み、彼がまだ「生きている」ことを確認したニハは、半笑いのような顔で三子を振り返った。
『忘れていたことがあったとしても、そのことに気づかないのは当然じゃないの、忘れてるんだから』
「そ、そっか……」
なんとなく釈然としない思いで三子は黙り込んだ。しかしすぐにハッとしてイチに駆け寄った。
「イチは!?」
『大丈夫、気を失ってるだけ。じきに目を覚ますわ』
「そっか……。ニハは大丈夫? 身体、なんともない?」
『大丈夫』
『う……』
イチが、小さなうめき声を上げた。三子とニハは、思わず彼の顔を覗き込んだ。
「イチ!」
『……あっ』
イチは、うっすらと目を開けた後、またすぐに目を閉じた。眉間には皺が寄っている。どこか具合でも悪いのか、と三子が顔を曇らせる中、ニハは意地悪な顔で腕を組んだ。
『今更狸寝入りしても遅いっつーの。どうせあんた、怨霊になってたときの記憶も残ってる口でしょ? 今からみっちり言い訳でもしてもらおうじゃないの』
「い、イチ、そうなの!? 全部覚えてるの!?」
『…………』
『こらっ、返事くらいしろ!』
虫の居所が悪いニハは、照れ隠しにイチに霊力をぶつけた。うわっとイチは情けない声を上げて飛び上がる。
『なっ、何するんだよ、病み上がりの俺に!』
『なーにが病み上がりよ! 全部自分が引き起こしたことでしょ!? さんこにも仁科にも迷惑かけて!』
『そ、れは、本当に悪いと思ってるけど……!』
羞恥と申し訳なさに、イチがそっぽを向くと、彼の視界に、修平の足が映った。
「イチ」
彼は一歩一歩近づき、ついにはイチの目の前で泊まった。
「感動の再会はまだだ」
『はあ……?』
「お前、成仏したいのか?」
修平の静かな声に、イチは虚を突かれたように目を見開いた。
「今なら、この縁を辿っていけば成仏できる」
イチを真っ直ぐ見つめたまま、修平が指さした先には、穏やかな光が天へと続いていた。あまりにも遠すぎるため、その先はどうなっているかは分からない。そしてその光は、イチの身体から伸びていた。
「ただ、この機会を逃せば、次はどうなるか分からない。お前の霊力は強い。俺たちが容易に浄霊できるとも思えない。そうなると、また怨霊になるかもしれないし、一生現世に止まり続けないといけないかもしれない。決めるのはお前自身だ」
息継ぎもなく説明され、イチは半分彼の話を理解することができなかった。だが、彼が言いたいことはよく分かった。
己の身体から伸びる縁。それを、イチは黙って見つめた。
『綺麗、だな……』
「それがお前の縁だからな」
『俺の、縁か』
イチは感慨深く呟いた。そして拳をギュッと握る。
『分かってたんだ。俺の縁は、生きたいという思いじゃない。さんこの側にいたい。ただそれだけなんだ』
「わ、たし……?」
思わず三子は口を挟んだ。
「私のせいで、イチは辛い思いを――」
『違う!』
イチは強く首を振った。
『お前の……お前のせいじゃ――』
苦悩しているようだった。自分でも何が言いたいか分からず、イチは混乱したように頭を抱えた。そんな彼を見かねて、ニハはふっと息をつくと、イチの前に立った。
『さんこは、これからもあたしがずっと見守っていく』
「ニハ……」
『だから、イチはこの子のこと、あたしに任せて行っていいのよ』
『…………』
イチは、三子と縁とを、交互に見つめた。彼の眉間には、深い深い皺が刻まれている。
『……さんこを頼む』
やがて、イチはそれだけ言った。ニハは頷き、三子は言葉すらかけられなかった。
『さんこ、ごめんな』
「――イチ」
お別れが、謝罪の言葉だなんて。
もっと言いたいことがあったはずなのに。
三子の口からは、何も出てこなかった。口を開けても、何かが詰まったような異物感があり、声を出せない。
『じゃあな』
イチは視線を逸らしたまま、ふっと浮き上がった。縁を頼りに、端へと登っていく。
「…………」
三子は泣きそうな顔で彼を見守った。
引き留めることは、できなかった。