39:本当に馬鹿な子


 おぼつかない足取りで、修平も塊にたどり着いた。無意識のうちに手を伸ばし、塊に触れる。その手はすぐにすり抜けたが、なんともいえない不快感が身体を襲った。

「これが……イチ? いや、でもまだ手はあるだろ? なんとか……なんとか、して」

 拙い言葉で、修平はニハに話しかけた。今までだって、彼女は飄々と自分のことをからかってばかりいたのだ。きっと今回だって、明るい顔で解決策を見いだして――。
 だが、ニハは黒い塊に顔を埋めたまま声を絞り出した。泣き笑いのような声が漏れ出る。

『仁科は……見たことがないの? 怨霊化した霊の姿』
「なっ……!」

 修平は言葉を失った。まるで……彼女の口ぶりは、まるで。

「――イチが、怨霊化するって言うのか!?」

 思わず修平は叫んだが、ニハは特に反応しなかった。ただ、塊に回した手の力を強める。

『この黒い塊は、淀んでしまったイチの縁よ。ここまで変色してしまったら、もうどんな霊能者でもなにもできない。イチは怨霊になるわ』
「その通り』

 ずっと話を聞いていた『健介』が高らかに叫んだ。

「珍しく話の分かる霊じゃないか。お前達、元は霊能者か何かだったのか?』
『あんたに関係ないでしょ』
「つれないな。まあお前の段違いの霊力を見ても分かる。生前は名のある霊能者だったのか』

 サッと手を広げ、『健介』は弾丸のように早い霊力を乱射したが、ニハは霊力の壁で相殺する。微かに残る煙だけになってしまった己の弾丸を見て、『健介』は口元を歪めた。

「だが、霊になってしまえばそれも終わりだ。霊力は生命力と通じており、使えば使うほど体力を消耗する。以前のようには力をふるえないだろ?』

 『健介』は右手をかざした。霊力が丸い玉となって二人の元に飛んできた。咄嗟のところで修平は避けたが、ニハは、イチの前から動かなかった。

「ニハ!」
『……大丈夫よ、これくらい』

 ニハの身体からは白い煙が立ち上っていた。見た目には変化はない。だが。

「――お前だって消滅するのは嫌だろ?』

 場の空気が冷える。修平も背中に悪寒が走った。霊と現世とを繋ぐ縁が消滅してしまえば、その霊は、永遠に現世を漂う魂だけの存在になってしまうのだ。何度も攻撃されれば、縁が消滅するのも時間の問題だ。

「どうだ、お前、我々の仲間にならないか?』
『はあ?』

 一旦休戦を申し出るかのように、両手を掲げた『健介』に、ニハは思い切り不審な目を向けた。

「我々にはまだ仲間が必要だ。しかしお前は知能も霊力も十分だ。即戦力にもなる。若くして死んでしまってさぞ無念だっただろう。我々の仲間になれば、また人間に戻してやることも可能だ』
「な――っ、ど、どうやって!?」

 ニハの代わりに修平が聞き返した。肉体が滅んでしまった以上、霊が人間に戻ることは不可能だ。
 だが、『健介』は修平の問いには答えず、ニハに一歩近づいた。

「その霊も言っていたぞ。「人間になりたい」とな。だから力を貸してやったんだ』

 今は黒い塊となってしまったイチを指さして『健介』は言う。ニハの身体が微かにこわばる。

「どうだ。悪い話じゃないだろ? 我々の仲間になれば――』
『違う……違うのよ。あんたはイチの言葉を勘違いしてる』

 ニハは『イチ』を振り返った。おどろおどろしい黒い塊だが、今はそれが哀れに思えた。

『イチは人間になりたいなんて、そんなこと望んでない。ただ……普通の人みたいに、走ったり泳いだり、そんな簡単なことしか望んでないのよ』
「ははっ、意味が分からないな。お前が言うその「簡単なこと」は、結局は人間にならなければ叶えられない夢ではないか』
『全然違うわよ』

 ニハは吐き捨てるようにして言った。

『人間になりたいって願うのと、人間みたいに走りたいって願うのは、全然違う。イチは単純だから、その先の願いよりも、目先の願望に目が向いちゃうの。本当に馬鹿な子』

 ニハは再び塊に手を伸ばす。透けた身では、抵抗も何もない。しかし、通り抜けた先で、イチから何かを感じ取れるような気がした。

『あんたがけしかけたのよ。人間にならないとその願いは叶わない。人間になるためには、どうすべきかってね』
「馬鹿な。そう願いたいのは分かるが、いささか飛躍しすぎてはいないかね?』
『分かるわよ』

 ニハはそっと手を下ろした。もう手遅れなのだと分かっていても、そこからは離れられなかった。

『単純で、それでいて純粋な子だもの。あんたの言葉に混乱して、自分が分からなくなって、その弱みにつけ込んであんたが何かしたんだってことは分かるわよ!』

 ニハは丸い霊力の塊を『健介』に向かって投げた。それは、そのまま『健介』にぶつかるかに見えたが、その手前で失速し、地面に激突した。辺りにはもくもくと砂煙が舞い上がる。

『それにね。あんたは大きな勘違いをしてる。あんたが言う「人間になる方法」っていうのは、怨霊になって、人間を襲えってことでしょ? 馬場やさんこみたいな、操るに最適な人間を』

 目をこらし、ニハは砂煙を睨み付ける。

『あたし達にとってはね、さんこが何よりも大切な存在なの。そんな子を放り出して、あたし達が逆にさんこを襲うような存在になる? ――はっ、馬鹿にするのもほどがあるわ』
「器か』

 短く呟き、『健介』は砂煙の中から姿を現した。もちろん無傷だ。ニハの目的は別にある。

「ただの足手まといに情を抱いたか。あいつをうまく活用できるのは寿霊じゅれい様だけだというのに』
『さんこをものみたいに言わないで欲しいわ!』

 再び煙幕のように霊力を爆発させるニハに、『健介』は片眉をつり上げた。

「雑魚霊風情が気に食わん……! 長い間人間と共にいたせいで、区別もつかなくなったか? 所詮お前は無力な低級霊だっ!』

 『健介』が右手を掲げ、頭上で大きな霊力の塊を形成する。咄嗟に修平は霊力で壁を作り、塊にぶつけた。修平の力を遙かに凌駕する『健介』の塊の前では、わずかにその軌道をずらすことしかできなかった。

「馬鹿野郎! 反撃くらいしろ!」

 もくもくと上がる砂煙の中に、わずかにニハの姿が確認でき、修平は怒鳴るようにして言った。

『でも……それじゃ馬場の身体が』
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」

 三子の身体を支え、修平は立ち上がった。ニハが『健介』の気をそらしている間に、修平が三子を救出する算段だったのだ。意識はもうろうとしているようだが、三子の足取りはしっかりしている。このまま脱出できるか、と修平が顔を上げたとき、その視界の隅に、『健介』の靴が目に入った。

「小物が一匹見当たらなくなったと思ったら、こんなところにいたのか』

 ハッとして修平は顔を上げたが、すぐに全身に衝撃が測り、気づけば数メートル後ろに吹き飛ばされていた。地面に頭をぶつけたのか、目の前がチカチカする。

「に、仁科君!」

 三子は思わず彼に駆け寄ろうとした。だが、その行く手を『健介』が阻む。三子の細い首を、まるで生け捕りするかのように、片手でガシッと掴んだ。

「お前は寿霊様の器となるのだ。大人しくしてもらわねばその身体、想像を絶する痛みにもだえ苦しむことになるぞ』
「うっ……」

 息苦しさに顔をしかめつつ、三子は『健介』を見た。
 ――私よりもわずかに高い背丈。でもきっとこの手は振りほどけない。
 三子は冷や汗を流しながら、ぎゅっと目をつむった。脳裏に、先ほどの修平の言葉が浮かんだ。
 ――物理攻撃だ。あいつは、幽霊でいることに慣れすぎて、人間の身体というものが分かっていない。
 非力な三子の頭に、物理攻撃は、一つしか思い浮かばなかった。

「はっ……〜〜っ!!』

 三子が行動を起こしたとき、声もなく『健介』はその場に蹲った。まさか、霊力以外で人間風情に攻撃されるとは思ってもいなかったのだ。その油断が隙を生んだ。まさか……まさか、生前でも警戒していた金的攻撃が、今更ながらに自分の身に降りかかるとは思ってもいなかったのだ!
「お……のれえええ!! 許さん、許さんぞ貴様あああっ!』

 羞恥と怒りに顔をどす黒く変色させながら、『健介』はその場にのたうち回った。そして同時に、健介に憑依していた霊は、無意識のうちに彼の身体から飛び出す。想像を絶する痛みに、反射的なものだった。
 修平は、咄嗟に駆け出すと、健介の身体を確保し、体勢を整えた。またいつ何時健介の身体を乗っ取られるか分からないのだ。そして三子はというと――。

『さんこ! こっちに!』
「ごっ、ごめんなさいーっ!」

 三子は半泣きになりながら、呼ばれるがままにニハの方へ走っていった。健介を乗っ取っている『中身』が悪い奴だということは分かっているものの、健介の身体を傷つけていることには変わりなく、ものすごく申し訳なかったのだ。男の誇りともいえるものを蹴りつけるなんて!
『さんこっ!』
「ニハ――っ」

 ニハと三子の視線が交錯する。それだけで、三子は彼女が何を言いたいのかよく分かった。

「うん!」

 三子は勢いよくニハの腕の中に飛び込んだ。痛みはない。ただ、重力から解き放たれた、奇妙な感覚を味わった。

「形勢逆転ね!」

 仁王立ちをし、『三子』の身体に入ったニハは、高らかに叫んだ。

「ただの霊体になった今のあんたは無力でしかないわ! この手であたしが地獄に送ってやる!」

 ニハは大きく手を掲げ、今は無防備でしかない霊に向かって霊力を投げつけた。それは大きく弧を描いて飛んでいき、盛大な爆発を起こす。

「よくもイチをあんなにしてくれたわね!」
『くっ、あああっ……!』

 煙に塗れながら、霊は洞窟中に轟く悲鳴をあげた。しかしその間も、ニハは攻撃の手を休めない。

『に、ニハ……』

 ふよふよと漂う霊体の三子は、思わずニハに声をかけた。彼女が言わんとしていることなどとうに分かっているニハは、静かに首を振る。

「ここでこいつを見逃しても、またやってくるわよ。きちんと黄泉へ送らないと、こいつは何度でもやってくる」

 だが、三子だけでなく、修平も文句があるようで、ニハに向かって叫んだ。

「おい、ニハ! 適度ってものを考えろ! 洞窟が崩れるだろ!」
「あっ、ヤバっ……」

 ニハは慌てて手を止めた。幸い、洞窟の天井は崩れていないものの、地面は酷い状態である。いつそこから亀裂が入り、天井へと被害が向かうかは分かったものではない。
 仕方なしに、ニハは単身砂煙の方へ移動した。攻撃できないのなら、霊力を使って拘束するしかないのだ。だが、砂煙の中を見渡してみても、あの霊はいない。ニハが不審に思ったとき、彼女の頭上から声が響き渡った。

『馬鹿め、油断したな!』

 ニハが二発目の霊力をぶっ放したとき、彼はすでに砂煙の端に移動していたのだ。辺りに立ちこめる粉塵のせいで、ニハはそのことに気づけなかった。
 霊は素早い動きで天井に開いた割れ目まで移動した。彼に向かって霊力をぶつけることもできるが、そうすればこの洞窟はひとたまりもないだろう。

『時が来たようだ』

 割れ目の手前で一旦立ち止まり、霊は振り返った。

『「それ」はもうすぐ羽化する。かつての仲間同士、せいぜい涙ながらに戦ったらいい』

 高らかに笑い、霊はそのまま外の世界へ飛び立っていってしまった。三人は同時に振り返った。彼が何を指して先の台詞を放ったのか。薄々分かっていたが、直接目にするまで、理解したくなかった。

『く……あ……』

 小さなうなり声と共に、メキメキと何かが壊れるような音がする。かつてイチだったその黒い塊は、まるでサナギから蝶へ羽化するかのように、ゆっくりと蠢いていた。